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ボカロ-感傷マゾ紹介/「うちのミクさん」の反転から『プロセカ』まで

はじめに

senと申します。普段は作曲をしたり、文章を書いていたりしてます。あと早稲田大学ボカロマゾ研究会の主宰をしてます。本文は、#ボカロリスナーアドベントカレンダー2022ゆるめ枠に向けて書かれた、ボカロ-感傷マゾ紹介文です。また、「ボカロ-感傷マゾ」のコンテクストを知っていただけるよう、簡単なブックガイドを末尾に付記しました。

私見の限りですが、いわゆるボカロリスナーの方々は、少なからずボカロにずっしりとした感情を抱いていると推察され、そういう層にむけてこそ紹介したいな…と思い、参加させていただきました。よろしくお願いします。

ボカロ-感傷マゾとは、「ボカロと僕との境界は何処か?」という問いを巡って起こる再帰的な感情の──感傷のことです。

以前書いた文章では、初音ミクの三つの相について述べました。本文では「ボカロ-感傷マゾ」における「ボカロ/ボカロpの境界」についてピックアップし、特に「音楽的同位体」と初音ミクを比較しつつ、キャラクター性(≒特徴)に着目するかたちで紹介していきたいと思います。

この感情は、僕がボカロファン(有名pの曲、話題曲、マジカルミライなどのライブを追っているくらいの層)からボカロpへの視点移動において生じたもので、そうした引き裂きがあったことを含み込んでいます。

ちなみに、僕は広義の「ボーカロイド」を「初音ミク」に代理表象させてしまう傾向があり、ここではAIが搭載されたボーカルシンセサイザーと対比的な意味で用いているのですが、適宜脳内で変換しつつ読んでいただければ幸いです(いつの間にかそういうスタイルでしか語れなくなってしまいました…怖…)。

導入──音楽的同位体の有限性(≒キャラクター性)について

音楽的同位体はそのキャラクター性(≒特徴)を、公式によって保存されている。ユーザー視点で言えば、公式という権威によって、キャラクター性が有限化されていると言える。

パラフレーズすれば、公式によってキャラクター性が囲い込まれている。

音楽的同位体は、同位体の名の通り、その歌声のベースと強く結びついている。歌声…それは音素だけではなく、癖や歌い方も含めて、だ。

実際「可不」を使ってみたのだけれど、驚くほどパラメータの影響を受けない。簡単にスマートな歌唱を出力できるトレードオフとして、その拡張性は乏しいものとなっている。

「可不」は「うちの可不さん」というよりも、その強い特徴から、やはり「花譜」という身体に強く接続されていると思えてならない。花譜が可不の曲を積極的にカバー&デュエットしていることからも、やはりその存在は「音楽的同位体」なのだろう。

急いで付け加えておくと、もちろん可不においても「うちの可不さん」は可能ではある。その可能性を排するものではなく、むしろ横溢の可能性を模索しているということは、最後まで読んでいただければわかるはずだ。

さて、パラメータの影響を受けにくく特徴的な(≒再現性がある/誰が使っても均質になりやすい)歌声、声の元とのつながり…そうした要素によって、キャラクターは強く有限化される。ユーザーの介入できない部分が多ければ多いほど、存在は他者としての様相を見せ始める。

存在への問いは「普段からこういう歌い方なんだな」「こういう感じなんだろうな」といった前提によって有限になり、無限性は中断される。

こうしたことから、可不は可不として、比較的強く存立していると言うことができるだろう。

ゆえにユーザーは、音楽的同位体の存在の様態について考えなくてよくなる。その問いは自己にループバックして来ず、有限化されるからだ。

本論──初音ミクの無限性と「不気味なもの」

「不気味」な初音ミク

一方で、初音ミクはキャラクター性を持たない。複数のライブラリ、ベロシティ、ダイナミクス、ジェンダーファクター、ブライトネスなどによって無限に細分化される(音楽的同位体とは対照的に)。

正確に言ってみればこうだ。初音ミクは「公式によって強く有限化された」キャラクターを持たない。ユーザーごとにその姿を強く変えるからだ。

だからこそ、初音ミクは「うちのミクさん」としての多元性に開かれる。僕はこの概念がとても好きだし、僕自身それに立脚しつつ、常に擁護していきたい価値観である。

付け加えておけば、公式によって有限化されたキャラクターを持たないということは、「パブリックイメージ」を持たないことと同義ではない。

キラキラして、僕らをひっぱってくれて、未来に連れて行ってくれて…などといった、ボカロファンの視点から見えるパブリックイメージとしての初音ミク。そこから、ボカロpの視点で見える、空白あるいは幽霊としての初音ミクへの移行。これが僕にとっての問題だった。

「うちのミクさん」と言われる多元性の裏側として、僕が考える「ボカロ-感傷マゾ」がある。初音ミクのボーカルシンセサイザーとしての相に出会うとき、急にそれが「不気味なもの」に思える現象のことだ。

