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感傷マゾvol.01 『四周年記念座談会』



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※『感傷マゾvol.01』(https://wak.booth.pm/items/1166627)から、座談会を公開します。

座談会参加者

・わく/かつて敗れていったツンデレ系サブヒロイン(@wak)
→感傷マゾ専門の同人誌を作っている人

・スケア(@scarecrowFK)
→『AIR』に関して喋るはずだったのに、自宅の玄関に『AIR』が通販で届いてから二階の自室へ向かうまでの自身の胸の高鳴りについて30分語り続ける伝説のネットラジオをした本物の男

・たそがれ(@tasogarexerion)
→西の感傷マゾ代表

・かがみん(@NKJ8906)
→今回は、感傷マゾではない視点の役として座談会に参加

1.感傷マゾの定義と変遷

わく  「最近、暴走Pさんの『感傷マゾヒスト』というボカロ曲が人気になったり、三秋縋さんの『君の話』などの感傷マゾ寄りの作品が人気になってきました。感傷マゾという言葉が、2014年にできてから今年で4年目になるので、感傷マゾを振り返る座談会をします」

一同
  「うーい」

わく
  「最初は「感傷マゾ」という言葉の定義と変遷を話します。最初、「感傷マゾ」は、ヒロインが傷つく、または主人公や読者側が傷つく鬱展開に対して、偽りの罪悪感を抱いて気持ちいいというマゾ寄りの定義だった。まどか達が魔法少女システムに抗わないまどマギ、みたいな。確か、スケアさんがそういう鬱展開に対して、偽りの罪悪感を抱いて勝手に気持ちよくなるマゾ寄りの人だから、僕がスケアさんを「感傷マゾ男」と評したのが初めてだよね」

スケア
 「最初は、「感傷マゾ男」で「男」がついていたんだよね」

わく
  「途中から、感傷マゾというジャンルは性別を問わないと感じたから、意図的に「男」を消したけどさ」

スケア 「Twilogでわく君のツイートを見てみたら、2014年12月10日が初出だね。この辺りの僕とわく君の会話の流れを見直してみると、ヒロインが酷い目に遭って、「うー、悲しいね…でも鬱展開に感じちゃう、ビクンビクン」が第一段階。そこからフィクションの中であっても虚構の存在を自分の快楽のために消費していいのかという偽りの罪悪感が第二段階。その偽りの罪悪感を、虚構のヒロインに糾弾されたいというのが第三段階だよね」

やはり、感傷マゾ男モードになったスケアさんのツイートは、切れ味が鋭い。 
@wak twitter 22:52 - 2014年12月10日
https://twitter.com/wak/status/542678127416057857

わく  「…本当に面倒くさいクズだよね」

一同  「(笑)」

わく  「第一段階、第二段階…どんどん段階が進むにつれて面倒くさくなっていって、自分がメタ的に気持ちよくなっていく方向性だよね。確か、最初は女の子が酷い目に遭う鬱展開っていいよねという感じだったけど、それに対して「せーの!鬱展開最高!!」と自分の性癖を肯定できない。それで、スケアさんがアニメを見ている時に、鬱展開がくると『ダーリン・インザ・フランキス』のヒロみたいにポエムツイートをし始めるんだよね。偽りの罪悪感で虚構のヒロインに自己嫌悪を代行してもらうマゾ要素と、ポエムツイートの感傷要素を合わせて、感傷マゾだった。偽りの罪悪感というのも、本当に罪悪感があるなら鬱展開を読まなければいいじゃないですか。でも、鬱展開が物語のスパイスになることを否定できなくて、罪悪感を持ちながら消費してしまう。そういう罪悪感の都合の良さが偽りなんだよね」

たそがれ  「シチュエーションの消費というか、虚構のヒロインなのに実在している想定で向き合った結果なんですよね。別に、物語の中の鬱展開は僕らと関係ないし、鬱展開は消費者に提供されているサービスみたいなものじゃないですか。本来は、「はいはい、鬱展開ありがとうございます!」と言って食べればいいのに、そこに虚構のヒロインが実在している想定で消費するのが、感傷マゾの土台ですよね」

わく  「ご飯を食べる前にお百姓さんに感謝の念を込めなさい、みたいなものだと思うんですよ。この場合、お百姓さんの作った野菜が傷ついた虚構のヒロインで、吉野家で牛丼食べるみたいに鬱展開をそういうものとして割り切れない。「こんな最低な性癖に付き合ってくれてありがとう。でも、こんな酷い展開でごめんなさい」と自己嫌悪する。そういう自己嫌悪のマゾヒスティックな消費が、感傷マゾですよね。それが最初の意味だったんじゃないかな。第一段階、第二段階と無限に上部構造に移るけど、自己嫌悪を少女に代弁してもらって気持ちよくなるのは、変わらない」

スケア 「そういう消費をする時、対象のヒロインはリアル寄りの方がいいよね。記号的なキャラじゃない方が好きだ」

わく  「確かにそれはあるよね。そういう意味でいうと、アニメより2000年前後のアフタヌーンの漫画の方が、そういうヒロインがいたかな。遠藤浩輝の『プラットホーム』という短編漫画。主人公の父親と兄貴がヤクザで、主人公以外の世界は薄汚い。主人公だけはそこから離れてキレイな世界にいるんだけど、そういう主人公をヒロインが糾弾する話なんですよね。これ、ヒロインが主人公を糾弾する台詞を全文引用したいんだけど、スケアさんならどのシーンかもう分かると思う」

スケア 「(笑)」

わく   「“貴幸は今まで…何も選んでこなかったし誰の立場にも立たなかったものね。全部「関係ねー」だったもんね。だから貴幸はずっと一人ぼっちだったのよ。家族も、愛情も、自分の欲望も、全部自分で去勢してたのよ。貴幸、私を犯せる?貴幸は自分が男だという事も選んでいないのよ、怖いから…自分が男だという事を受け入れられる?男っていうのは…女を犯してしまう事ができる生き物なのよ”

わく・スケア「こんなこと言う女の子、いるわけない」

わく   「こんなこと言う女の子、現実ではいるわけないんだけど、フィクションの中でしかいないのに現実感がある。この台詞は正座しながら読まないといけない感覚があったな」

スケア 「これは結局、ヒロインに対する恋心やそれに付随する青春とか性欲とか独占欲とかを全部蓋をして主人公が生きてきたことを、ヒロインに暴かれるシーンだよね。それが感傷マゾの中でもマゾ寄りの考えを、きっちり描いている。それでいてラストの展開は感傷的だったし、完璧な感傷マゾだよね」

わく  「遠藤浩輝の初期短編は、感傷マゾ概念のベースの一つになっている感があるね」

わく  「主人公の貴幸の立場はエロゲーで言うところのユーザーの立ち位置で、一人だけ舞台から離れて周囲と関係ないみたいな顔をしていて、貴幸の父親の愛人という意味で薄汚い世界に入っているヒロインも含めて周囲を俯瞰的に見ている感じがある。だから、モニターの向こう側のエロゲヒロインが、ユーザーを直接罵倒している印象なんだよね。そこがすごく良かった」

スケア 「この頃の遠藤浩輝の短編だと、『カラスと少女とヤクザ』とか」

わく  「あれ、主人公のヤクザのおじさんが少女に抱きしめられると、ピカーッと光って消えていくのがさ。一時期、感傷マゾ界隈で流行った、竹宮ゆゆこ原作の『ゴールデンタイム』というアニメで、主人公が阿波踊りを踊りながら光の中に消えていくシーンと完全に一致しているんだよね」

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図1『ゴールデンタイム』第24話 阿波踊りを踊りながら光の中へ消えていく主人公

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図2 遠藤浩輝短編集(1)46P 『カラスと少女とヤクザ』 少女に抱きしめられて光に包まれ救われるおじさん

一同  「(笑)」

スケア 「『カラスと少女とヤクザ』は、過去の回想を上手く使った作品だと思うんだよね。ヤクザの主人公が子供の頃にいじめられていて、いじめっ子に隠れてケガした小鳥を助ける。小鳥が元気になったので野生に戻したら、目の前でカラスに小鳥を食べられちゃう。「あの時、あの小鳥を助けることができたなら…僕も飛べたんじゃないか」という後悔が大人になっても常に頭の中にある人だよね。主人公からすると、自分と同じく薄汚い世界の住人の少女を助けることで、自分も救われるんじゃないかという期待がある。でも、結果的に少女は他のヤクザに銃殺されて、自分だけが救われてしまった」

スケア 「でも、少女が主人公を抱きしめるシーンで、主人公の救われたい欲望を、少女に見透かされてる感じがするよね。“『痛かったら、痛いって言えばいい』”という台詞とかさ。“『男はめったな事では泣くなって…死んだおふくろ…が…さ』『弱みを見せるのが怖いの?』『…ヤクザ…だからな』『ずっと人前で泣けなかったの?』”

わく・スケア“『極道…だから…』”

わく  「成長するとヤクザになる主人公も、子供の頃にいじめられていた主人公も、年齢の違いはあるけれど、少女は主人公の本質的な部分を見透かしてくるんだよね。本質的な部分を見透かす少女というのは、遠藤浩輝が描くヒロイン像そのものだと思う」

スケア 「僕が前にツイートしていた「JCに指摘されたいシリーズ」だよね。『独りは好きなのに、独りぼっちは嫌いなのね』とJCに指摘されたい、とかよくツイートしていた」

一同  「(笑)」

スケア 「普通のヒロインは、主人公の本質的な浅ましさを指摘するとかしないけどね。そういうヒロインの描き方が、普通の作品で主人公のトラウマを癒す展開よりもう一歩先に進んでいるというか、作者の欲望が入っている気がする」

