見出し画像

★弊社の経営10周年を振り返るまとめ

★経営10周年を振り返る vol.1 〜2010年以前・25歳まで〜
 

広告の影響力で、飲食店を救う、つもりだった。
 

私の祖父は料理人だったらしい。
私が生まれる前に祖父は亡くなっていたので、よく知らないけど、
おばあちゃんがよく料理と祖父について話をしてくれたので、
自然と私は料理を楽しむようになっていた。
 
 

高校生の頃、ヤンキー中学から抜け出したくて死ぬほど勉強して、
進学校に通っていた。
死ぬほど勉強をずっと続けるのは難しいよね、時々サボりたくなる。
ただ、死ぬほど勉強した人がサボると、すぐ転がり落ちます。才能ないからね。
ということで、あっさりと進学校の落ちこぼれになりました。
(この時に、サブカルや映画や音楽や小説に出会ってしまったので、文系クソ野郎になりました、今も。みんなもそうだろ?)
 

勉強出来なくなった私はサイゼリヤでアルバイトを始めます。
ここで飲食店の面白さにハマりました。
高校生なのにサイゼリヤでワンオペやってたころもあります、すげえ時代、1990年代。
サイゼリヤって、仕事がすげえ効率化されてるの、俺の店が効率化重視してるのは、サイゼリヤの経験のおかげ。
 

この頃は主体性が全く無い私。周りにふわふわ流されます。
バイトして遊びまくってたものの、友達が大学受験勉強頑張り始めたのでめっちゃ頑張ります。
その結果、奇跡的にそこそこ良い大学の特待生として合格しました。
うちはプチ貧乏だったけど、特待生なら授業料かからねー、いやっほー、神戸から、東京に上京だ〜。
 

ここでもサボります。
死ぬほど勉強して何とか生き残れた人は、サボると一気に落ちます。
また落ちこぼれ。
しかも、貧乏なので、自分で家賃や生活費を稼がねばなりません。
貧乏人がアルバイトするなら、やっぱり飲食店!まかない食べれるから!餓死しない!
近所のピッツェリアで週6日くらいアルバイトするようになりました。(掛け持ちもしてました)
 

この店が、ローマピザ屋、だったので、私はローマピザをやるようになったのです。
 

大学生アルバイトなのに、先輩料理人達が私をめっちゃしごきます。
私はサブカルクソ野郎だったし、明らかに生意気でしたしね。
2000年代前半、まだまだ世の中はブラック企業が当たり前です、飲食店はしごきがあります。
私は、負けてたまるか、と、大学をサボりまくり、料理の勉強ばかりしてました。なんでやねん。
しんどいこともあったけど、本気で勉強したので、飲食店のことが大好きになりました。
 

この頃から、色んな飲食店に行くようになりました。
気づいたのですが、繁盛してなくても美味しい店はある。
自分の好きなお店が繁盛したらいいのになー、と思うようになり、
モノを売る仕事に興味を持ちます、広告業です。
広告の勉強めちゃくちゃ頑張りました、勉強の本を買いまくって餓死しそうになりました。
餓死しそうになったら、店のピザを食べてました。やっぱりまかないは最高や!
 

飲食業に関する広告と言えば、当時はホットペッパーかぐるなびでした。まだ食べログは無かった気がする。
私は株式会社リクルートに入社して、ホットペッパー事業部を志望しました。
 

配属先が、新宿・歌舞伎町!!
 

ここからまた私の転落が始まります。あ、俺いっつも1年目に転落してるやんけ。
当時のリクルートは超体育会系で超ブラックです。
夜中3時まで働くなんて余裕。すげえ怒られる、ぴえん。
(今はホワイト企業らしいですよ、リクルート)
 

最初の頃は頑張って結果を出してました。
死ぬほど勉強して、死ぬほど行動して、頑張ってましたが、すぐに落ちました。
 

今なら当たり前ってわかるんですが、
そりゃそうだよね、会社から仕事をいただいてるのだから、
自分がやりたい仕事をやらせてもらえるわけないよね。
 

違法在留中国人の居酒屋の広告を作ったり、
ホストが飲食店に手を出して失敗した債権回収したり、
ナイジェリア人のクラブの広告料金未払いを追いかけたり
ワタミの広告作ったり、
え?なにこれ。『良い店を繁盛させる仕事』がしたかったんじゃないの?
え?これ、そんなに良くない店を繁盛させる仕事なのでは?
 
