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自己PRの終着点

私はわたしをどう見るのか。

私は、自分の良さというものがいまいち分からない。

私の良さとは?と問われると、自分に対して客観的なところ、集中力があるところ、ぎりぎり思い浮かべられるのはこんなところで、でもこれも良いかといわれればそういうことでもないと思う。人には素直なところといわれることが多い。

そもそもその人の良さとはなんだろう。
私が感じる周りの人たちの良さは沢山ある。

大事な話を絶対に真剣に聴いてくれる人、柔らかな雰囲気の人、びっくりするくらい真面目な人、静かな海みたいに広くて優しい人、繊細だけどいつも明るくて全力で生きてる人、悩みながらも自分の夢を貫くために努力している勇気ある人。

私の好きな人は本当に良い人達で、だからこそ私とずっと友達なんだろうなとも思う。

でも、私は自分が自分の良さはここです!と自信をもっていうことができない。

だから自己PRの文にいつも迷う。少し前までは、自分という存在自体の価値に自信がなくて、こんな有名な人に直接教えてもらうくらい上手だったとかを書かないと興味すらもってもらえないだろうと思っていていた。そんなことを書いても誰もわたしのことを見てはくれないのに。

だから、何かを発言したり、投稿したりしても、そのほとんどが誰か私が良いなあと思った人の真似でしかなかった。無意識的にあるいは意識的に。私は私の私だけの表現をするのが怖かった。

でも最近、根底的に自信がないのは変わらないかもしれないけれど、信頼している人が言ってくれた「私の良いところ」を蔑ろにしたくはないと考えるようになった。


私がまた自信がない、怯えている自分、のところでぐるぐるぐるぐる回っても、きっと私は一生どこにも進めないだろう。

noteや再開したTwitterは初めてのわたしという純粋な表現かもしれない。言葉はわたしになりうるんだということを初めて知った。

私の良さも色々あって、この言葉もその一部で、少なくとも私は元々の性格が柔らかで落ち着いた人ではない。柔らかで芯のある考え方にはなりたいが。

他の誰かの表現方法の真似では駄目だ。

誰かの良さはその人の全てによって構成されているその人特有のものだから私はそれを良いと感じるし、私の良さも私の駄目なところも含めた全てで出来ているはずだから、私だけの表現で伝えたい。だから、自分にとっての表現とはなにか。私は自分にも大切な人にも嘘無く生きたい。


自分のよさは自分のよさで、他人のよさは他人のよさ、いくらその人のことを羨んでも、憧れても、私はその人ではないし、私は私だ。

でもその私が良いって言ってもらえたときが何より一番嬉しいんだ。


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