わく  「少女に、自分の本質的な部分を見透かされて、的確に本質を糾弾されたいという欲望だよね」

スケア 「だから、当初、感傷マゾは作品のことじゃなくて、自分の本質をヒロインに糾弾されたいという消費者側を評した言葉だった」

わく  「簡単に言うと、感傷マゾはスケアさんを評した言葉でしかなかった。それが、ジャンルを表す言葉になっていったという大きな変遷があったよね」

スケア 「遠藤浩輝の初期短編は、俺とわく君の中では、感傷マゾの根幹になっている。こういう俺みたいな感傷マゾ男って、他にいるのかな?という疑問はある」

わく  「スケアさんの場合、消費の態度はマゾなのに、消費後の表現の仕方が感傷というのがあるよね。マゾ的に消費する人はいるけれど、「何でスケアさんは鬱展開で気持ちよくなると、ポエムを呟くんだろう」と不思議だった」

スケア 「気持ちよくなってしまうことに罪悪感があるから、ポエムを呟くんだよ

わく  「わかるけどさ…」

スケア 「そういう意味でいうと、エモい描写にポエムの独白を組み合わせると、感傷マゾっぽいよね。新海誠みたいな。あれって、他にあったのかな。主人公の独白、ヒロインの独白。それらが交わうようで交わらない。その独白に情景が被さるという」

たそがれ「独白自体はあったかもしれないけど、主人公とヒロインの独白が交わらないというのは、新海誠が初かもしれないですね。一人称の小説の語りみたいな独白は」

わく  「小説の一人称だと、主人公の気持ちが語られるだけだけど、アニメだと独白と相性のいいエモい風景を組み合わせることができる。小説だと、独白と風景の同時展開はできないですよね」

スケア 「遠藤浩輝も新海誠もエヴァが好きだったと思うけど、エヴァ自体は感傷マゾなのかな」

わく  「あれはマゾではあるけど、感傷ではないんじゃないかな。シンジ君にとってはずっと現在だし、感傷は過去を想うことじゃないですか。エヴァは、シンジ君の内面世界で展開する独白という感じ」

たそがれ「あれは徹底的に葛藤の表現だと思う」

スケア 「シンジ君に感傷できるほどの思い出がないんだよね。例えば、シンジ君が5、6歳の頃にレイやアスカと会っていたとかさ。そういう体験があって、三人ともその記憶がないなら感傷的になるんだけど」

たそがれ「ゲンドウの過去の回想シーンはあるけど、ゲンドウの口から語られるものではないじゃないですか。あくまで回想シーンであって、回想する主体はゲンドウではない。ゲンドウの独白で回想していたら、感傷かもね」

わく  「エヴァは、エモさを重視した現在の作品の直系の元祖ではない」

たそがれ「エヴァの旧劇で、アスカに詰め寄られたシンジがコーヒーをこぼすシーンがあるじゃないですか。アスカに見透かされて糾弾されるシンジ君は、感傷マゾの源流の一つだと思うんですよね」

スケア 「浅ましい欲望を糾弾されたいというマゾ的な意味では、源流じゃないかな。男が持っている欲望を見透かされて指摘されるとか。ただ、庵野秀明自体は現在の人というか、作品作りにおいてはリアリストだから」

わく  「庵野秀明は、現実寄りかつ受動寄りの極致みたいな人じゃないですか。感傷ではないかな。ただ、主人公の独白と精神世界が、世界そのものになっていく。それまでの作品だと、世界があってその中にキャラクターがいたのに、まずキャラクターがいて、そのキャラクターの内面世界が作品内の世界とリンクしていくという。そこが一番、エヴァから新海誠が受けた影響じゃないかな」

たそがれ「そういうアプローチとすると、新海誠は新宿が大好きじゃないですか。でも、あれは現実の新宿を舞台にしているんじゃなくて、新海誠の持つ都会のイメージが、新宿に投射しやすいんだと思いますね」

わく  「あの人は、自分の内面に合った風景なら、どこでもいいみたいな部分があるから、新海誠が描いた風景の場所に聖地巡礼しても、同じ風景は全くない」

たそがれ「彼が見た風景と、僕らが見た風景は異なるんですよね。新海誠と同じ視点に立たないと、聖地巡礼できないと思う」

わく  「『言の葉の庭』を見た後に新宿御苑の東屋に行ったら、劇中の雰囲気は全くない上に写真を撮るためにオタクがズラッと並んでいて、「あれ、『言の葉の庭』にオタクは出てこなかったぞ」みたいな」

スケア 「独白だと信頼できない語り手というか、独白そのものを信頼していいのかという問題があると思うんだよね。キャラクターの内面が、独白ではなく背景によって語られている。独白はものすごく饒舌なのに、実は何も語っていないんじゃないかというのが、新しかったよね」

わく  「感傷マゾという言葉自体の話だと、感傷マゾの「感傷」が、今の「エモい」という言葉と大体同じ意味になってきたのは、新海誠の『君の名は。』辺りの影響が大きいですよね」

たそがれ「『君の名は。』はすごく売れたから、感傷の共通言語になったんじゃないかな。それまでは「感傷マゾ」という言葉も何となくの感覚で使われていたのが、『君の名は。』の大ヒットで感傷という言葉を共通の意味で使いやすくなった。そこで、元々の感傷マゾのマゾ寄りの意味が薄れた」

わく  「『君の名は。』で方向性が決まったんだと思う。『君の名は。』は、今の「概念の夏」と全然違う。まず、あの作品は舞台が秋じゃないですか。田舎ではあるけど、白ワンピースに麦わら帽子とか、日本の夏の田舎の原風景そのものを描いているわけじゃない。でも、田舎とエモを組み合わせて共通言語にしたという意味で、方向性が決まったんじゃないかな。もちろん、『君の名は。』以前も、『AIR』とか、僕が大好きな『果てしなく青い、この空の下で…。』とか、『腐り姫』とか、田舎とノスタルジーを繋げた作品はエロゲーにたくさんあった。それを共通言語にしたのは、『君の名は。』じゃないかな」

スケア 「感傷マゾ的な意味で風景を捉えようとすると、かつてどこかにあったかもしれない風景に、麦わら帽子に白ワンピースの少女なんているわけないじゃん」

一同  「(笑)」

スケア  「共通の原風景の中に、麦わら帽子に白ワンピースの少女がいるというイメージの源流は、田舎が舞台のエロゲーとか、もしくはヨーロッパの絵画から輸入されたのかもしれないけどさ。モネの『日傘の女』とか。どこかにあったかもしれない、なかったかもしれないという虚構性が、感傷には必要だと思うんだよね。最初から確実にあったと言い切れるなら、感傷は深まらない」

たそがれ「実際に田舎を訪ねると、本当にあの夏の風景を探しに行くというより、自分の中の夏の原風景の欠片を拾いに行くという心境があるじゃないですか。「もしかすると、そういう風景があったかもしれない」が「そういう風景があったんだ」に変わるための欠片。そういう現実と虚構がくっついた瞬間に感傷を感じるから、日本の原風景そのものの場所だけではなく、日常の風景の中、ある日散歩している路地裏とか、深夜の終電のホームとか、そういう場所でも欠片を拾うことはできると思うんですよね」

スケア 「新海誠の『雲の向こう、約束の場所』で、線路がずっと続いていく青森の夏の風景が描かれていたけど、多分、新海誠が好きなのは都会の風景に感傷を見出すことだと思うんだよね。その都会の感傷を深めるための装置として、田舎の風景があったんだ。『君の名は。』は、都会も田舎も重要な舞台として描かれていて、それで感傷の方向性が決まったなという感じ。現実的で切なさや孤独を感じる都会と、あったかもしれない美しい原風景の田舎の対比を自覚的に使ったというのが、方向性決まったなと思った」

わく  「感傷というかノスタルジーの話だけど、基本的に自分とつながりのある過去じゃないとノスタルジーを感じにくいと思うんですよね。たとえば、自分の祖父母が住んでいる田舎。夏休みのお盆に里帰りする田舎の家とかはノスタルジーを感じるけど、白川郷とかは自分と関係ないから日本の原風景ではあるけどノスタルジーを感じない。ただ、自分とつながりがあっても、現在にも感傷は感じないんじゃないかな。2000年前後くらいから、昭和レトロってよく言われてるじゃないですか。クレヨンしんちゃんのオトナ帝国とか、ALWAYS三丁目の夕日とか。でも、昭和30年代当時だと、別に現在に対してレトロを感じないですよね」

たそがれ「その時生きていた彼らにとっては、色鮮やかに見えていたのが、記憶が薄れていくと共にセピア色になっていく。決して、当時生きていた人にとってセピア色だったわけじゃない」

スケア 「田舎に感じるノスタルジーを分解すると、どこかで見たかもしれない過去の風景、そこに存在しなかった少女や青春のイベントが組み合わさると、感傷が最大になるのかな。過去と虚構の合体みたいな」

わく  「例えば、僕は千葉県の郊外で生まれ育っていて、正直、墓参り以外、田舎に行くことはほとんどないんだよね。本当だったら、自分が住んでいる地元の郊外にノスタルジーを感じる方が正しいと思うけどさ。多分、「どこかに帰りたい」という欲求があった時に、自分の青春に満足できなかった人は、自分が青春を過ごした場所に帰りたくないんじゃないかな。逆に、理想の帰りたい場所を脳内に作ってしまう。そこが感傷とつながっていくんだよね」

たそがれ「感傷マゾは、存在しなかった思い出を作りたがるじゃないですか。そうなると、存在しなかった思い出を作れる場所ならどこでもノスタルジーを感じるんじゃないかな。だから、自分の祖父母や実家と関係ない場所でも、ノスタルジーを感じる。ある意味、感傷マゾにとってのノスタルジーの対象は、現実の自分の過去ではなく、「どこかに帰りたい」欲求を満たせる場所そのものだと思うんですよね」

わく  「「どこかに帰りたい」場所のイメージ自体、アニメであれ漫画であれ、現実の体験ではなくポップカルチャーに起因していて、だから日本の原風景はみんな共通で持っていると思うんだよね。帰りたい場所は虚構から作られているから、現実ではなく虚構の田舎にノスタルジーを感じるんじゃないかな」

スケア 「集合的無意識みたいな感じなのかな。田舎の夏の青空に入道雲があって、田んぼの畦道が続いているという。ただ、田舎エロゲーとか『君の名は。』とかを経ない人は、どういう経路でそういう日本の原風景に触れるのかな」