 
と、夢見がちな20代前半の私は不貞腐れます。
仕事に期待しすぎていた、情けない話ですね。
今ならわかるけど、当時はわからなかったし、会社のせいにしてた。
今なら、人に期待するのではなく、自分で自分に期待しろ、と思えるくらい人格者なんですけどね。
今は人格者!!!たぶん!昔はクズ野郎!!
どんな時でも自己責任!(あ、でも、責任を背負いすぎて潰れるのはよくないよ。自己責任大事だけど、責任を軽くするのも大事だよ。)
 

そんな時に広告の仕事で、
素敵な小さなお店、に出会ったんです。
入社3年目だったかな。
飲食店経営に対する熱い思いや、大変さや、楽しさ、色々話してくれました。
このお店を何とか繁盛させたいと思い、
入社して初めて、すげえ純粋な気持ちで仕事を本気で楽しむことが出来たし、
広告の結果もとても良かったのです。
 

いつもこんな仕事が出来たらいいのになー、と思うと同時に、
でも俺が大企業で、好きな仕事する、って超狭き門だし10年以上かかるなー、
飽きっぽい俺そんなに頑張れるかなー。
また明日からワタミの広告でも作るかー、って考えながら夜道を歩いていた。
2010年3月、午前零時。
 

飲食店経営楽しそうだなあ。
俺も出来る気がするなあ、やりたいなあ。
会社やめよう。


★経営10周年を振り返る vol.2 〜2010年・26歳・オープンまで〜
 

会社に『半年後に退職する』という辞表を提出し、
友人や同僚に『飲食店経営をやる』というと、
仲の良い人たちからは反対意見ばかり出てきた。
そりゃそうだよね、飲食店広告の会社だもの、みんなどれだけ厳しいか知ってる。
 

1人だけ賛成してくれた友達がいた。
小野くんである。
『大企業でのしあがって好き勝手仕事やるの、時間かかるよなー。このままじゃあかんよなあ。』
という話をよく二人でしていた、ウイイレしながら。
 

『下瀬の夢に乗っかってもいい?』
と、小野くんと一緒に共同経営することにした。
 

2人で熱い思いを語っていたら、
もう1人、一緒に働きたいと言ってくれる人が現れた。
私のピザ屋アルバイトの後輩の郁ちゃんという女の子だった。
この3人でお店をやることになった。
 

5月。
候補となる物件を見つけた。
マザームーンカフェという有名なカフェ会社のビストロ業態の跡地。
神戸三ノ宮から徒歩5分、国際会館のすぐ近くの裏通りの1階。
家賃は50万。初期費用は1200万円。
 

俺たちにはお金がなかった。
政策金融公庫、銀行、信用金庫などなど、
全部融資を断られてしまった。
そりゃそうだよね、共同経営だし、飲食店だし、経験ないし、家賃高いし。
どこからもお金を借りれなくて、もう駄目かなーと思ったけど、
小野くんとそれぞれ色んな人に頭を下げてお金を借りた。
 

おっそろしー、みんなは知り合いから借金しちゃ駄目だぞ☆
ちゃんと銀行から借りような・・・。知り合いに借りるのはプレッシャーすごいぞ・・・。
 

お金が無かったので、自分たちで内装を作った。
たくさんの友達が手伝ってくれた。
この時、後にファルピッテ社員となる『インテリアデザイナーしんちゃん』も参加。
お店を譲ってくれたマザームーンカフェさんまで手伝ってくれて、すごくみんなに助けられた。
ペンキ塗ったり、壁紙張ったり、ニトリやダイソーで家具や食器を揃えたり。
毎日ヘトヘトになりながら工事した。1日20時間やってたかも。
金も無い経験も無い俺たちは、とにかく時間をかける、しかなかった。
ちなみにこの数年後、北浜チェリーナ邸で社員になるヒロくんも工事手伝ってくれてたのよ。
 

かきあつめたお金がスッカラカンになった頃、お店は完成。
2010年10月10日、お店はオープンした。
店の名前はファルピッテ。
ネット検索で必ず引っかかるように造語にした、ありきたり名前だと他店と被るからね、オリエンタルララジオ論。
意味は、farsa=茶番、おどけた、と、ospite=おもてなし、という意味のイタリア語2つを略して、ファルピッテ。
 

初日は友達を集めてパーティー。
翌日からオープン景気で、たくさんのお客様が来てくれました。
お店は順風満帆なスタートを切ったのでした。
 

もちろんこのあと、飲食店経営あるある『経営者ほぼ全員が地獄に落ちがち』がやってきますよ!