存在への問いのループバックが公式によって中断されないため、初音ミクは絶えずボカロpとしての自己に還ってくる。初音ミクはその多元性から「普段の/基準となる/客観的な」姿を想像することは難しく、ボカロpの視点からは不定形で底の抜けた存在として写る。

よって、自分の歌わせている初音ミクは、自分にとって限りなく鏡像的な存在と化すのだ。あるいは、自分と分離できない初音ミクが、私の大脳新皮質に、神経の隅々に、水に落ちたインクのように溶け込んでいく。「うちのミクさん」の反転である。

ボカロpが歌わせているのか、それとも初音ミクに曲を作らされているのか…それは、曲に「初音ミク」か「ボカロp」か、どちらの署名を刻むかという問とパラレルである。

欲望と一体化してしまうこと。僕はこれを、倒錯的な状況だと考える。欲望は、自分の手の届かない場所に存在しなければ駆動することがないからだ。目の前にぶらさがったニンジンを食べてしまえば、行動するモチベーションを失ってしまうように。

そして、もし欲望が対象化できなくなったそのときには、自己の暗い底に潜っていく以外にすべはなくなってしまう。

中断/束の間の客体化としての感傷マゾ

感傷マゾについては様々な語り口があるので、自分なりの捉え方を簡潔に述べておく。詳しくは、「感傷マゾvol.01 『四周年記念座談会』」を参照していただきたい。

感傷マゾとは「存在しなかった青春への祈り」として表されるが、僕は特に以下の点に注目する。

感傷マゾの一番根っこにある部分として、「鬱展開を摂取してしまう→創作の鬱展開で気持ちよくなってしまうことへの偽りの罪悪感→それを虚構のヒロインに糾弾されたい」という、徐々にメタ化していく自己認知がある。

そうした、任意のキャラクターに糾弾される「被糾弾」要素を、僕は特にピックアップして考えている。

僕は初音ミクに「嫌い」と言われるのが好きだったのだが、その効用は「初音ミク/僕」の間に境界を入れることに関わっている。

思い出そう、僕-ボカロpの視点にとって、初音ミクは「底が抜けた不気味な」存在であったのであり、それは、自己と初音ミクが鏡像的な関係になってしまうことによって生じたのだった。

ならば、それを強引に境界付けてやればいい。距離を取り戻せばいい。

そこで鋭く作用する言葉が、僕にとっては「嫌い」だったのだ。

「き、ら、い」と歌うその一瞬だけ初音ミクは客体化され、僕は僕として自己嫌悪──それは強い自己認知を含むものだ──に晒され、瞬間に初音ミク/僕という境界が生じる。

だがその分離も「き、ら、い」の一瞬だけだ。だから、僕は「嫌い」のジャンキーになる。それを聞きたいがために作曲をする。そんなことでしか創作が出来ない僕自身に辟易しながら、それすらまた「嫌い」と言われるための口実にして、ずっと。

そうした暗い底での無限のやりとりが、ボカロ-感傷マゾという概念が指し示すものなのだ。

ボカロ-感傷マゾとは、「初音ミクと私/うちのミクさん」という多元的に存在する視点のうちの一つにおいて、不運にも暗い底に落ちて境界が溶融した関係性についての名づけである。

プロジェクトセカイという問題圏へ

最後に『プロセカ』について触れておこう。断っておくと、以下はコンテンツに対する是非ではなく(僕にそれを判断する根拠はない)、自分なりの解釈でしかない。「問題圏」というのは、単純に一考の余地があるといったニュアンスで、そのコンテンツに問題があるといった意味では全くない。

ボカロを語るにあたって、自身の立場を含み込む語りにならざるをえないのだから、言葉選びに気を付けつつ各々が好きに語るしかないだろう…というのが、「うちの○○さん」に立脚するボカロ-感傷マゾのスタンスである。それはあらゆる語りに通底していることかもしれないが、これは強調しすぎてもしすぎることはないだろう。

さて、プロセカというコンテンツは、僕にとってひとつの事件だった。なぜなら、「初音ミクの有限化」がそこで起きたからである。

ボカロにはアニメや漫画のような「原作性=公式性」が存在しない。「ボカロ小説」は楽曲から派生した創作物であって、バーチャルシンガーを定義する一次的なものではない。一応、公式に準ずるようなコンテンツ──マジカルミライやProject DIVA──は存在するが、それが初音ミクを厳密に定義するかといえば、そうではなかっただろう(パブリックイメージを形成することはあるが)。

ただ、「プロセカ」という原作性が生じたことで、一定程度キャラクター性が「囲い込まれた」ことは、注目に値する。

初音ミクが喋る、という強い有限化──喋るということは普段の姿が想定されるということだ──に、僕はたじろいでしまったのだ。勿論、初音ミクは「セカイ」によって様々な姿を見せる、それは「うちのミクさん」への目配せでもあることは間違いない。