わく   「そういう日本の原風景って、昔からあるんじゃないかな。戦後、田舎を出て都会で働く人が増えたじゃないですか。都会に働きに出た人が帰省するのはお盆休みだし、そこから田舎の夏のイメージが固まっていったんじゃないかな」

スケア 「それまでは田舎に住むのが日常だったのが、お盆休みに都会から田舎に帰省することが非日常的なイベントになったという」

わく  「日本だと、春夏秋冬の四季の中で概念的なイメージが強いのは夏だし、概念的な夏ができたのはお盆休みの影響が強いと思う。あと、お盆休みは大人の事情だけど、小学生や中学生などの子供も夏休みは長期休暇だしね。田舎のおばあちゃんの家に行くとか、海水浴に行くとか、花火大会や夏祭りとかのイベントも多いし、思い出を作りやすい」

スケア 「都会の子が田舎に行くパターンだと、都会の子視点もあるけど田舎の子視点もあるよね。垢抜けた都会の女の子が夏休みの間だけ来たとか。田舎の子視点の一夏の甘酸っぱい出会いのパターンみたいな。そういう場合、田舎の子にとっても都会の子にとっても非日常だよね」

わく  「坂口尚の『影ふみ』という短編漫画で、夏の海沿いの田舎が舞台で、海に潜るのが大好きな男の子がいて、隣の家に結核な何かの病気で療養にきた都会のお嬢さんが引っ越してくるんだよね。そのお嬢さんが正に麦わら帽子に白ワンピースの姿で、体調が悪いから家の外に出られないの。ノスタルジーというより、幻想的な作風の作品だったけどね」

スケア 「麦わら帽子に白ワンピースの少女は、田舎より、都会から田舎にやってきた少女のイメージが強いのかな」

わく  「どちらかというと、堀辰雄とかのサナトリウム文学のイメージが強いと思うんだよね。結核患者で病弱な、死のイメージを持つ少女。夏は太平洋戦争の原爆や終戦もあるから、サナトリウム以外にも死のイメージが強いかな」

わく  「あと、個人的な感傷マゾエピソードを披露していいですか。僕の母方の実家は、地元から車で一時間くらいの場所だけど、結構田舎なんですよ。母方のいとこは十数人いるけど、そんなに年齢が上の人はいないんだよね。僕が小学四年生の夏休みに、母方の伯母の家に行ったら、大学生くらいの白いTシャツを着たポニーテールの美人のお姉さんがいた。お姉さんやいとこ達と縁側に腰掛けて、チューペットを食べたり、写ルンですで記念撮影した思い出がある。でも、後から思い返してみると、僕の親戚には、そのお姉さんくらいの年齢差の人はいない。中学生くらいの時に写真を見直してみて、「このお姉さん、美人だなー」と感じた思い出もある。今となっては、その写真も見つからなくて、あのお姉さんは誰だったのか全くわからない」

スケア 「それ、わく君の妄想でしょ」

わく  「でしょう。妄想と思いたいくらい、いい思い出でしょう?」

たそがれ「写真が残っていないというのが、感傷マゾ的でいいですよね。もし、写真が今も残っていたら、感傷マゾじゃなくて思い出だったろうな」

わく  「そうでしょう、そうでしょう?」

わく  「感傷マゾという言葉自体の話に戻るけど、感傷自体には、元々の意味でのマゾ的要素はない。女の子に本質を糾弾されたいとか、感傷じゃないじゃん。そういう意味で言うと、感傷要素に引っ張られて、「エモい田舎の思い出は偽物だよね」と指摘されて傷つく方向性にマゾ要素も変わってきた。でも、それは最早、糾弾してくる人が少女である必然性はないと思うんですよね。例えば、押井守が監督した劇場版『攻殻機動隊』一作目で、人形使いに偽の記憶を植え付けられた清掃局員のおじさんがいたじゃないですか。「あなたには妻も娘もいなくて、十年間、あのアパートで一人暮らしをしているんです」とトグサに指摘されていたおじさん。トグサに自分の思い出は偽物だと指摘されて傷つきたい願望と、少女に本質を糾弾されて傷つきたい願望は、本質的には同じなんですよね。それで、概念の夏やエモい田舎という「感傷」要素と、でもその最高の夏の思い出は偽物だと指摘されて傷ついて気持ちよくなりたいという「マゾ」要素が合体して、現在の感傷マゾの意味になった。そういう意味で、暴走Pさんの『感傷マゾヒスト』の“感傷マゾヒスト 架空の空を食べすぎて 本物の夏に心えぐられる”という歌詞は、かなり的確な要約ですよね」

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図3『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』偽の記憶を植え付けられた清掃局おじさん

スケア 「基本的に、青春も田舎の思い出も、満足できなかった人が、感傷マゾには多いと思う。「何もなかった」という偽の記憶の指摘は、本当は感傷マゾ自身の自虐であって、トグサにしろ少女にしろ自虐を代行している。ただ、自虐を代行する必要はあるのか。自虐を代行する存在がいなくても、「俺の青春時代は何もなかったな」と自分で自虐していれば、感傷マゾに浸れるんじゃないかな」

わく  「「感傷マゾ」という言葉で検索してみると、単純に「概念っぽくて偽物っぽいエモさ」を「感傷マゾ」と呼んでいる人が多い気がして、自虐的なマゾ要素を持つ人は少ない気がする」

スケア 「感傷マゾというか、感傷エモみたいな」

たそがれ作り物っぽいエモを、感傷マゾと呼んでいる人が多い気がしますね

スケア 「多分、それは「感傷マゾ」より「虚構エモ」と呼んだ方が腑に落ちるね

一同  「あー、確かに「虚構エモ」の方が腑に落ちますね」

たそがれ「最近、感傷マゾ界隈で作っている感傷マゾグラフで、「罵りの川」を超えてないものを「虚構エモ」として整理できるんじゃないかな」


・感傷マゾグラフ

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・感傷マゾグラフのプロトタイプ(スケアさんから、最初にこれを見せられた時の私の気持ちを色々と察してほしい)

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わく  「「罵りの川」って、言葉自体のパワーが強すぎるでしょ(笑)」

スケア 「言葉は全然違うんだけど、「感傷マゾ」という言葉の印象が強すぎて、本来は「虚構エモ」のものに対しても「感傷マゾ」と呼んでいるんじゃないかな」

わく  「「概念の夏」は夏にしか使えないけど、「虚構エモ」は一年中使えていいですよね」

スケア 「冬の夜、コンビニの入口付近で肉まんを食べようとすると、寒くて湯気が立つとかね」

スケア 「「虚構エモ」自体も結構面白いテーマではあるよね。COMIC LOで、たかみちが描いた表紙みたいな、どこかにあるであろう偽物っぽくてエモい風景」

たそがれ「多分、やろうと思えば、虚構エモの風景は、田舎でも都会でもどこでも見いだせると思うんですよね。あと、現在は、まだ夏休みに祖父母の田舎に行って概念の夏の光景を見るということができるじゃないですか。ただ、十年後、二十年後になっても、概念の夏のイメージは日本人に共有されているのかな」

スケア 「積水ハウスのCMの歌に、“都会の空でもふるさとだろ”という歌詞がある。このまま少子高齢化が進むと、田舎に祖父母が住んでいる状況が共有されなくなって、都会に祖父母が住んでいるのが当たり前になるんじゃないか。夏休みに田舎に行くこと自体が無くなって、最初から「虚構エモ」としてしか田舎の風景を消費できなくなるんじゃないかな

わく  「それは、十年後じゃなくても、今でもそうなりつつあると思う」
たそがれ「どこかで見たかもしれない風景に対する、リアリティの欠如が進んでいますよね」

わく  「今の大学生の人からすると、既に田舎のおばあちゃんの家に行くこと自体、少なくなっているんじゃないかな。だから、ノスタルジーの風景を虚構的にしか消費できなくなっているし、今年の夏にTwitterで「概念の夏」という言葉が流行ったのも、そういう背景があるんじゃないかな」

スケア 「田舎の風景が、思い出の郷愁じゃなくて、羨望とか憧憬の対象になっていくのかな」

わく  「憧憬だと「帰りたい場所」じゃないから、違うと思うんだよね」

たそがれ「JR西日本のCMで“夏列車 いっしょに見る夏 帰る夏”というキャッチコピーがあって、CMの中で主人公の女の人は初めて見に行く夏、同じ列車に乗っている家族連れは帰る夏。両者とも同じ夏の場所に行くけれど、目的が見に行くのと帰るので全然違うんですよね」

スケア 「そのCMは、今言っていた話とすごく近いよね。誰かにとっては帰る夏で、あの人にとっては行く夏という。今がちょうど、帰る夏から行く夏へと変わる過渡期なのかもね。だから、CMの中で両者が共存している」
たそがれ「昭和、平成と時代が終わって、帰る夏が無くなって、虚構エモを求めて行く夏しか残らないんだろうな」

『想像力は僕らを何処へでも連れていってくれるが、決して自由にはしてくれない』
@scarecrowFK twitter 0:38 - 2014年6月11日
https://twitter.com/scarecrowfk/status/476388031562129408


2.感傷マゾ作品について

2−1.新海誠作品(『秒速5センチメートル』、『言の葉の庭』を経て、『君の名は。』へ)


わく  「『君の名は。』は、新海誠の作品だとエモの方向ではあるけど、『秒速5センチメートル』のような受動的な方向がなくて、能動的な方向に吹っ切れてハッピーエンドの作品だと思うんですよ。新海誠ファンは『秒速5センチメートル』のラストの印象が強いから、『君の名は。』のラスト付近で瀧君と三葉が再会できないんじゃないかと警戒するんです。でも、そこを吹っ切ってハッピーエンドになったということで、感傷寄りの作品ではあるけどマゾ寄りの作品ではないかな」

スケア 「今までの新海誠作品を見ていた人とそうでない人で、ラストの緊張感が全然違うよね」

わく  「ラストの雪の日に瀧君と三葉がすれ違ったシーンは、サメ映画で船の外に鮫がいるのに「こんな場所にいられるか!俺は海を泳いで家に帰るぞ!」と叫ぶおじさんが出てきた感じで、あ、ヤバいヤバいってなっちゃう」