★経営10周年を振り返る vol.3 〜2010年-2011年・26-27歳・経営1年目〜
 

とにかくガムシャラに働いた。
 

元広告マンなので、広告に関しては集客は得意。
毎月30万円の広告費用を使い、お客様を呼びまくった。
雑誌掲載、テレビ出演、読者モデルのブログ(この頃はインスタじゃなくてアメブロだったかな?)などなど。
 
 
取材されやすいように、様々なイベントを行ったり、変なピザメニューを開発したりしていた。
当時のピザ生地には、野菜パウダーを練り込んで、
カラフルなピザ生地にしたりしてたなあ。
神戸野菜ピザとか。
変わったことばかりしてた、実力じゃ他店舗に勝てる気しなかったから。
 

夜中2時まで働き、朝5時まで経営の本を読み、朝9時から働く。
家に帰らずお店で寝落ちする日も多かった。
半年くらい週7で働き、お金に余裕が出てきた半年後からは週6日で働いた。
この生活を1年ほど続けた。
(そういえば俺、3人で1軒屋に住んでたのよね、貧乏だったから。俺の部屋4畳だったなあ。)
 
 

働きすぎると幻覚を見る。
真夜中に皿洗いしながら、過労で倒れて、鬱々としながら座敷わらしに話しかけるという日もよくあった。
それもスタッフ全員で。
本当に頭がおかしくなっていた。
  

おかげでお店はめちゃくちゃ繁盛した。
なんかもうすごかった。ランチタイムは行列が出来てたし、夜もずっと満席。
20坪の店で月商800万円売れてたし、最大で月商1000万円になってたらしい。
俺はもう全然覚えてないのだ(当時は経理は俺やってなかったの、共同経営者にまかせてたの)。
 
 

 

お金も経験も実力もない俺たちが成功するには、
とにかく努力の量で勝負するしかなかった。
 
 
 

労働時間で勝負。
いやあ、実際そうなのよ。
今はうちはホワイト企業だーっつって、仕事が楽だけど、
みんなも起業したら最初は量で勝負するしかないし、
誰もやりたがらないきつい仕事をやるしかないのよ。
なのでマジで独立はオススメしないし、でもやるんだよ、っていう人はマジがんばって!
上手く行ったら最高に楽しいよ!飲食店経営!まあ、大体はうまくいかないけどね。
独立なんかしない方がいいよー。
  

 

このあたりから、私は上から目線の厳しい人間になっていったし、
調子に乗って天狗になったりしていた、人生初のモテ期だったし。
26歳で売れっ子になったら、調子のっちゃうよねえ〜。
たぶん、働きすぎてたから、心が疲れてたんだろうね。
全然自分に自信無かったし、料理もまだまだだし、マネージメントも下手だった。
反動で調子に乗っちゃった。よくないね、自分の弱さを隠すために態度を大きくしちゃってたの。
 

 

お店が売れると、社員やアルバイトも増えていく。
繁盛店の労働は厳しい。
2020年現在の弊社とは真逆である。
しんどい仕事ばかりで超ブラックだし、社長の俺はガミガミ怒るタイプ。
マジで今と真逆。今は仏のしもちゃんだねえ。
  

仕事が厳しくなると、スタッフの不満は貯まるし、派閥が出来てくる。
俺は仲間のために怒っていたのだけれど、そんなの伝わらない。
36歳の今の俺には話術とか経験とか余裕があるから優しく指導できるけれど、
26歳の頃の俺はもう実力全然無い努力量だけの人。
内情はボロボロだけど、お店は益々大繁盛。
 
 
 

とにかく突っ走るしかなかった。
休むのが怖くてしかたなかった。
毎日死ぬほど働いて遊んで、寝不足で、ボロボロになって、仕事のレベルも下がっていった。
自分に自信が無いから、スタッフを怒って指導。
お店は売れてる、けど、何も上手く行かない日々。
本当に良いチーム、良いお店を作れてるんだろうか、わからない。
 

何かを変えたくて、2011年4月、2号店を出すことにした。
ここから地獄が加速しまーす。

  

(私の最初の成功体験はこんな感じなので、
死ぬほど働いて勉強する人しか独立目指さない方が良いし、
みんなが思ってる死ぬほどって全然甘いからね・・・知ってる・・・たくさん見てきた・・・1日20時間は頑張ろうな)
(経営上手くいったら週7日休めるけど、上手くいくまでは週7で働くのをオススメするよ!極端!たぶん、そういうもの!)


