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幸せのアップルパイ

この時期になると、ベイキングがしたくなる。自室の本棚には『間違いなく美味しいアメリカの家庭のベイキングレシピ』が眠りについて暫く。そろそろ「冬だよ!起きて!」と呼び起こす時かもしれない。今の気分はアップルパイ。

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私は19歳の頃、交換留学生としてアメリカで学生生活を送っていた。自ら志願してやっとの思いで手にした留学生活だったが、渡米してしばらくすると行き詰まりを感じていた。コンプレックスの塊で、ここではないどこかへ逃げたくてしょうがなかった。そこで学校が冬休みに入ると、州内に拠点を置く農家を探し出し、ファームステイをすることにした。


ある日、持ち寄りのホームパーティに招待され、私とホストマザーはアップルパイを作った。当日の朝は地産地消をテーマにした、近所のオーガニックスーパーで新鮮な材料を調達し、パイ生地は粉から作った。
旬のリンゴからは切る前からすでに柔らかな甘い香りがしていて、キッチン中に広がっていた。角切りのリンゴにシナモンとカルダモンを少々。そしてレモン果汁をひと回し。角が無いリンゴの甘い香りにスパイスが加わって厚みが増し、そこにレモンのさわやかさが加わって絶妙だった。

いざオーブンへ送り出すと、パイに熱が通るにつれてバターとリンゴ香りがジワジワと広がっていった。パイがどんどん色づき、リンゴもつややかになっていく。しばらくしてアップルパイが焼きあがり、オーブンを開けた瞬間ふわっと香りがさらに広がった。焼き上がったアップルパイを引っ張りだしたホストマザーは満面の笑みを浮かべていた。

「このパイは、亡くなった母のレシピなの。誰かと一緒に焼くことができて、この幸せを共有できて嬉しい。ありがとう。」

味見、ということで1ピースを2人で半分こした。パクリとひとくち、その瞬間にふわーっと口いっぱいに豊かな香りが広がった。まさに幸せの味がした。

自分の留学生活に行き詰まりを感じてからは、あらゆることが不満だった。しかし、アップルパイづくりを通じて五感が満たされて、幸せは実は身近にあるもので、退屈で満たされないと感じていた日常は、すでに素晴らしく愛しいものだったのかも知れない、と思えた。

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回想はおわり。
ベイキングする余裕がなくて、先のばしにしてきたけれど、この年末年始は思い腰を上げて、焼いてみようかな。

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