スケア 「今まで、新海誠作品で、最後に再会する作品はなかったよね」

わく  「新海誠は、出会わなかったことで傷つく快楽を描き続けてきたと思うんだけど、東日本大震災の影響で少年と少女を再会させる方向に吹っ切れたんじゃないかな。劇中でもそうだけど、大災害のせいで二人がいきなり別れてしまったというのが、今までと違うじゃないですか。『秒速5センチメートル』のような、人生の積み重ねのうちに徐々に二人が別れていく方向性とは違いますよね」

たそがれ「それまでの新海誠作品だと、二人は別れるべくして別れたけれど、もしかすると二人が別れなかったかもしれない。そういう選択肢を主人公が選べたと思うんですよね。それと比較すると、『君の名は。』は確かにわくさんの言うように、大災害という主人公が選べない展開で二人が別れていますね。それなら、ラストで二人を再会させても不自然じゃないかな」

わく  「新海誠の作品は、基本的に主人公の男の子の過去形の独白だったと思うんですよ。「彼女は、○○だった」みたいな。そういう独白だと、現在の主人公と過去のヒロインが一方通行のコミュニケーションしかできない。主人公はヒロインについて独白できるけど、過去のヒロインから主人公について独白できない。でも、『君の名は。』で入れ替わりという要素が入ることで、現在の主人公と過去のヒロインが一方通行ではなく、双方向でコミュニケーションできるようになった。それで、ようやく新海誠の作品で、ヒロインに自我が芽生えたと感じましたね。だから、最終的に二人は再会できたんじゃないかな」

スケア 「どこまでいっても、新海誠作品のヒロインは、ひまわり畑にいる白ワンピースの少女だったんだよね。『ほしのこえ』はまた難しいけどね。『ほしのこえ』の女の子は自我があるけど、男の子とはすれ違い続ける」

わく  「『秒速5センチメートル』とかは、まさに現在の主人公が過去のヒロインを独白する作品じゃないですか」

スケア 「過去の彼女に対して自分の理想を重ねて、勝手に傷ついて、そういう貴樹君の自分勝手さは、感傷マゾっぽいよね」

たそがれ「もしも、『秒速5センチメートル』が二時間の映画だったら、第三章で主人公の恋人の水野さんとの別れがもっと感傷マゾ的な展開になったよね。過去のヒロインである明里と違って、現在の恋人の水野さんはもっと酷い言葉を主人公に向けていたんじゃないか。主人公と水野さんが付き合って別れるまでの経緯が、もっと深く描かれるよね」

わく・スケア“でも、私たちはきっと1000回もメールをやりとりして、たぶん心は1センチくらいしか近づけませんでした”

わく  「多分、あの台詞を携帯電話のメール越しではなく、直接言われるよ」

たそがれ「主人公は幼馴染の明里しか見ていなくて、水野さんのことを全く見ていない。そんな主人公を水野さんは近くから見ているから、もっと残酷な台詞を言うと思うんだよね。それは、元々の意味での感傷マゾに近い展開になるんじゃないかな」

スケア 「遠野君は、感傷マゾの鑑だよね。勝手に彼女と二人っきりの惑星にいる妄想をしたりさ。第三章の最初の下りの「日々、弾力を失っていく心」とか、傑作マゾだよね。“この数年間とにかく前に進みたくて、届かないものに手を触れたくて、それが具体的に何を指すのかも、ほとんど脅迫的とも言えるようなその思いがどこから湧いてくるのかもわからずに、僕はただ働き続け、気付けば日々弾力を失っていく心がひたすらつらかった。そしてある朝、かつてあれほどまでに真剣で切実であった思いがきれいに失われていることに僕は気付き、もう限界だと知ったとき、会社を辞めた”

一同  「あー…(心が傷ついて、勝手に気持ちよくなっている)

わく  「完璧ですね。本当に新海誠作品の中で、監督の内面が一番出ているなと思った台詞はこれかもしれない。多分、監督が会社を辞める時、こういう感じだったんだろうな」

わく  「他の台詞だと、『言の葉の庭』で孝雄が雪野先生を罵倒する言葉は最高ですね」

スケア 「あれ、男女逆転していたら、本当にヤバいよ。もう終わっているよ、人生が。“あんたは一生ずっとそうやって、大事なことは絶対に言わないで、自分は関係ないって顔して、ずっと独りで生きてくんだ”

一同  「あー…(心が傷ついて、勝手に気持ちよくなっている)

わく  「多分、あの台詞は新海誠がヒロインに言わせたかったんだろうけど、そこでヒロインに言わせたら一生『秒速5センチメートル』みたいな作品を作り続けるしかないから、新境地を目指すために男女逆転させたんじゃないかな」

たそがれ「『言の葉の庭』を挟まないと、罵りの川を越えて『君の名は。』を作れなかったですよね」

スケア 「『君の名は。』は今までの新海作品の積み重ねで、見ている人が勝手に過去の新海作品の展開を連想してしまう。でも、今まで新海作品を見てこなかった人が見ても楽しめる作品なんじゃないかな。昔、『君の名は。』で初めて新海作品に触れた会社の同僚がいて、僕は新海作品が好きな別の同僚と「いやー、最後のシーンはドキドキしちゃったね」と話していたんだよね。そうしたら、新海作品初見の同僚が「いや、あんなのどう考えても、最後に再会するって分かってるじゃん」と言い出してさ。本当に目から鱗状態になっちゃって、言われてみれば、確かに…。あの展開で二人が出会わないなんて酷い作品を、一体誰が作ったんだ!」

わく  「あれは、パブロフのマゾっていうかさ。男女が再会しそうなシーンで、本当に再会するなんて信用できない状態に、新海ファンがなってるんだろうね」

2−2.『ブレードランナー2049』ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督

わく  「『ブレードランナー2049』を観て、海外にも感傷マゾはいるんだ、というのが一番の衝撃でしたね。日本なら新海誠とか遠藤浩輝とか、探せば感傷マゾはいると思っていたけどさ。『ブレードランナー』の初代だと、私は本物の人間なのか偽物のレプリカントなのか、その両者で揺れ動いている自分自身の拠り所がないという感覚を描いていたと思う。でも、『ブレードランナー2049』だと、主人公を偽物だということで徹底的に傷つけさせる感傷マゾ的な方向になったんじゃないか。主人公のKは、多層的な意味で偽物だと思うんですよね。身体(レプリカント/人間)、子供の頃の思い出(植え付けられた偽の記憶/植え付けられていない本物の記憶)、恋人(ホログラムの偽物/実体のある本物)と、色んな側面からKを偽物にされていて、それでKがどうにかして本物になれないか拠り所を探す話だと思う」

たそがれ物語自身が、感傷マゾの糾弾するヒロインみたいだった。Kが偽物であることを、サディスティックに暴いていく。でも、その上でKが何を選択するのか」

わく  「作劇は感傷マゾなんだけど、K本人は全く感傷マゾではないんだよね」

スケア 「K自身は、ホログラムの恋人に対して不満があったわけではないし、虚構を否定しているわけでもないし、正直、僕はあの物語のラストがよく分からなかった」

わく  「確かに、ホログラムの恋人もレプリカントの身体も、K本人はある程度は受容しているかな。そういう意味でいうと、三つの偽物の中では子供の頃の思い出の比重が一番大きいよね。アナ・ステリン博士に、あなたの思い出は植え付けられた偽の記憶だと告げられて、Kは泣き叫んでしまう。自分自身の拠り所として、過去の思い出を設定している」

わく  「アナ・ステリン博士の記憶を植え付けられたKは、『ブレードランナー』の主人公のデッカードと、偽物を経由した上の親子関係じゃないですか。偽物の息子なんだけど、本物の息子であるかのようにK自身が選択した。偽物のK自身の生き様によって、Kは本物の息子になれたというラストだと思う」

たそがれ「「偽物/本物」という対比とは別に、「特別/凡庸」という対比があると思っていて、物語の途中までKは特別な主人公だったじゃないですか。人間のデッカードとレプリカントのレイチェルの二人の息子なんじゃないかという。Kが二人の息子であることを否定された後、街角で巨大なホログラムのジョイと会うじゃないですか。それまで、Kにとってのジョイは工業製品の恋人だったけれど、特別な存在だった。ジョイを外出可能にする装置をプレゼントして、二人で喜んだりさ。あの街角の巨大なホログラムは、「あなたはジョイを特別な恋人と思っているかもしれないけれど、大量生産されている凡庸な恋人なんだよ」と指摘するための演出だと思うんですよね。でも、デッカードは偽物の息子のKを、本物の息子のように特別扱いするじゃないですか。それで、Kは、自分を特別扱いしてくれるデッカードを助けようとしたんじゃないか」

わく  「ホログラムのジョイは、多分、世間的には偽物の恋人だったけれど、Kにとっては本物の恋人だった。『ブレードランナー2049』でKを偽物と暴いていくのは、基本的に「世間的には偽物」という視点じゃないですか。世間的には偽物でも、自分にとっては本物という状況って、現実にもたくさんあると思うんですよ。三次元の彼女を作らずに、二次元の彼女で満足するとかね。そういう世間的には偽物で、自分的には本物という構図が、すごく現代的だなと思った」

わく  「たそがれさんが言っていた「特別/凡庸」という対比で言うと、ホログラムの彼女を持つKと同じく、デッカードも死別した妻のレイチェルのコピーを作られているじゃないですか。デッカードもKも、自分が愛する人は大量生産可能だという事実によって、特別な恋人の死を強調されてしまう。デッカードとKの親子関係は、デッカードの娘のアナ・ステリン博士の幼少期の記憶がKに植え付けられている点もそうだけど、同時に「特別な恋人は、大量生産可能な凡庸な存在だ」と指摘される点が共通していて、二人の関係が深まったんじゃないか。そう考えないと、デッカードが感傷マゾ的に痛めつけられる意味はあまりないんじゃないかな」