★経営10周年を振り返る vol.4 〜2011年・28歳・経営2年目・会社売却〜


2011年6月、2号店のコロピッテ、というお店を出した。
広さは1号店の2倍だけど、40坪で家賃25万円。
場所は神戸の元町。


なんでこんなに家賃が安いかというと、
すげえ古びた雑居ビルの2階だったから。
同じフロアには、囲碁教室、麻雀屋、エロDVDショップ、という恐ろしいビル。
知らない人は絶対に入りたがらないビル。
隣のビルが馬券場のWINSあったので、競馬好きの俺は超楽しかったけど。
 

1号店の成功で俺たちは自信をつけていたし、
常連さんや広告やインフルエンサー(当時まだこの言葉無かった気がするけど)を駆使すれば、
繁盛させる自信はあった。
それに当時、隠れ家カフェ、みたいな店よく流行ってたのよね、神戸。
一等地で高い家賃払うのしんどいしね。
なんとかなるだろー、と調子に乗ってしまいました。
 

1号店の時は、銀行が一切お金を貸してくれなかったけど、
今の俺達は経験もお金もある。
1000万円ほど融資してもらった。
この時はまだ尖った性格なので『1号店の時は冷たくしてきたのに、銀行め!ざまあみろ!』とか心の中で思ってた。
今の下ちゃんは銀行さんとは平身低頭で丁寧懇切にお付き合いさせていただいております、良い人になれてよかった・・・。
2011年の俺はマジでめんどくさいやつ。
 
 
潤沢な資金で良いお店を作ることが出来た。
この当時は俺も共同経営者も若くて勢いがあって、頭おかしかったので、
お店が出来た瞬間、1号店の時のように運転資金0円になってた。
いやあ、今なら絶対しないよ!お金たくさん持って経営しような!
当時は0円で経営してた。
 

この頃はまだみんな仲良かったなあ。ここから俺を筆頭に、社員の思いがずれ始めます。
 

ちなみに当時の紹介記事。
kobe.keizai.biz/headline/827/

 

いざ、お店をオープンしてみると
お客さん全然来ない。
お客さん1人も来なかった夜、スタッフみんなでCoCo壱番屋で激辛カレーを食べた。
あの日を忘れない・・・
お客さん0人の帰り道に1号店に寄ったら、超満員だったなあ。
 

1号店大繁盛、2号店大赤字、という日々が続きました。
見通しが甘かった、調子に乗っていた。
私は1号店と2号店を行き来しながら、どんどん狂っていきました。
 

3号店を作ろうとしたり、
知り合いの店をプロデュースしようとしたり、
美容院を作ろうとしたり、
アパレルショップを作ろうとしたり、
お金持ちや経営者と朝まで飲みに行ったり、
週7日働いてみたり、
狂ってました。
 

そうなると、社長なにやってんねん、ってなりますわな。
私的には、なんとか打開しようと必死だったんだけど、そう見えないよね。
 

2号店に出勤した夜、
お客さんが全然来なくて、
社員を集めて激を飛ばそうとしたところ、
説教になってしまった。
あの夜が決定打だったなあ。
みんな頑張ってなかったわけじゃない、頑張り方がわからなかっただけ。
コロナの今もそうだよね、お店が流行らない時に頑張るって超難しい。
 

2011年末に近づくにつれて、2号店も流行り始めた。
広告戦略が上手くいったので、この頃から食べログ集客が出来るようになってきて、
お店の評価もあがってきていた。
なんとか赤字を脱した。
 

ここで俺は『自分の力で何とかした』と思っちゃったの。
実際、黒字に出来たのは俺の行動が大きかったのは間違いないんだけど、
みんなは頑張ってないって社長思ってる、みたいな空気になっちゃった。
 

そんな時、1人のスタッフが辞めてしまった。
俺はスタッフを注意をしただけなんだけど、
スタッフとの信頼関係が壊れてしまってる状態で注意をすると、
受け入れてもらえない。
人のために普段から頑張ってないと、何も伝わらなくなる。
 

そのスタッフを連れ戻すか、そのまま辞めさせるか、で社内が別れてしまった。
ほんのちょっと前まではみんな仲良かったのにね。
 

共同経営だったし、意見が別れてしまった状態で、お店を続けるのは困難だった。
俺も相方も若かったし、今なら二人とも経験豊富なおじさんなので、余裕で解決できるんだけど、当時は無理だった。
いやあ、本当今の俺なら何とでも出来る自信あるなあ。成長したなあ。当時はゴミクズだったなあ。
 

この当時、実は自分より共同経営者の小野くんの方が仕事が出来る、と思っていた。
嫉妬もしていた。
情けないけど、去るのは俺だなあ、と思ってしまった。
 

2011年末、共同経営者の小野くんに会社を売却。
俺はみんなに嫌われた状態で無職になりました、という地獄!