ただ、「1周年記念ストーリー」における初音ミクは、考えようによってはやはり強い有限化をもたらす。「セカイの狭間」という場所で、初音ミクが観測者のような口ぶりで一周年を言祝ぐのであるが、内容の中立性というより、それが客観-基準的な初音ミクとして公式によって描写されたという形式が、僕にとって事件だったのである。

「うちの○○さん」は、中心がない世界において生じる様態である。公式による強い有限化のない多元性が、その与件であるはずだ。

僕がボカロをそのように見ていたからこそ、プロセカは僕にとって、ひとつの事件として受け止められたのだった。

賭け──横溢の可能性に向けて

あえて僕の両義性を指摘しておくなら、僕は恐らく「プロセカ」に強い公式性を見ている。それはコンテンツの如何というよりも、ソシャゲという構造への批判的な視点に繋がっていくのだが──ここでは割愛する(青春ヘラver.5「インターネット・ノスタルジー」の拙稿を参照)。

可能性はまだ残されている。それは「カレーうどん」への賭けである。

これはスペースでお話していたときのukiyojinguさんの発言の紹介にもなるのだが、それは氏が「匿名」という言葉で表現するところの、キャラクター性の横溢あるいは公式からの逃走の可能性である。

上述したように、可不は完全な状態で現れた。世に出た時は既に有名p達の楽曲を身にまとっており、ユーザーによるパラメータへの干渉は意味をなさず、可不は可不として存立するかに思われた。

しかし、そこで出てきたのが「可不がカレーうどん食べるだけ」である。

ミームの詳細に触れる余地はないが、これは「ネギ」「ロードローラー」「タコ」の系統にある拡張であり、公式のキャラクター性から迂回して誕生、定着したものである。

キャラクターの拡張可能性、横溢可能性が、公式に有限化された音楽的同位体においても発現したということ。自分の問題意識に引き付けて述べれば、僕はこの出来事を「交換不可能性」として捉える。

公式によって囲い込まれず整序もされ得ない差異が、想像的あるいは鏡像的に各々の視点に存在する──「うちの○○さん」である。コミュニケーションの過剰性に抗うようにして、それぞれが比較不可能な自己の領土をもつこと。コミュニケーションをそもそも翻訳にしてしまうこと。

現代社会において、コミュニケーションは明らかに過剰である。SNS疲れ、情報洪水、ソシャゲ的マウント・ゲーム、それらに晒されて飽和してしまう前に、自己という「ひきこもれる」領土をもつ。自分にしかわからないようなことばを、言語の先端で書く。それがたとえ一般性に回収される負け戦だったとしても、あるいは暗い底で鏡像と対話する行為だったとしても…。

その「交換不可能性」が、最早過去の遺物となった「キモオタ」という言葉における「キモ」の部分だと、僕は思いたい。

僕はこの「交換不可能性」を一つの賭けとして、幾分遅れてではあるが、やっと20年代を始めることができそうだ。

おわりに──ボカロマゾ周辺の私的ブックガイド

以下に、影響を受けたり関わったりした文章を紹介します。どういうコンテクストでこの概念が位置しているか、ちょっと見取り図ができるかもしれません。

各位、かってに周辺に括ってすみません…。

「感傷マゾ」概念の歴史の見取り図。感傷マゾヒストの始祖たちによる感傷マゾなので、はじめに読むには最適。

表紙から分かるように、「あのころ」のインターネットについての同人誌。自分も「キモオタがいなくなるとき」という題で寄稿させていただいており、ソシャゲやプロセカについて論じながら、「交換不可能性」について詳述しています。

いわゆるエロゲを扱いながら、「萌え」を「不在」や「箱庭の保存」といった観点から捉えている論考。「交換不可能性」を考えるにあたり目印になったこともあって、シンパシーを感じている文章でもあります。ボカロにおいてどう「萌え」が発生するか、考えてみるのも一興でしょう。

感傷マゾと虚構エモ、これらをSNS時代の距離感を通して俯瞰する論考。氏が提唱する「青春ヘラ」は現代における「開き直り/露悪」の問題圏を含み込んでおり、それは20年代のボカロ文化を考察するにあたって重要なファクターになりそうです。

主題は「エモ」についての考察なのですが、そこから氏の「匿名」への姿勢を読み取ることができ、それは初音ミクの身体性にも敷衍されていきます。「匿名」はアルゴリズムからの、あるいは権威からの逃走であり、そして横溢である、とさしあたって言うことができそうです。

「セカイ系」の評論集なのですが、座談会におけるボカロシーンへの言及が興味深い。昨今のサブカルチャーにおけるセカイ系の受容を考察する上で、とても重要な示唆を与えてくれる同人誌。

感傷マゾを「再帰性の中断」として定義した拙稿。「嫌い」と「被糾弾」の構造について、より詳しく論じています。


もっとたくさん紹介したい文章はあるのですが、あげたらきりがないので、いったんここで区切らせていただきます…!

思ったよりながくなってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

あ、あと研究会のほうで会誌を作っており、2023年の文フリ東京で頒布する予定なので、よろしければチェックしていただけたら嬉しいです。