スケア 「正直、Kにとってのホログラムの恋人のエピソードを、もっと深く描いてほしかった」

わく  「多分、エロゲーだったら、偽物の恋人と本物の恋人というテーマを第一に置くよね。『ブレードランナー2049』は感傷マゾの総集編だから、色んな要素を使っている反面、個々の要素を深く描いていない。エピソード的なんだよね」

スケア 「まあ、俺はエロゲー脳だからね。どうしてももったいないと感じてしまうけど、あの作品は感傷マゾの総合デパートみたいなものなんだろうな」

わく  「マゾの伊勢丹だよね。一階では偽の記憶、二階では偽の恋人が売られている」

スケア 「海外で感傷マゾ的な作品は、『ブレードランナー2049』以外にあるのかな」

わく  「『her』という人工知能の恋人を描いた米国の映画は、結構、エロゲーっぽかったよ」

たそがれ「ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作品の『メッセージ』もよかったですよね」

わく  「『メッセージ』はラスト5分間の、未来の娘の人生を思い出す母親の回想シーンが素晴らしい。『メッセージ』は一つのテーマを深めた傑作で、『ブレードランナー2049』は複数のテーマから成り立つモザイク状の大きなテーマを描いた傑作という感じでしたね」

たそがれ「主人公の能動的な強さを前面に出すと、感傷マゾ的に面白くなくて苦手なんですけど、『メッセージ』の母親の選択はすごく良かったですよね」

わく  「僕は、クリストファー・ノーランの『インセプション』のラストが本当に嫌いなんだよね。基本的に、夢と現実を対比させた米国の作品は、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』とは違って夢から覚めて現実に帰ろうとする作品が多いから、すごく嫌い。『インセプション』のラストは、夢だろうが現実だろうが関係なくて、俺は家族が一番大事だという落ちじゃないですか」

たそがれ「ノーランの家族観が、テーマに関係なく唐突に出てきた感じがしましたよね」

わく  「ノーランの家族観はめちゃめちゃ素朴で、彼の家族観を物語の原動力に置くことで作品として成功したのが『インターステラー』で、ラストに置いて失敗したのが『インセプション』だと思う。そういう意味で言うと、『うる星やつら2』でも『パプリカ』でも、日本は「夢は夢のままで、無理に覚めて現実に帰ろうとしなくていいんじゃない?」というスタンスの作品が多くて、僕はそっちの方が好きですね。正直、現実が嫌いだからアニメや映画を観ているんだしさ」

スケア 「『ブレードランナー2049』を観て、そういう「夢は夢のままでもいいんじゃない?」というスタンスの作品が米国にも出てきたのかなと思った」

わく  「そういう意味で言うと、『マトリックス』はすごく好きでしたね。『マトリックス』の主人公のネオは、サラリーマンとして会社で働いているけれど、日々の生活の中に現実感がないじゃないですか。『マトリックス』は『ファイトクラブ』と同じように、自分自身の日常の中で現実感を感じない男、日々弾力を失っていく心の物語なんだよ。『マトリックス』は、現実に対して現実感を感じない根拠として、「何故なら、人類が人工知能に支配されたディストピアでヒーローとして戦うのが本当の現実で、サラリーマンとしての日常は人工知能が見せている夢だから」というのを持ってくるんですよね。あれは、米国人の「夢から覚めて現実に帰ろう」という傾向と、日本のオタク文化の現実逃避的な傾向が、上手く融合しているんじゃないかな。『秒速5センチメートル』、『マトリックス』、『ファイトクラブ』は、日々弾力を失っていく心三部作かもしれない」

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図4『ファイトクラブ』ラストシーン 日々弾力を失っていく心 ヒロインと終末を眺める心境

2−3.『君の話』三秋縋

わく  「元々、三秋縋さんは、登場人物を入力するとエモを出力するシステムをプログラミングするような作品作りをする人で、主人公に感情移入するというよりエモ出力システムのためにキャラクターを用意している気がするんですよね。乙一のように設定が先行していて、キャラクターに対しては一歩引いた視点で描いている。『ブレードランナー2049』の様々な偽物の要素の中から、子供の頃の偽の記憶の要素を抽出して、概念の夏を付け足したのが『君の話』という印象でしたね」

わく  「作品の中の世界では、偽の記憶を植え付けたり消したりするのが当たり前の世の中になっていて、主人公が偽の記憶とわかった上で偽の幼馴染との淡い青春の記憶を自分自身に植え付けるんだけど、なぜか主人公の幼馴染を自称する謎の女の子が現れて、彼女は何者なのかを追いかける話です」

スケア 「自分の見た目のコンプレックスを解消するための手段として整形があるように、「こういう青春を過ごしていれば生きやすかったのに…」という青春コンプレックスを抱えている人が、自分の青春をデザインする世界観なんだよね。浴衣姿の少女と夏祭りに行くとか、誰が見てもベタだと感じるような思い出を植え付けて、それで主人公は若干満たされている」

わく  「盆休みに田舎の祖父母に家に帰省する若い人は少なくなっているのではという話をさっきしていたけど、虚構エモの話と『君の話』の設定がリンクしているなと感じて、現代的な話だなと思った」

かがみん「偽の記憶を植え付けられる前後で、人格の同一性は担保されているんですか?」

わく  「人格の同一性はあるんだろうけど、そこはテーマとして描いていないかな」

スケア 「どうしても消したい記憶がある人は、その記憶を消すことで暗い体験の前に戻れるみたいな感じですね」

わく  「終盤で、主人公とヒロインがハグしながら、偽の記憶を消す薬を二人とも飲んで、「まだ、覚えてるかな?」「まだ、覚えてるよ」と言い合うシーンがあるけど、あのシーンは睡眠薬を飲んだカップルの心中みたいで好きなんだよね」

スケア 「基本的に、劇中で描かれるエピソードはベタなんだよね。レコードを彼女の部屋で一緒に聴いたとか。どこかで見た、どこかで聴いたかもしれないエモい青春エピソードの連発。それ自体に対して、良いとは思わない。物語が終盤に行くにつれて、そういうベタじゃない、オリジナルの二人の青春エピソードが出てきた時に、それまでベタだと感じていた青春エピソードがボディーブローとしてじわじわと効いてくる。そこが見事だと思った」

スケア 「個々の青春エピソードは、今までもどこかで描かれていたようなベタなシチュエーションばかりで、それをメタ視点で見る。メタ視点は基本的に冷たく感じるんだけど、あの作者の虚構に対するメタ視点は優しく感じたな」

わく  「設定先行というか、理科室でエモを生み出す実験をしている感じなんだよな。水素に火を点けたら爆発して、エモが生まれましたみたいな」

スケア 「記憶の代わりに植え付けた偽の記憶は義憶と呼ばれていて、その義憶をデザインする人は義憶技工士と呼ばれている。『ブレードランナー2049』のアナ・ステリン博士みたいなさ。三秋縋さん自体が作家というより、エモい義憶を生み出す技工士みたいだよね。義憶技工士はあくまで相手のために義憶を作るじゃない」

わく  「ラストで義憶技工士になった主人公は、特別な義憶を作る。その義憶を植え付けると、“この世界のどこかにヒロインやヒーローがいて、今まで自分が手に入れてきたものは全部偽物で、どこかにある本物を手に入れない限り永久に幸せになれない”というコンピュータウイルスみたいな感覚も植え付けられてしまう。そういう感覚は、『ブレードランナー2049』のKの立場みたいだよね。「現実の記憶が本物で、虚構の記憶が偽物」という現実を本物の根拠とする人が大多数だと思うけど、三秋縋さんが求める本物は、現実よりも虚構にあると思う。足を切断した人が、足がないのに爪先に痛みを感じる幻肢痛というのがあるじゃない。義憶に伴う幻肢痛も同じように、本人には現実の青春の記憶がないのに、偽の記憶に伴う痛みがある。その痛み自体は本物なんじゃないかな。そこにエモが生まれる」

スケア 「『君の名は。』の瀧君の“いつもどこかで何かを探している気がする”という感覚を全員に植え付けている」

わく  「新海ウイルスだ」

スケア 「新海ウイルスに感染すると、“朝起きると何故か泣いている”状態になってしまう」

わく  「『君の話』では、主人公の両親と、主人公とヒロインの対比が、一番好きなんですよね。主人公の両親は、二人とも理想の妻や夫の義憶を自分に植え付けてイチャイチャしているうちに、現実の人間関係が破綻して離婚するんですよ。主人公の両親の離婚と比較すると、主人公もヒロインも個別の義憶の中に耽溺するのではなく、ボーイ・ミーツ・ガールの方向に向かう。義憶という装置はあるんだけど、義憶に耽溺して独りよがりにならないんだよね。偽の記憶であっても、相手に向き合おうとする」

スケア 「主人公もヒロインも運命の二人だったのに、現実では出会わなかった。だったら、虚構の中で出会ったことにしていいんじゃないか」

かがみん「偽の記憶に溺れるか溺れないかの違いという」

スケア 「罵りの川を渡るわけではないから、感傷マゾではなく虚構エモかなと。両親と主人公たちを比較することで、虚構エモではあるけれど、虚構に独りよがりに耽溺するわけではない。すごく真摯な作品でしたね」

わく  「三秋縋さんは本当に真っ当な人で、すぐに罵りの川を越えて独りよがりに虚構に耽溺する自分を、少女に罵倒されたい感傷マゾの俺は最悪だなと思った。もうちょっと、虚構の女の子に罵られて気持ちよくなるとかじゃなくて、虚構の女の子に向き合った方がいいなと思った…まあ、そういうことすらも美少女に指摘されたいんだけどね」


3.感傷マゾの今後について

3-1.概念の夏とVR

わく  「感傷マゾとVRの話をしようと思います。まず、VRは、身体(アバター)と場所(ワールド)の2つの話に分けられると思うんです。身体の話では、現実だとおじさんの人が、VR上では美少女のアバターをまとってバ美肉おじさん(バーチャル美少女受肉おじさん)と言われる感じ。場所の話だと、VRChatで感傷マゾ界隈に大人気の「Bus Stop」というワールドがあるじゃないですか。『千と千尋の神隠し』の後半の電車シーンのように、浅瀬の海の中にバス停と大量の風車がぽつんとあって、もう二度と来ないであろうバスを待つだけのVR空間。ネットで盛り上がっているVRの話題を見ると、場所よりも身体の話の方が多い。現実ではコンビニバイトのおじさんが、VR上では美少女として振る舞い、周囲からも美少女として扱われるというのが、盛り上がりやすい話題だと思うんですね。でも、僕はVRに関しては、身体よりも場所の話の方が興味あるんですよ。だから、今回は場所というか、場所を通した体験の話をします」