★経営10周年を振り返る vol.5 〜2012年・28歳・経営3年目・大阪でチーナ邸オープン〜
  
 

起業から1年ほどで社長から無職になった。
 

時間が有り余ってたし、お金にも多少の余裕があったので、
2012年、イタリア一周バックパック旅行に行った、60日くらいだったかしら。
海外旅行は初めてだし、イタリア料理人なのでイタリアに行ってみたかった。
 

ミラノ、ヴェネツィア、パルマ、ボローニャ、シエナ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、パレルモ、とイタリアほぼ縦断。
イタリア旅行話は長くなるので、割愛するが、この旅で学んだことは、
イタリア人はテキトーだなー。
特にローマの観光地全開っぷりと、地元民のテキトーさと、料理の味の濃さが自分にとても合っていた。
元々ローマピザが私のルーツだし、日本に帰ったらローマ料理を本格的にやろうと思った。
 

日本に帰ると、私は東京に引っ越した。
情けない退任っぷりだったので関西から逃げ出したかったの。
20代前半は東京で過ごしたし、東京に友達多かったし。
 

吉祥寺に住んで、死にものぐるいで勉強して働いた。
もう二度と失敗したくなかった、絶対に復活しようと思った。
居酒屋、パン屋、燻製料理、カレー屋など、様々な場所でアルバイトをし、
時間があったら図書館にこもってずっと本を読んでいた。
この時に、勉強量や行動量ってめっちゃ大事だなあ、と思った。
1日12時間働き、6時間図書館にこもり、3時間睡眠、充実の日々だった。
 

余談。この時、西荻窪のペットショップで猫に一目惚れしてします。
後に店名にもなる、チーナ。超可愛い。
イタリア語でキッチンを意味する、クッチーナ、から名付けた。
 

東京に来て半年ほど経って、いつ再起業しようかと考えていた。
物件を探したり、銀行に相談に行ったりしていた。いやあ、東京、家賃すげえわ、と悩んでいた。
そんな時、母が重い病気で入院してしまった、2020年の今も治っていない。
実家の近くに帰ろう、と私は決意したが、実家がある神戸に帰ることためらわれた。
心が弱かったの。
実家に40分ほどで帰れる、大阪に引っ越すことにした。
 

大阪で就職しようか、独立しようか悩んでた時に、
肥後橋の物件に出会う。今のチーナ邸。
 

元々フレンチの居抜きだったそうだが、
不倫関係にあった男性シェフと女性オーナーが別れたので潰れたらしい。
なにそれ。駅から離れているけど、店はとてもきれいだったし、家賃も安い。
ここでお店をやることを決めた。
  

初期費用は300万円。
内装工事は全部自分で行った。
お金をかけない、人に頼らない、精神状態がそんな時期だったのだ。
 

今までの反省と経験を活かし、
社員は雇わずに自分一人で頑張ろうと決意。
経費をかけずに、耐え抜こう。
神戸のお店は費用をたくさんかけて、売上を伸ばしまくったが、
私にはそのやり方が合わなかったかもしれない。
 

人を雇わず、自分ひとりで、売上よりも良い店を作ろう。
2020年の今でも続くローコスト経営が始まった。
 

2012年9月9日、大阪1号店チーナ邸オープン。
廃業から9ヶ月で再起業。
 

トラブル多発だったが、お店は順調な滑り出しだった。


★経営10周年を振り返る vol.6 〜2013年ー2014年前半・29歳・経営4年目・心斎橋で2号店チェルピーナ邸オープン〜
 

充実の日々が始まった。

 
当時の月商は200万円。
神戸時代の月商と比べたら全然売れてないが、
自分一人とアルバイトで運営してコストをかけていなかったので、
黒字経営が出来ていた。
 

ただ、利益はあまり出ていなかった。
人件費はかかってないが、原価が40〜50%だった。
(2013年ってそういうの流行ったんよね〜、原価40%以上で繁盛店作れ、みたいな。悪いことではないんだけど、原価高いとしんどいよねえ。)
 

