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ある探偵小説マニアの日記(その10)by真田啓介

【以下にご紹介するのは、「探偵小説の愉しみ」と題して私が昔書いていたノートの記事です。今から40年近く前、一人の若者がどんなミステリ・ライフを送っていたか、おなぐさみまでに。】

■ 12/25 本日、HMM発売。今月の掲示板にはとくに目ぼしい記事なし。
 ファンジンのコーナーで、P・マクドナルド、ノックスらを取り上げている雑誌が紹介されている。何とか入手したいが、35部という部数ではどうか。copyでも手に入れられぬものか。
 同じページで「謎謎」の4号も紹介している。不思議なことにけっこうほめてある。
 HM文庫近刊予告は、「皇帝のかぎ煙草入れ」に続いて、カー「ハイチムニー荘の醜聞」、スタウト「罪を見のがせ」(あまりよい訳題ではない)等。

■ 12/26 赤沼三郎「悪魔黙示録」(幻影城No.35)
 250枚の短かめの長編。今なら中編の部類に入れられてしまうかもしれない。昭和13年「新青年」増刊に発表。
 これもなぜか心をひかれ、読まないでいることが気になっていた作品の一つ。この1、2号後の「幻影城」の月評で栗本薫が「格調の高い英国風の本格物」と評していたのが記憶に残っていたせいもあったろう。
「格調の高い英国風の」というのは持ち上げすぎのきらいもあるが、その気配は漂っているといっていいだろう。発表年とか枚数の制約とかを考えれば、最近の安手の推理小説なぞよりよほど読みごたえがある。
 ただ、本格物とはいっても、探偵小説的趣向には取り立てて見るべきものがない。犯人は何となく見当がついてしまうし、トリックというほどのものもなく、論理的興味にも乏しい。しかしそんなことを言っていったら、「グリーン家殺人事件」だってそうした面ではあまり取り柄がないのである。
 本格物の一つのタイプには、雰囲気を味わえればよいものがある。この作品もそうした種類のものなのである。
 発表年を考えればやむをえまいが、旧式の文章とスタイルにはちょっと困る。
 犯行場面や告白書など、「悪意」を描く部分には生彩があるようだ。

■ H・F・ハード「蜜の味」
 ホームズのパロディというべきか、パスティーシュというべきか、ちょっと判断に困る。カバー裏の内容紹介には「ホームズ・パスティシュの傑作」とある一方で、解説者はパロディであるとしている。両者の境界線上にある作品のように思うが、この種のものとして傑作の部類に属する。
 登場人物も少数、事件も単純だから、ああなってこうなってという物語展開の興味には乏しいが、それだけに「ホームズ」がじっくり書き込まれており、ホームズ・ファンにとってはその方が楽しい。そもそも原典の面白さじたい、シャーロック・ホームズその人の魅力にその大部分を負っているのだから。ホームズ譚は、探偵小説であるよりも先に、シャーロック・ホームズ物語なのである。
 同じ意味で、レックス・スタウトの作品は、まずネロ・ウルフ物語である。この辺の消息を、以前「人物小説」と「事件小説」という粗雑な分類で考えてみたことがある。前者はホームズものやウルフもの、後者はチェスタトンやカーの作品、といった具合に。ただ、チェスタトンの作品は単純にそう割り切ってしまえるかどうか、今となっては疑問がある。

〇「仕事というのは、不愉快な問題や厄介事から逃れる最良の逃げ場ですからね。」(p47)
~原典の「仕事は悲しみを紛らす最良の薬だよ、ワトスン。」
 シャーロック・ホームズ・スクラップ・ブック(HMM)では、このセリフに対して「度しがたいとはこの男のことだ!」というコメントがついていたと記憶している。
〇「ほかの多くのものごと同様、推理小説も今は堕落してしまいましたね。推理小説というのはもともと、常識と、鍛えられた洞察力と、そしてものごとを整理することへの辛抱強い希求、これらが三拍子そろったものだったのです――法的な罪科を明かすことがその目的というわけではなかった。そうではなくて犯罪は決して勝利をおさめないことを示すのが目的だったのです。つまり、真の知性と洞察力はいつも秩序と正義の側にあることを証明するものだったのですよ。」(p98)
 この作品が発表されたのは1941年である。1982年の今、我々は何と言うべきか。
〇「こういう言い方はいかにも感傷的に聞こえるでしょうが、シルチェスターさん、私のことを感情のない、冷酷で無責任な人間だとは思っていただきたくありません。」(p193)
 たしかに! ホームズの魅力は、機械のような分析・推理能力やエキセントリックな性格にだけあるのではない。一見とっつきにくい冷たい外面の底にある人間らしい感情、モラル、責任感。そうしたものがなければ、彼もただ頭のよい変わり者であるにすぎない。
〇「シャーロック・ホームズ」という名を聞いたのは初めてであると「私」が告げ、ホームズがびっくりするとともに機嫌を悪くして立ち去ってしまう幕切れは、なかなか気が利いている。「私」をひどく人付き合いの悪い、自分だけの殻にこもった人間として設定しているのは、この幕切れを準備する伏線でもあった訳だ。
〇解説ではホームズのパロディ、パスティーシュを要領よく分類整理している。あげられている作品は大体持っているので安心する。
Cf、新聞書評(10/10)

