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マサラ先輩 (Part 2/2)

Part 1 はこちら

大学を出て駅前の本屋で時間を潰しているとマサラ先輩から連絡が来た。送られてきた住所をスマホの地図アプリで確認してみると、駅から大学と反対方向に徒歩十五分と表示された。僕はいつも読んでいる漫画の最新刊と、ここで見つけた新作の漫画を一つ買って店を後にした。

入学してから一ヶ月近くになるのに、僕は友達らしい関係を作れていなかった。他人に話しかけることが出来なくて、代わりに友達らしい会話はネットゲーム上で経験してきた。大学に入ったらどうにか変わるんだと決意していたが、現実ではネットゲームの経験は役に立たなかったし、人はそんな簡単には変われないものなんだなと思った。

サークル勧誘が盛んに行われていた場でゲームや漫画に関するコミュニティもあった。僕にとって唯一の大切にしている趣味の中に嫌な記憶が刻まれたら、それこそもう立ち直れなくなるかもしれないと思い、その場で声を掛けてきたバスケットボールのサークルに入った。バスケは体育の授業以外でやったことがなく、全く興味もなかった。僕は極端な言い分でこのサークルに入ってしまったと少し後悔していたけれど、今日マサラ先輩に誘われてとても嬉しかった。

 少し汗ばむほど歩いて、マサラ先輩の住んでいるアパートについた。二階の部屋まで階段を上っているだけで仄かにカレーの匂いがする。インターホンを鳴らすとマサラ先輩がエプロンを着た姿で出迎えてくれた。ドアが開くと、カレーの匂いも一層強くなった。

「待たせて悪かったなぁ、入って休んでていいよ」
「あ、いえ。駅前の本屋にいたのでそんなに退屈しなかったです」
「そうなんだ。じゃあとりあえず、座って待ってて。もうカレー作ってるから」

ワンルームタイプの部屋で、キッチンがドア側の一辺を占めていた。僕は部屋の中心に置かれた座卓のそばにある座布団に腰かけた。マサラ先輩は僕に麦茶を注いで差し出すと、すぐにキッチンに向き直して料理を続けた。その傍らには何やら名前も作用も分からないスパイスらしきものを入れた容器が並んでいた。部屋の隅には三つ折りに畳まれた布団と、卓上カレンダーが置いてあった。カレンダーは一枚に二ヶ月分印字されていて、今日までのほとんどの日付に赤い斜線が書き込んであった。何かのイベントでも待っているのだろうか。気になることを見つけたものの、相変わらず自分から話しかける勇気は出なかった。僕は仕方なく駅で買った初めて知った方の漫画を読み始めた。

やがて先輩がこっちに来るなり大きな声を上げた。

「敦史、お前その漫画好きなのか!?」 
「えっと、今日初めて知ったんですけど、結構面白いですね」
「マジか!俺もそれ週刊誌で読んでる。その先生のこと前からファンなんだよ。単行本も出るの明日と勘違いしてたわ。ほら、見てこれ。」

先輩はそう言ってカラーボックスに掛かった布をめくると、同じ作者の漫画がずらりと並んでいた。その三段の収納は全て漫画だけに使われていた。

「すごい、マサラ先輩って漫画好きだったんですね」

先輩が僕の一言に少し動揺したように見えた。

「まあ、今はそんなに夢中になってはいないっていうか、そっちばっかりの趣味だけじゃないけどな。てか、敦史はどんなのが好きなんだ?」
「僕は……」
先輩の口調が学校にいたときよりも早口になっていた。僕は反応して駅で買ってきたもう一冊の漫画に手を伸ばそうとしたが、即座にやめた。ここで自分の趣味をさらけ出して嫌われたらどうしようかという思いがこみ上げてきて、先輩の目を見たまま固まっていた。するとマサラ先輩が僕の買ってきた袋を持って中身を取り出した。

「これ。敦史、めっちゃいいやつ読んでるな」
「本当ですか?」
「おお、本当」

まず安心感が湧いた。その後すぐに嬉しさが心の中を駆け巡った。現実の会話で初めて得た気持ちだった。友達ってもしかしてこういう感じで出来るのだろうか。

「そんな風に言ってもらえたの、初めてでちょっとびっくりしました」
「なんだよそれ、大げさだな。あ、そろそろ鍋見てくるわ」

マサラ先輩は再びキッチンに行ってこちらに背中を見せたまま話した。

「実はさ、悪くとって欲しくないんだけど、敦史と初めて会った時、俺と少し同じ匂いがしたんだよな」
「……そうだったんですか」

匂い、と言われても悪い意味も良い意味もなんのことか自分ではよく分からなかった。この部屋ではずっとカレーの匂いがしているし、マサラ先輩はいつも少しだけカレーの匂いがするという二年生の先輩が言っていた言葉を思い出してちょっとだけ複雑な気持ちになった。

「よし、出来たよ」

マサラ先輩が作ったのはチキンカレーだった。少し痺れるような辛さが舌を刺激したかと思えば、鼻から涼しく抜けるような感覚を味わった。そこに少し大きめに切った鶏もも肉を一口で食べると、沸き立つ食欲に充分応えてくれる。スパイスを使いこなしたカレーは今まで食べてきたそれとは全く異なっていた。