私はお店に1日16時間くらいいて、仕込みをずっとしていた。
誰にも頼らないって決めてた時期だったし、とにかく良い店を作ろうと意気込んでいた。
 

この頃は積極的にイベントにも参加していた。
ライブハウスや出張料理やお店ライブやら。
キュウソネコカミとか奇妙礼太郎とかかな、当時は無名だけど今は有名な人達とも知り合ったりした。
この頃からアルバイトでミュージシャン入ってくるようになったなあ、うえまや、ゆか、とか。
 

余談。店内ライブで『チーナ』というバンドを呼んだことがあった。
店の名前とバンド名が同じだったので、気になって聞いてみたらめちゃくちゃ最高だった。
後に、チーナとチーナは、一緒にイベントをやったりピザソングを作ってもらったり、そんな付き合いをしている。
 

お店をオープンして1年、毎日必死に働いて、体は死にかけていたが充実していた。
誰にも頼らない、人に嫌われたくない、という恐怖も薄れていった。
色んな人に助けられたし、孤独でいるよりも仲間と楽しんでいた方が、とても素敵だったから。
 

社員旅行にも行った。香川県の直島。
一緒に働く人と仲良くできる日が戻ってきた。
 

また社員を雇ってみよう。
この時に雇用したのが、アルバイトだった、あやさんしなさんの2人。
俺が1人で16時間やってる仕事、2人にしたら1人8時間ずつになるかな、と思い2名採用した。
 

私はどうしても心斎橋にお店を出したかった。
心斎橋はとても好きな街だった。
ここにお店を出したらカッコいい、とかいうしょーもない思いもあった、20代だったので。
この頃の俺は猪突猛進型だった、めちゃくちゃ攻めてた。
今は保守的でーす!
 

1年間で現金残高は200万円くらい溜まっていた。
銀行に500万円融資してもらって、心斎橋に2号店を作ることが決まった。
チェルピーナ邸である。
オープン日は2014年2月2日。
後に私と結婚し離婚する亜美を社員採用したのがこの頃である。
ここから快進撃と地獄の日々がまた始まるのだった。


★経営10周年を振り返る vol.7 〜2014年・29歳・経営4年目・横領とカードローンと北浜3号店チェリーナ邸オープンと味園ビルにバー1492を作る〜
 

無茶な快進撃が始まった。
 

チーナ邸もチェルピーナ邸も流行ることに成功した。
私は、仕事を人に任せる、に再びチャレンジした。
神戸時代は大失敗したけど、あの頃よりは成長してるはず。

 

そういえばチェルピーナ邸でミュージックビデオ撮影したなあ。
 

「濡れ花火」/GENSHOU-現象-
https://www.youtube.com/watch?v=0S41Juu0AR0


夏、サラリーマン時代の先輩で、泥酔友達のエリさんと再開する。
エリさんは『なんばの味園ビルにバーを作るから、しもちゃん手伝って』と言った。
昔、エリさんにはめちゃくちゃお世話になったので、もちろん手伝うことに。
 

下瀬『エリさん、初期費用はどれくらいでお店作るつもりですか?(10席のバーだから200万円くらいかな)』
エリ『2万円ならあるよ!』
下瀬『ほげーーーー!!』
 

という会話をした思い出がある。
まじかよ。
聞くところによると、前のお店の人が夜逃げしたので、お金はそんなにかからないらしい。
それにしても2万円である。
所持金2万円でお店を作ろうと思う人がいるなんて、すげえな、と思った。
1円でも節約するために、いろんなホームセンターで安いペンキや壁紙を探したり、
チェルピーナ作った時の端材を使ったり、いろんな人に助けてもらったり、
なんと、1万5000円で店が作れてしまった。なにそれ。意味分かんない。

 

2014年の夏はディープスポット味園ビルにこもりきった。
ちなみにエリさん、今では裏なんばの超有名人である。すげえぶっとんでる、酒飲み過ぎや。
 

この頃の私は、5店舗まで作ろうと意気込んでいた。
現金残高は300万円ほど。
もうちょっとお金を貯めないとなーと思い、3号店は先延ばしにしようと思ったが、
めちゃくちゃ良い物件が出てしまった。
北浜駅から徒歩2分で35坪で家賃25万円。もう意味わかんない、安い。
このチャンスを逃してはいけないと思い、申し込んでしまった。
 