■ 通信3通
〇T氏へ、本は職場あてに送ってくれるように 12/27
〇「Annual Proceedings of ――」の申込み 12/27
〇「ミステリ・アヴェニュー」の申込み →年明け

■ 12/27 映画「八つ墓村」を見る(TV放映)
 昭和52年松竹作品、橋本忍脚本、野村芳太郎監督。 渥美清(金田一耕助)、小川真由美(森美也子)、萩原健一(寺田辰也)、山本陽子、中野良子、山崎努、等。
「八つ墓村」は原作じたい本格探偵小説というよりは伝奇ロマンの色彩の濃いものであるが、映画ではそれが一層進んで本格探偵小説の味わいはほとんど消えている。
 終り近く、洞窟内での追いかけっこ(〇〇〇➝辰也)の最中に渥美金田一探偵が種明しをするわけだが、その説明があまり論理的でない。なぜ〇〇〇を犯人と推定するに至ったか、その手掛りが全く示されていないのである。(そのすぐ前の場面で、金田一と〇〇〇のやりとりの中で、〇〇〇がふと口をすべらして洞窟内の地理に明るいことを教えてしまうという伏線はあるが。)
 立証の根拠を警官が尋ねたのに対して、金田一にそんなことはどうでもいいといった意味の答えをさせていたが、それでは困るのである。
 むしろ映画では八つ墓大明神の呪いというのを強調していて、最後まで(〇〇〇と辰也が尼子ヨシタカの子孫であるなどということにして)「たたり」を暗示しようとしている。そのため人殺しの場面が不必要に多く、それらの場面には不快を感じた。
 また、原作では典子という可憐な女性が登場していて、それが陰惨な殺人事件の中の救いとなっていたのだが、映画ではカットされているのも残念である(イメージを壊されなくてかえってよかったか)。
 渥美金田一探偵は、どうも寅さんのイメージが強く、もう一つピンとこない。石坂浩二もよくなかったし、「本陣」の中尾彬はそれなりにいいが、イメージからは外れる。今のところ金田一のはまり役は現れていないようだ。萩原健一は適役を得れば良い役者である。

■ 12/29
〇Y氏から本届く。「古書」は1万3千円。送料と合わせて差額1,500円送るべし。
〇丸光の古書展で河出の「探偵小説名作全集」全11冊中7冊購入。他に、新章文子「バックミラー」480円。

■ 12/31 大下宇陀児「鉄の舌」
 大下宇陀児の作品は、「新青年傑作選」等で「凧」、「義眼」、「情鬼」等の短編を読んで面白いと思っていたが、長編を読むのはこれが初めてである。これも面白く読むことができた。
 もっとも、探偵小説的趣向にはきわめて乏しく、中心的興味はしっかりした人物造形に基づく、主人公である青年の心理描写にある。「鉄の舌」という題は、犯罪の被疑者にされながらある事情から固く口を閉ざしていた、そのカキのような口の固さをさしているのである。この青年・下斗米悌一に配するに盲目の子爵令嬢・芙佐子をもってする筋立てはいささか通俗的で甘い感じを免れないが、それなりに古風な良さがある。
 犯人発覚の手掛りとなった字の〇〇〇〇は、自分にも似た経験があるので、なかなか面白い着想だと思った。名乗り出なかったタクシーの運転手が〇〇〇であったという説明も、盲点を突かれた感じである。
 この小説は昭和12年の作だが、この当時110番というのはなかったのだろうか。河出p53あたりの記述を見て不思議に感じた。

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