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それでもただの私であるために

私は誰かからの言葉とか、感情を受けるのがヘタなんだなぁ、多分。何をいわれても、些細な会話でも思考が立ち止まったほんの0コンマ何秒の間で戸惑っている。

受けたとき自分の心がどうなっているか、もっとちゃんと見た方がいいのに。見ないと生まれない。

どうして、受けるときに怖いんだろうか、次に自分が発する内容をそこから組み立てていかなければいけないと思い込んでいるからか、相手が求める答えを組み立てていかなければいけないと。ずっと問題と答えみたいな気分なんだろうか。正解など無いとわかっているのに、私はまだ"間違い" に怯えているのだろうか。私には問題と正しい答えが染み付きすぎてる。

"間違い"とか"違う"はやっかいな呪いだ。
そうでありたいと願い、その願いを叶えるための思考と、間違えたくないからという理由からくる思考とはまるで別物だから。

どちらも自分のための思考であることは確かなのだけれど、自分が"そうでありたい"は自分できちんと考え、納得した上での発言をするためのもので、"間違えたくない"は実のところ自分のことも相手のことも何も尊重してない、考えていない、空虚な答えを作り出すだけのものだと思う。

"間違えたくない"は何も尊重しない。自分の感情も、自分の考えも、相手の心も、何もかも。

間違えたくないというのは、どこから来たんだろう。昔は自分が間違えたくないと考えていることにすら気付かず、ただ必死だった。そうなるもっと前は自由だったような気がしないでもない。

間違えると怒られる、興味をなくされる、引かれる、どこかでそう思っている。でも、それが私にとってなんの価値があるというのだろう。誰に何を言われたか、どんな態度をとられたか。大事なのは「誰に」、「どんな」であり、そして、その二つは必ずしも関連性を持たなければいけないものではない。

私にとってその人が大切な人かどうか、その人が私のことを大切に思ってくれているかどうか、その人がきちんと自分の言葉で話してくれているかどうかということがまず私にとって大事だし、それを受けて私がどう考えるかは私の自由でたとえその人をどんなに尊敬していたとしても、その人の望む答えを探しては意味がないし、自分にも真剣に向き合ってくれる相手にも失礼だ。

まあ、私は些細な普段の会話でも戸惑ってしまうのだけれど、普段のなかでも同じことだ。要は、自分で考えた自分なりの言葉だと胸を張って言えるようになりたい。相手の機嫌をとるためのものではなく、自分がそう感じたからだと。

私は自分がそうなりたいと願う、その願いのために思考し、いつか意識しなくてもそうなれたらいいなと思う。一生意識しているかもしれないけど、それでもそう思うし、自分の考えが一番正しいなんて一生思いたくないし、自分が大人だとも思わない。

常に考えて生きたい。そして、すべて素直に受け取れるようになりたい。邪魔な思考は全部失くして、純粋なただの私でありたい。

私が私の人生を自分の足で歩いていくために、誰かのせいにできないように、願う自分になれるように、そして、何も厭わず胸のうちを語れるような人に出会うために。

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