わく  「VRChatのワールドは、全てがつながっているフィールドではなく、一つ一つのワールドが独立していて、その間をワープするじゃないですか。その独立したワールド一つ一つに、「夜の神社」とか、「バスが来ないバス停」とか、「日本の海辺」とかテーマを持っていて、似たワールドはあまりないんですよね。おそらく、ワールドに容量制限があるからなんだろうけど、「Bus Stop」だと、書割の背景の青空に浮かぶ雲と風力発電機のプロペラだけ動いている。そういう一部分だけ動いているのが、gif動画としてツイートされる静止画の一部分だけが動いてループするシネマグラフやピクセルアートのVR版に近いと思うんですよ」

わく  「今は、VR上の場所は一部分だけが動くものだと思う。それって、子供の頃の思い出の風景と似ているんですよね。記憶の中の風景はピースが欠け落ちているから、印象深かった一瞬だけが目に焼き付いている。例えば、「女の子と花火大会に行った時、花火が夜空に上がって花火の光で照らされた女の子の横顔」とかね。そういう強烈な瞬間が思い出になるじゃないですか。思い出の中の風景と、今のVR上の場所はかなり似ていると思うんですよね」

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 図5 VRChat ワールド名 : Bus Stop

スケア 「ちょうど、一年くらい前に、自主制作映画を撮ろうという話が出たんだよ。よく、映画監督の岩井俊二の作品に登場するような、理想の夏の風景を大量に撮る。ひまわり畑と風車とか、福島の布引高原とかね。そういう場所で彼女と一緒に過ごして、夏祭りの花火を見ているカップルを後ろから撮影するのね。「きっと、僕は永遠にこの瞬間を忘れないと思った」というモノローグの直後に、実はその風景はVR空間のもので、VRゴーグルを外した男の子が涙を流し、「サービスは以上になります」という機械音声が流れた後、「最高の夏」というテロップが出るのね」

わく  「完全に、攻殻機動隊の偽の記憶を植え付けられたおじさんじゃないですか」

スケア 「そういう夏のキャンペーン映画を考えたんですよ。それで、今のわく君の話を聞いて思ったのは、感傷の中にある抽象化された風景って、結構、みんな持っているじゃん。それって何から始まっているのかなと気になるんですよ」

かがみん「共通認識としての原風景の話ですか」

スケア 「そうそう。夏だったら、風車とひまわり畑に白ワンピースの少女とか」

かがみん「ひまわりだと夏とセットになっているし、夏と紐付いているアイテムが共通していると思う」

スケア 「人類の共通認識ではないと思うんだけど、文化圏ごとに異なる概念の夏の風景がありそうですよね。米国だと、西部の大規模農場で幼馴染の女の子とかくれんぼしているとかね。『フォレスト・ガンプ』の女の子とか。『インターステラー』のとうもろこし畑とか」

わく  「日本だと、俳句の歳時記に収録された季語で、春だったら桜とか、夏だったらラムネとか、季節と紐づくアイテムが共有されやすい環境じゃないかな。だから、実際に体験したことでなくても、夏の思い出として語りやすい」

スケア 「春はあけぼのとかね」

わく  「大体、オタクが想像する概念の夏のアイテムは、歳時記に書かれてると思うんですよ」

かがみん 「夏祭りのような季節毎のイベントなら毎年やるから、今年は行けなくても来年行こうとなるじゃないですか。そういう定番化した行事は、季節に紐付いた共通認識の思い出になりやすいですよね」

わく  「卵が先か鶏が先かみたいな話になるんだけど、元々は、海水浴に行って泳いだ後におじさんの家の縁側でスイカを食べたとか、そういう体験の後に思い出ができると思うんですね。でも、それが逆転して、夏の思い出を作るために田舎に体験しに行こうというのもありますよね。そうなると、夏なら夏祭りとか花火大会とか、夏のイベントのイメージが共有されていて、概念の夏を実体化するために行動する」

スケア 「「女の子と夏祭りに行きたい」という欲求は、本当は女の子と一緒に行く方が重要なんだ。でも、感傷マゾはまず背景を探しに行って、勝手に女の子を付け足す。そこで写真を撮ってtwitterに上げて、女の子が写っていなくても、「儚げな美少女が見えますよね?」「あー、見える!」と架空の思い出を共有してしまう」

わく  「感傷マゾにとっての女の子は、妄想でできた家の大黒柱みたいなもので、重要なんだけどあくまで一部分でしかないと思うんですよ」

かがみん「思い出を作りに田舎に行くというより、思い出される風景が田舎にあるということですか?」

スケア 「思い出しに行くという意味で、無なんだよ。そこに存在していない少女を探しに行って、少女がいないことに満足する」

わく  「女の子と一緒に夏祭りや花火大会に行って概念の夏を実現したら何かが満たされるんだけど、女の子がいなくて満たされないから感傷する。それで、偽の思い出で満たそうとする。それが感傷マゾだと思うんだよね」

スケア 「時間と思い出は切り離せなくて、大人になった現在で体験しても満たされないんだよね。過去のあの時、体験しないと満たされない。盲目的に過去を美化しているんじゃなくて、「あの時手に入れられなかった思い出を、今手に入れても虚無でしかない」という後悔をして、マゾ的な快感に浸る」

わく  「感傷的な夏の思い出は、自分も女の子も十代なんですよね。それが、二十代、三十代になった時に、夏の思い出を作ろうとしても、三十代だからこそ共有できる夏の思い出って少ないと思うんですよ。女の子と夏祭りに行くとか、花火大会に行くとか、十代の青春と紐付けられている。大人になってからの夏の体験は、ひたすら現実しかなくて、概念にできないんですよ」

スケア 「あくまで、虚構の中にしかないからね」

かがみん「十代の時に、全く青春の思い出がなかったパターンと、女の子と夏祭りに行く約束をしていたけれど行けなかったパターンがありますよね。後者の方が、「あの時、こうしていれば、女の子と夏祭りに行けたのに…」という後悔から感傷に浸れる気がするけど、どうなんですか?」

スケア 「実際に、青春の思い出がなくても、虚構の思い出で満たして感傷に浸ることは可能だと思う」

わく  「今は大人になったから、青春の思い出がないことに対して、「感傷マゾ」とかメタ的な視点で自虐遊びができるくらい余裕があるけど、自分が十代の青春の当事者だった時は、女の子と夏祭りや花火大会に行くことは相当深刻な問題だったと思うんだよね。俺、高校生の時に、地元の神社の夏祭りに女の子と一緒に行けたら、魂が救済されると本気で考えていたよ」

スケア 「そもそも、十代の頃の俺は、女の子と夏祭りに行くという巨大なイベントに耐えられる強靭な自我を持っていない。自分の内面で精一杯だからさ」

一同  「(笑)」

かがみん「感傷マゾ的には、付き合っている女の子がいる状況より、付き合っていないんだけど気になる女の子がいる状況の方が美味しいですよね」

わく  「付き合うか付き合わないか分からないくらいの関係の方が、感傷が輝く。付き合い始めた後の悩みは、もっと現実的じゃないですか。LINEを既読無視されるとか。付き合う前の方が抽象的な悩みになるだろうし、虚構と相性良いと思うんですよね」

スケア 「田舎のなんでもない風景の写真に「濃厚な無」とツイートを付け足すの、一時期、感傷マゾ界隈でブームになっていたけど、あれはどういう経緯で始まったの?」

わく  「千葉の小湊鐵道からいすみ鉄道沿線を旅行した時、同行した友人と「いやー、何も無い場所だねー」と喜び合っていたんだよね。それで、いすみ鉄道の大多喜駅に降りたら、“ここには、何もないがあります”と書かれた巨大なポスターが貼ってあって、シンクロニシティーだ!」

スケア 「“ここには、何もないがあります”は重要なキーワードだよね。感傷マゾ的な原風景を言い当てているよね」

わく  「「なぜ、感傷マゾは、マゾ寄りから感傷寄りになったのか?」という話で『君の名は。』の影響について話したけどさ。正直、いすみ鉄道の観光ポスターの影響の方が強いんだよね。何もないんだけど、何かがあったと思い返したいんだよ」

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 図6 いすみ鉄道株式会社 観光ポスター


スケア 「感傷マゾは、同じポジションでオーバーラップして消えていく子供たちが好きだよね。振り返ると、港町の路地裏に女の子がいた気がするけど、もう一度見直すとスーッと消えていくとか」

一同  「(笑)」

わく  「冬目景の初期の短編漫画に登場しそうな少女だ」

スケア 「わく君は、神社の境内にいる狐面の女の子とか好きでしょ。あれは、何が元ネタなの?植芝理一の『ディスコミュニケーション』?」

わく  「確か、洒落怖の怪談か五十嵐大介の『はなしっぱなし』だったかな。「神社の境内に男の子が入ったら、和服姿の謎の女の子が、ここに入ってはならんと拒絶するのね。でも、男の子は同級生にいじめられていてここしか居場所がないと言うと、女の子が「仕方ないわね…」と諦めて手鞠か何かで一緒に遊ぶ」話があったんだよね。それが原風景だと思う。何も無いところに女の子がいたのかもしれないシチュエーションがすごく好きで、僕が田舎で写真を撮る判断基準は、そこに女の子がいたかもしれないか否かですね。路地裏とかね、いるんですよ。オタクは路地裏に少女を見てしまうから、仕方ないんです」

わく  「あと、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』で、風鈴売りのおじさんと白ワンピースの幼いラムが路地裏を歩いていて、二人を追いかけたしのぶが迷い込むと、無数の風鈴に囲まれるシーンとかね」