ここから下瀬の大成長が始まりますが、同時に再び地獄が始まります。
 

2014年11月、3号店オープン。2号店から9ヶ月後のオープン。

 

3号店は450万円で作ることが出来た。
今回も全部自分で工事した。その様子はこちら。
これは力作なのでぜひ見て欲しい記事。

【ローコストで飲食店を作る!】大阪北浜35坪70席で初期費用432万円のイタリア酒場チェリーナ邸〜DIY飲食店作りを写真で振り返る〜
http://cheena.hatenadiary.com/entry/2016/04/09/215215


しかし、妙である。
300万円しか持ってない下瀬が、
450万円も使っている。
銀行には、早すぎる、と融資を断られた。
お金は無いはずである。


では、どうしたのか。


年利18%のビジネスローンと、
カードローンと、
クレジットカードの分割払い、でお店を作ったのだ。


頭おかしい。
こんなん絶対マネしたらあかん。


厨房機器をクレジットカードで分割払い。
現金残高はほぼ0円。


またやってしまった。
そう、繁盛しなかったら即倒産。


本当、今の社員の君たち、この頃にうちに入社しなくてよかったね。
労働条件もすげえ悪かったよ、休み少なかったし、
社長、リスクおかしすぎぃ!

経営初期の会社より、成長した会社に入社する方がいいよね。

幸い、お店は大繁盛する。
3号店北浜店はとにかく儲かった。
コストがかかっていないので、利益率40%くらい出ていた。
私は月収100万円以上安定して稼げていたし、借金返済も順調だった。


しかし、それにしても現金残高が増えないんである。
利益に対して、お金が全く増えない。
別に贅沢な暮らしはしていない。
私は不思議に思って、毎日、帳簿を細かくチェックしていた。


あ、横領されてるやん!
2015年の正月に気づきました。


★経営10周年を振り返る vol.8 〜2015年・30歳・経営5年目・赤字とリニューアルと1号店閉店〜
 

お金に苦しんだ1年だった。
 

2015年は横領発覚からスタートした。
詳細は省くが、お金は全額返ってこなかった。
いやあ、横領の証拠を揃えるって、難易度高すぎるよね(警察署で学んだ)
 

自分が勤務する北浜店は絶好調、益々売上が伸びるが、
1号店2号店の売上が徐々に落ちてきた。
 

心斎橋店を炭火焼きの店にリニューアル
肥後橋店をイタリアンと串揚げの店にリニューアルしてみたが、
売上が上がることは無かった。
 

売上が悪いと、店の空気も悪くなる。
うちの会社はぎくしゃくし始めた。
 

この頃から、スタッフたちと距離を近めようと、
毎晩のように飲みに行くようになるが、
気がつけば大体毎回同じメンバーになっていった。
これは俺が嫌っていた、派閥、ではないか、と悩んだ。
(派閥が大嫌いなので、うちのシフトは固定じゃないんである。毎日同じ人と働くのは俺は苦手なの、悪いことではないけどね。)
 

2月祖母が亡くなる、6月父が亡くなる。
家族状況も一気に変わった。
 

9月、社員旅行で淡路島に行った。
20人くらいで、貸別荘で目一杯遊んだ。
しかし、1号店のスタッフは1人も来なかった。
 

10月、経営5周年パーティーをライブハウスで開催。
うちの店で働いていたり、友達だったりする人たちに出演してもらった。
その時の記事がこれ。
https://diggity-jp.net/news/23075/

 
 

経営自体は、3号店の成功で何とか順調だった。
1号店と2号店は赤字黒字ギリギリ。
社内の空気はどんどん悪くなっていった。
この頃、再び『社長が働きすぎる、何でも1人でやってしまう状態』になり、
週7日で1日16時間働く日々、体がボロボロで整骨院や病院に通っていた。
 

 

何かを打開したくて、なんと4号店を作ってしまう。
やっぱり20代の私は勢いが違う、勢いがすごい、方向性間違ってるけど。
  

2015年、11月、大阪の本町にマリーナ邸というお店を作った。
私の夢は、シーサイドリゾートでピッツァカフェをやること。
海辺にありそうな店をイメージして、家具や漆喰カラーを選んだ。
 
 

借金は2000万円になっていた。
 
 

2015年末、売上は悪くなかったが、
社長の思いと社員の思いがずれ始め、
1号店を続けることが不可能になってしまった。
またやってしまった。
数年前は、スタッフに気を使えなくて失敗した。
今回は、スタッフに気を使いすぎて失敗した。 
 