「うまい?」
「はい。食べたことないくらい美味しいです」
「そうか!良かったわー」
「マサラ先輩って、なんていうか本当にマサラ先輩なんですね」
「正直さ、マサラって結構ざっくりしたあだ名で好きじゃないんだよな。スパイスを組み合わせてガラムマサラなわけで、だったらクミンシードって呼ばれる方が嬉しいんだよ」
「クミンシード先輩って、何かわからないですけど長いですね」

僕たちは笑顔でカレーを食べた。

「俺さ、中学の頃イジメられてて」
「え」

僕は思わず手が止まった。マサラ先輩は優しいような寂しいような表情で続けた。

「高校は地元離れて誰も知り合いがいないところいって、イジメられはしなかったけど、今遊ぶような友達は一人もいない。それでさ、高校卒業するときに気が付いたら俺、イジメられないようにすることしか考えてなかったんだよ。高校三年間。すごく馬鹿らしいことしてたなって。だから絶対大学では変わるって決めてたんだ」

先輩の話を聞いて気が付いた。思い返せば僕もイジメられないようにしていた。そうでない理由ばかりが頭の中にあったけれど、結局は見ないようにしていただけだったのだ。咄嗟に僕は自分の記憶を今の言葉でもう一度答え合わせを始めた。カレーを食べる手は完全に停止して、先輩の存在を忘れて没頭した。少し経ってから気が付くと、マサラ先輩が僕の顔の前にスプーンに乗せたチキンを何度も近づけたり遠ざけたりしていた。

「あ、敦史ごめんな。いきなりこんな話して」
「いえ、こちらこそすみません。考え事しちゃってて」
「いいよいいよ。てかさ、俺からこんな空気にしちゃって悪いんだけど、敦史何でもいいから関係ない話してよ」

僕はその『何でもいい』が特別苦手だ。どうにか応えようとして焦っていたけど、カレーを見て一つだけ思い出した。

「二日目のカレーって、おいしいですよね」
「確かに、美味いよなあカレーって無限の可能性を秘めてるよな。あと『二日目のカレーも!』美味いだからな。これ重要で、人は一日目のカレーに敬意を払うべきなんだ」
「あの、おかわりしてもいいですか?」
「おう、いいけど、話ちゃんと聞いてるか?」

僕は初めて信頼出来る人を見つけた嬉しさで満たされていた。多分マサラ先輩も照れながらだけど嬉しそうだった。二人で話すほどにどんどん仲良くなって、それでいてあっという間に今日作ったカレーを完食した。夜も更けた頃にようやく、薄いラグの上で毛布を掛けて僕は心地よく眠った。

 翌朝、僕は目が開くよりも先にカレーの匂いに気がいった。カレー屋さんで寝泊まりしたらこんな感じなのかと思いながら体を起こすと、マサラ先輩は既にキッチンに立っていた。

「おはよう、結構寝てたな。もう昼近いけど」
「え、すみませんそんなにずっと眠ってたなんて」
「まあ昨日は少し深夜まで話し込んだからなあ。よし、出来たよ」

マサラ先輩がお皿によそって持ってきたのは、カレーだった。

「今日はビーフカレー。ホテル風だぞ」
「これ、今朝からまた作ってたんですか?」

朝起きたら先輩が料理を作っていてくれたというのに、気分は、なんだか真っ直ぐには喜べなかった。もちろんカレーの内容は全く違っているように見えるし、文句を言うべきではないことだけは確かだと思った。

「美味しいです」

一口食べてみると、昨日食べたカレーとは全然別の物だった。やっぱりマサラ先輩のカレーは美味しい。文句のつけようがない、昨晩言っていた通りの無限の可能性を今まさに体感した。

「良かったわ、うん。やっぱり二日目のカレーって美味いよな!」

カレーを頬張る先輩は一片の曇りもない表情で言った。これは二日目のカレーと呼んでいいのだろうか。二日目のカレーを続カレーとしたら、これは新カレー、再カレーの方が正しいような気もしたが、今はこのカレーをしっかり味わう方が大事なことに思えて考えるのを止めた。

 マサラ先輩の家を後にして、人の少ない昼間の電車に揺られていた。嬉しかった、楽しかった、美味しかった、あの時間を思い返すと自然と笑顔になった。スマホが振動して、確認するとマサラ先輩から写真付きメッセージを受信していた。

「――、今日で四十二日連続のカレー。一緒に食べられて良かった。また遊ぼうな」

添付されていた写真は布団の横に置いてあった卓上カレンダーだ。あの斜線はカレーを食べた日を数えていたものだった。じゃあそう考えると、さっき食べた二日目のカレーとは何だったのか。もうなんだか分からなくなってきた。よく考えたらカレーについて僕は何も知らなかった。

写真を閉じようとした時、日付以外の箇所に何か書き込まれているを見つけてズームした。

右下の隅にカタカナで小さく、『カレーンダー』と書いてあった。

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