スケア 「『ビューティフル・ドリーマー』は、夏の日差しの強さが緊張感を高める演出に使われるのも印象的だよね。『ビューティフル・ドリーマー』の夏の風景に、元ネタはあるのかな?」

わく  「多分、押井守自身の体験や日々妄想していたことを素直に出しているんじゃないかな。『ビューティフル・ドリーマー』以降の作品も好きなんだけど、「あ、これは本当に押井守が、独りで妄想していたんだろうな」と感じるシーンが多いから特別に好きなんですよね。夜の友引町で車が道路を走る時に、車が単なる光としてしか描かれないシーンとか。あれ、いいよね」

スケア 「俺たちの年代だと概念の夏の風景を引き継いでいるけど、今後の世代はどうなっていくのかな。VRと絡めて新しい風景が出てくる可能性はあるよね」

わく  「今までだと、現実の夏の風景がVR上に再現される流れだったけど、これからはVRで体験することが思い出作りの一環になると思うんだよね。もしくは現実の夏の風景を再現する必要すらなくなって、「Bus Stop」のように現実ではありえないけれど、エモさを追求した結果できあがる虚構の原風景が出てくるのかもしれない」

スケア 「たとえば、今は花火の動画は、ドローンで花火を撮影する流れが主流になりつつあるんだよ。花火の中にドローンが突っ込んでいくとかね。そういう花火シーンがVRにも取り入れられていくと、花火は下から見るんじゃなくて上空から見る。夏の風物詩の見方が変わっていくのかもしれないね。VR空間を女の子と一緒に飛んで、ドローンの視点で花火を見るとか。そういうのが、新しい概念の夏の風景になるのかもね」

わく  「僕やスケアさんやかがみんさんなら、夏なら花火大会や海水浴のイメージをアニメやエロゲーなどの虚構から共有していると思うんだけど、それはあくまで概念の夏の要素だけ共有していて、実際に概念の夏を体験してないじゃないですか。今後はVRChatで、概念の夏を体験する流れになると思う。「現実では夏を体験できないから、アニメを見て概念の夏の妄想をする」という流れがなくなって、もうコンテンツそのものが体験になる。そういう風に変わっていくと、「自分が十代の時に、こういう青春の思い出を作れなかった」という後悔から感傷マゾになる流れも変わる」

かがみん「思い出が、再現可能なものになっていくということですか?一過性のものではなく」

わく  「そうそう。そういう意味で言うと、VRによって感傷マゾは薄れていくか、変化せざるをえなくなっていく」

スケア 「『君の話』の義憶技工士もそうだし、VR上で女の子との思い出を自分で作り出していく流れになるのかもね。そうなると、今共有されている思い出の風景はどうなるのかな。今後の世代だと、共有できなくなっていくのかな」

わく  「要素としてはそんなに変わらないと思うんだよね。もう、夏のイメージは完成され尽くしたじゃないですか。だからこそ、概念の夏という言葉が有名になったんだよ。だってさ、僕とかスケアさんですら、夏に田舎のおばあちゃんの家の縁側でスイカを食べるとか、そういうベタベタな夏を体験しているわけじゃないでしょ。多分、そういう夏の原風景の要素は変わらず、VR上での表現方法だけが変わっていくと思う」

スケア  「もう、今後は少子高齢化で都会に人口が集中して、現実では田舎のおばあちゃんの家に帰省する体験が減っていく。その分、夏はより抽象化が強化されていく」

わく  「今は、現実の夏と虚構の夏の過渡期だと思う」

スケア 「それで、夏の抽象化と同時に、夏のイメージの多様性も失われていくよね」

わく  「そうそう。そういう意味で私が最も気になっているのは、VR上で夏の思い出が再現できるようになるとしたら、夏の儚さは何が担保するのか?ということなんだよ。今までは、夏の思い出を実体験できなかったから妄想するという夏の虚構性や、少年の頃に一夏の淡い恋の思い出があったけど二度とあの夏には戻れないという人生の不可逆性などに、夏の儚さは担保されていたと思うんだよね。ひぐらしの鳴き声にエモさを感じるのも、夏の終わりを告げるからだしさ。今でも、概念の夏という形式で夏に対して儚さが求められているのは変わらない。その夏がVR上で再現されたとして、終わらない夏はエモいのか?」

わく  「よく私が感傷マゾのキーワードとして、「瞬間を永遠に」という言葉を言っているんだよね。それは、人生の中では瞬間でしかない思い出を、永遠のものにしたい欲求のことを言っているんだけど、感傷マゾの人はそれを分かると思うんだよね。スケアさんの表現だけど、「もう青春は在庫切れで郷愁だけはバーゲンセールになりつつある」大人になってしまって、あとは子供の頃に嫌悪していた中年や高齢者になっていくだけで、時計の針は止まらない。でも、あの夏の花火大会で花火の光に照らされた女の子の横顔とか、そういう瞬間は永遠にしたいんだよ。時間が止まらない現実には永遠なんてないのに、永遠にしたいんだ」

わく  「VRだと、本当に「瞬間を永遠に」にできてしまう。あの夏を再現した空間で、バ美肉おじさんと一緒に永遠に花火を見つめることができる。そうやって、自分の欲求が満たされてしまったら、僕らは何に対して儚さを感じればいいのか?これは、感傷マゾの根本的な部分に関わる問題だよね。今後、終わりがあるので儚い夏から、終わりがなくてエモい夏へと、求められる風景が変わるのかもしれない。でも、私の本音として、瞬間を永遠にできなくて傷つきたいんだ。そこも、感傷マゾと虚構エモの分岐点かもしれない」

かがみん「感傷の余地が無くなってしまうんですね。こういう夏を過ごしたかったという欲求自体が満たされてしまう」

わく  「それを分かりやすく言うと、ライブ感が失われることだと思うんだよね。音楽は、レコード登場以前はライブでしか聴けなかったけれど、レコードなどの録音媒体の登場によって、同じ音楽を繰り返し聴けるようになったじゃないですか。そうなると、「戦争前に、一度だけコンサートで聴いたあのクラシックの曲は良かったな」みたいな感傷の余地がなくなるじゃないですか。夏の思い出も同じなんだよ。いくら妄想しても、「現実」の夏の体験は一度しかできないし、青春には二度と戻れない。でも、VRの登場によって、音楽と同じことが「夏の思い出」にも起こるんだよ。体験を記録媒体に残すことが、VRだと思う」

スケア 「なるほどね。映画のような映像じゃなくて、VRは体験だもんね」

わく  「今までは、映画や音楽などのコンテンツが記録媒体に残されていたのだけど、今後は体験自体が記録媒体に残されるようになるんだよね。そして、誰でも最高の夏を体験できるようになる」

わく  「今(2018年11月)だと、VRに関して、おじさんが美少女になる身体(アバター)の話が盛り上がっているけれど、私は場所(ワールド)の方に興味あるというのは、そういうことなんだよね。その場所での体験の話」

かがみん「ようやく、身体(アバター)と場所(ワールド)の切り分けの意味が理解できましたよ」

スケア 「そういう風になったら、かつてあった風景自体が無くなっていくのかもね。過去も現在も未来もなくて、永遠の世界しかないもんね」

かがみん「『楽園追放』で、主人公たちがVR上の夏のビーチを体験するエピソードがあったじゃないですか。未来の人々が、夏のビーチで楽しむことは、現実と仮想現実の間の体験に差がないということなんでしょうね」

スケア 「今後、人類が宇宙に進出して、月や火星にいる人が「地球の風景を体験しましょう」となった時に、抽象化が進んで多様性もなく類型的な概念の夏を体験するかもしれないんだよね。その思い出の風景の多様性を保つための義憶技工士、みたいな職業も出てくるのかもね」

わく  「天然記念物的な、保護すべき思い出とか出てくるのかもね。人類の宇宙進出後、仮想記憶の類型的な夏ではなく、既に滅びてしまった地球で田舎の夏休みを実体験した、最後の老人とかね」

わく  「ツーリズムの世界で、「買う観光」から「見る観光」、「体験する観光」へと人気の対象が変わってきたじゃないですか。買うことはAmazonで、見ることはYoutubeで代行できてしまう。となると、旅行の目的がネットサービスと競合していて、既存のネットサービスでは不可能だった体験が旅行の目的になっていたと思うんだよね。でも、今後、VRで体験自体も代行できてしまう。そうなると、次に人気が出る観光は何だろうね。観光自体、人気が無くなるのかもしれない。ある程度は、VRとGoogle Mapの組み合わせの仮想旅行で満足できてしまうから。この流れは、男性が女性を消費する流れとかなり近いと思うんですよ。昭和の飲む打つ買うの時代から、AVやエロゲーで見る時代、そして今はまだVRで美少女を一時的に体験する時代だと思う」

スケア 「『ミスター・ノーバディ』という映画で、人間に寿命が無くなった世界で、老人の主人公だけは寿命があってもうすぐ死ぬ設定なんだよね。「寿命があるのは、どんな感じですか?」と主人公が取材を受けた時に、主人公が語る思い出は三種類ある。それは、三人の女の子と結婚した記憶なんだよ。お父さんとお母さんが離婚した時にどちらにいったか、夏のプロムパーティーの時に女の子の手を引けたか否か、そういった人生の選択肢によってどの女の子と結婚したか運命が変わる。この映画の中では、すべての人の人生の記憶は神様からもらって生まれてくるけど、みんな生まれる瞬間になくしてしまう。けれど、主人公だけは記憶をなくす儀式をできなかったので、間違って生まれてきた。だから、寿命がある。そういうSF的な話なんだけど、実際に寿命がなくなった時に、思い出に対する見方も変わるだろうね」

わく  「三秋縋さんの『君の話』もそうだったけど、感傷マゾ的な記憶に関する話は、思い出を手に入れるのではなく、失われた思い出を取り戻すスタンスが多いよね」

スケア 「この偽の記憶は本当のはずだから取り戻すというのが、良かったよね。偽の記憶に振り回されるのではなく、本当の記憶を能動的に取り戻そうとする」

わく  「そういう意味では、(攻殻機動隊で偽の記憶を植え付けられた)清掃局おじさんと真逆だよね。清掃局おじさんは、自分の娘との記憶は偽物だと自分で認めて泣いちゃう」

