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『キャロル』観賞記録。

写真ってすごくいいなと思った。
その人とのその一瞬を切り取って、それは一生のものになる。

細かな言葉にはせず、二人を見つめていたというその気持ちだけを今は抱き締めていたい。すぐには言葉にしたくない。
感想を分析的にはしたくない。
感情は漂う海のような、広い宇宙のようなそんななにものにも定義されてなくて、なにも失われていない状態でいたい。今は。

手がとても印象的に描かれていて、彼女は手を意識して写真を撮ってると思う。

彼女の恋人やキャロルの夫、その親について憤り言いたいことは生まれるばかりだが、それはあまりにありふれていることでだからこそ悲しいと思う。
どうして、本当に大事にしているなら、相手がどうしたいかということを聞かないのか。結局自分の思う通りにしたいだけで、自分のいうことを聞いてくれないと怒るのは、その人を自身の所有物かなにかと勘違いしているのではないのか。
本当に相手のことが大切ならば、どうしたいのか気持ちをきちんと聞いて、その上で2人で話し合おうとするべきだ。
そうでなければ、ただの傲慢で、暴力で、ただ自分が自分のことだけが大切なんだということに気付いていないということなんだろう。
相手を思いやるとはどういうことなのか聞いてみたい、私も、そういう人に。


はじめの音楽が聴こえてきただけで、私はああこの映画はきっと素晴らしいんだと思って涙が出た。
涙が出たのは後に出てくるシーンの音楽だからだったんだなとそのときになって気付いた。

キャロルに強烈に惹かれる気持ちが分かる。
ケイトブランシェットのあのなんともいえないすべてを見つめているかのような眼差しとすべてを知っているかのような声、雰囲気。
2人とは違う関係性だけれど、私はある人を思い出した。
自分がそれまで対峙したことのない、とても大人という言葉が似合う人。
会話をすることができる。
傷もささくれさえも負わずに会話をすることができる。

私はやっぱり、「二人」の映画が好きなんだと思った。
いろんな映画を観て、たった二人のその究極の最小単位の人間関係を描いているものに強く惹かれる。
二人っていうのはラブストーリーということではなく、たった二人の魂の物語ということ。

その人に多くの正しさがあるのはそれだけその人が傷ついてきたということだと思う。

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