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スケア 「僕たちの欲求として、清掃局おじさんになりたい気持ちはあるよね。「お前が大切にしている思い出は偽の記憶だ」と、美少女に指摘されたい。清掃局おじさんの泣く顔は痛ましいんだけど、その痛みを体感してみたいというマゾ的な欲求がある」

わく  「あ、すごく分かる」

かがみん「美少女に指摘されたいおじさん達だ(笑)」

わく  「もし、清掃局おじさんに指摘するトグサが美少女なら、黒髪ロングで冬服セーラー服の子がいいな」

一同  「おやおやおや?」

スケア 「何か、このおじさん、いきなり自分の性癖の話を混ぜてきたぞ。「あなたのスマホの写真には、誰も写っていなかったわよ」みたいな」

わく   「今でもその設定できるよ。田舎で、誰もいないけどエロゲーの背景になりそうな風景を撮影するのが趣味だからさ。帰宅後に脳内トグサから罵倒されつつ、「確かに写っていたんだ…あの夏の路地裏に、確かにヒロインがいたはずなんだ…」と涙を流す」

スケア 「それ、わく君、まだやってないの?」

わく  「やってないけどさ…何か、大麻吸っている人に、まだコカインを吸っていないのかを問い詰めるような口調止めてもらえます?そういう信頼はいらないんですよ」

一同  「(笑)」

スケア 「あと、十五年くらい経つと、フルダイブ型VRが出てきて、最高の夏を体験できるようになるかもね。そうなった時に、どのような世代差ができるのか気になる。小説家になろうの異世界転生を体感できるのかもしれないよね」

わく  「思い出が個人のものではなく、完全にコンテンツ売買の対象になる」

かがみん「思い出が過去を振り返って見るものではなく、VRで体験するものになるんでしょうね」

わく  「多分、そういう体験という記憶過程を飛ばして、記憶を植え付けるのが『君の話』の義憶だと思うんだよね」

かがみん「これからは、アニメ放送中に公式アバターが配布されて、アニメの中の世界をVR上で体感できるようになるかもしれませんね」

3-2.誠実ハーレム


わく  「思い出を売買できるようになった時、「こんなオタクの自分が、幸せな記憶を持っていいのか?」という問題が出てくると思うんだよね。それが、誠実ハーレム論と近いと思うんだよ。男が入るお風呂の中に札束がどっさりあって、横には二人の美女がいて、「この数珠のおかげで、大富豪になったぜ!」みたいな、ヤングマガジンの有名な広告があるじゃないですか。ああいう不誠実ハーレムで大喜びできる精神性の人間じゃないと、ハーレムという状況に耐えられないんだよ。少なくとも、俺は耐えられないと思う」

かがみん「確かに、そうですね」

スケア 「ライトノベルでその問題を解決するために、鈍感主人公ができたと思うんだよね。ハーレムの状況でも、鈍感だから耐える以前に気づかない。その後、鈍感主人公に対するカウンターとして、『僕は友達が少ない』みたいに鈍感主人公として振る舞っていたけど本当は最初から気づいていた…という物語が出てきたりさ」

わく  「鈍感主人公は、ハーレムに対する逃げだよね」

スケア 「実際のところ、エロゲー的な世界観だと、選択肢によって各ヒロインの個別ルートに行くじゃない。ハーレムルートもあるけど、ランスみたいな「俺はすべての女の子を手に入れるぜ!」という性格じゃないと無理だと思う」

かがみん「あとは、陵辱エロゲーとかですかね」

わく  「たっちーとかの陵辱エロゲーだと、主人公が酷い悪役だから、最終的にヒロインが全員洗脳されてハーレムエンドにいきやすいよね。それは陵辱エロゲーとしては正しい展開なんだけど、純愛エロゲーでハーレムエンドになると、結局、お前(主人公)は誰が好きなんだ!となる。自分自身のキャパシティーを超えた幸福なシチュエーションは、果たして幸福なのか。キャパシティーを超えた幸福は、自己嫌悪に転換すると思うんだよね」

スケア 「ランスシリーズだと、最初は主人公が鬼畜で「全ての女の子を手に入れるぜ!」みたいなノリなんだけど、作品を経るごとに時代に合わせて純愛寄りになっていく。主人公が、女の子が困っている状況やトラウマを取り除いて、女の子を救う方向性になるんだよね。それが、小説家になろうに移植されて、誠実ハーレムに変わっていったんじゃないかな」

わく  「異世界転生ものは、主人公がチート能力を持っているから、主人公一人に女の子が集まってハーレムエンドになりやすい構造になっている」

スケア 「小説家になろうは、読者の声を反映しやすい媒体だから、最初はヒロインの個別ルートに分岐していたよね。最終的には、もっと効率よく処理するために、全ヒロインルートを通るようになった」

わく  「ヒロイン全員攻略ルートを通った結果、全員と結ばれるハーレムエンドにしないと、選ばれなかったヒロインが自殺するかもしれない。異世界転生のヒロインって、正直、メンヘラのヤンデレでダメな子ばっかりなんですよ」

スケア 「そうでないと、異世界転生ものの、他にヒロインがいるという物語の強度にヒロイン自体が耐えられない」

わく  「それで、ヒロイン全員攻略ルートを通るなら、誠実に対応するしかない。現代日本から異世界に転生してきたから、一夫一妻の価値観の主人公からすると違和感があるけど、「誠実に」ヒロイン全員と結ばれるしかない。それが、誠実ハーレムだと思うんですよね」

スケア 「一人のヒロインを選ぶことで、もう一人のヒロインが忘れさられていくのを救うという」

わく  「まさに、かつて敗れていったツンデレ系サブヒロインを救う物語なんですよね。誠実ハーレムは」

スケア 「俺はハーレム自体が好きなんじゃなくて、かつて選ばれなかったヒロインすら救ってみせるという、物語の強度が好きなんだよね」

わく  「わかる。僕もハーレムそのものが好きというわけではないかな」
かがみん「誠実ハーレムで、オススメの作品ってありますか?」

わく  「『無職転生―異世界行ったら本気だす―』と『異世界迷宮の最深部を目指そう』ですかね」

スケア 「あと、『セブンス』とか、『ありふれた職業で世界最強』とか。異世界転生ものだと、結構ありふれた展開になっていますね。今だと、選ばれなかったヒロインがいることに耐えられない読者もいるから、「全ヒロインルートやります」みたいなタグ付けがされていますね」

わく  「異世界転生ものって、選択肢のないエロゲーだと思うんだよ。そのジャンルとしての熱さで言うと、全盛期の2000年代前半のエロゲーに近くなってるんじゃないかな」

スケア 「なろう系って、受けたジャンルや手法をどんどんコピーして洗練させていくから、小説というよりエロゲーの新しい形式と考えた方がいいと思う。読者からの反応を受けて、リアルタイムに開発されるエロゲーをプレイしている感じですね」

わく  「『異世界迷宮の最深部を目指そう』は、本当にすごかったですね。誠実ハーレムそのものを主人公に迫るヒロインがでてきて…」

スケア 「今、『異世界迷宮の最深部を目指そう』を読んでる途中だから、その辺で…」

わく  「あ、ごめん」

わく  「『異世界迷宮の最深部を目指そう』は、ロードというヒロインが出てくる地下編が一番好きで、それ以降の盛り上がりも素晴らしいので、ぜひぜひ。エロゲー的でありつつ、少年漫画的でもあり、ジャンルに対するメタ的な視点もある。スケアさんが読んでいないので細かく話せないけど、本当に傑作でした」

スケア 「感傷マゾの話をしていたはずなのに、誠実ハーレムの話を経由して、異世界転生ものの話になったよね」

わく  「今後、VRによって「あの夏の思い出」が振り返るものから体験するものに変わった時、現実もVRも現実感は変わらなくなると思うんですよね。そういう時、今、現実と呼ばれているものも、レトロニムになっていく。日本で汁ありの担々麺が人気になった影響で、中国の担々麺が、日本で汁なし担々麺と呼ばれるようになったように。VRによって相対化された現実は、『BLAME!』に出てきた「基底現実」と呼ぶのが良いのかも。それで、基底現実と仮想現実、思い出と仮想的体験の区別が曖昧になっていった時、感傷マゾが妄想し続けてきた概念の夏に対して、どう向き合うのかという問題が出てくる。現実が相対的になるから、概念の夏をVRで「体験」することは、現実逃避にならなくなっていく。『ベルセルク』のロスト・チルドレンの章の結論のように、“逃げ出した先に楽園なんてありゃしねえのさ 辿り着いた先 そこにあるのは やっぱり戦場だけだ”ということだと思うんですよ。今まで妄想してきた概念の夏が現実になった時、感傷マゾも都合の良い現実と向き合わないといけなくなる。「都合の良い現実に耽溺するのではなく、向き合う」というのは、今後のVR感傷マゾのキーワードだと思うんですよね。誠実ハーレムは、まさにそういう問題ともリンクしていると思うんだよね。だから、別に何となく異世界転生ものの話をしていたわけじゃないんですよ…と言い訳ができたところで、感傷マゾ座談会は終わりにします」


【引用した画像】
図1 『ゴールデンタイム』第24話 ©️竹宮ゆゆこ/アスキー・メディアワークス/おまけん
図2 『遠藤浩輝短編集(1)』46P『カラスと少女とヤクザ』©️遠藤浩輝/講談社
図3 『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』©️1995 士郎正宗/講談社・バンダイビジュアル・MANGA ENTERTAINMENT
図4 『ファイトクラブ』©️20世紀FOX
図5 ©️VRChat Inc. / 製作者:Pumkin
図6 ©️いすみ鉄道株式会社


【参考togetterまとめ】

「感傷マゾ男」とは何か? 
https://togetter.com/li/958171

「感傷マゾ男」的妄想まとめ
https://togetter.com/li/1048116

『シン・ゴジラ』尾頭課長補佐概念研究会
https://togetter.com/li/1006497

『君の名は。』に対する感傷マゾ男の反応
https://togetter.com/li/1019200

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