  
 

2015年末、1号店のチーナ邸、閉店。

★経営10周年を振り返る vol.9 〜2016年・31歳・経営6年目・絶好調からの急落〜

2016年1月、閉店した1号店の片付けをしながら、
諦めきれない、もう一回やってみようかなーと、閉店をやめることにする。
色んな業態を試したりしていたけど、
流行っていた頃の1号店と同じメニューで勝負してみようと、原点に戻ることを決意。
2月、チーナ邸、再オープン、1号店は俺1人でやる。


8月、弟の和食居酒屋を三宮に作る。

この後、全店舗売上が徐々に伸びてくる。
ようやく経営に余裕ができ始めた。
1号店も復活目前。


プライベートでは、
2月入籍、3月もう一匹の猫ベニーオと暮らし始める、6月結婚式。
この年は、色んな場所に旅行に行く余裕ができ始めていた。
社員たちと台湾旅行に行ったりもした。
妻の亜美は9月から1年間イタリアに料理留学した、結婚式から3ヶ月後に。


9月、あの有名な食べログ事件が起きる。
うちの店も一気に食べログの点数が下がってしまった。
点数が下がると、売上が激減してしまった。


10月、食べログの点数に頼ってるだけじゃあかん。
とにかく良い店を作るんや。
私の指導はまた厳しくなってしまった。

11月、次々に問題が起きる。
社員のモチベーションが高い店の売上と、
モチベーションが低い店の売上、めちゃくちゃ差がついてしまう。
社員が営業時間すらちゃんと守ってもらえてないことがあった、早く閉店してしまうのだ。
そりゃ売上が下がるに決まってる。


今の俺なら何とでも対処できる、行動を一緒に反省し、マインドセットの大事さを一緒に考える。
今ならね。
当時の借金だらけの余裕ない崖っぷち30歳しもせは出来なかった。
怒りすぎたり、気を使いすぎたり。

12月末、10人いた社員のうち、5名が退職。
お店は再び大赤字。
9月までは絶好調だったのになあ。


★経営10周年を振り返る vol.10 〜2017年・33歳・経営7年目・倒産覚悟の逆襲〜
 

人生で1番チャレンジした1年だった。
とにかく勉強しまくった、とにかく行動しまくった。
 

1月、ターニングポイントが2つあった。
 

1つ、売れてる先輩方と会いまくることにした。
その中のひとりが『福島正伸先生の著書を読め』と教えてくれた。
 

『下瀬は実力も経験もあるが、心が外に向いていない。大事なのは技術じゃない、心なんだ、心を磨け。人を幸せにすると本気と思えるようになれ。』
 

と言われて、YOUTUBEで講演を聞いたり、本を読んだりした。
その結果、とにかく人を幸せにすることを第一に考える、という心になった。
それまでは、自分の人生を守ることに必死だったかもしれないね。
いやあ、1年目で福島正伸先生に出会えてたら、こんな失敗しなかったのかなあ。
でも、これだけ失敗したから、人を幸せにすることを考えれるようになったんだろうなあ。
 

もう1つは、NHKのテレビ番組『世界入りにくい居酒屋』を毎日見て毎日泣いたこと。
飲食店の原点を思い出す。
お客様とスタッフを幸せにする場所が飲食店なんだ。
その当時、テレビの名場面を写真にとって、毎日写真を見ていた。
良い店、俺も作りたいなあと思った。

 

良い人になる、良いお店を作る、このことばかり考えた2017年。
 

2017年1月。
運転資金の残金500万円、借金2000万円。
赤字は毎月50〜100万円。
年末で5人退職したため、人手不足。
このまま行くと半年〜1年で倒産という危機的状況。
プラス材料は何もない、勉強と行動と気持ちしかない。

 

社内会議を行い、現状と今後について、全て曝け出して話をした。
どうしても良い店を作りたい、と社員に語った。
今がどれだけ危機なのかも話した。
(2020年の今、これが必要なのかもしれないね。さらけ出す会議やろかな。)
 

2月、業績は一気に上昇する。
えー、一ヶ月でこんなに結果出るのー、とビックリした。
やったことは、気持ちを入れ替えただけ。
 

3月、経営史上最高の売上を出す。

 

ここから攻め続ける。
新サービス、新メニュー、をガンガンやる。
たくさんのお店に行って、良いものを学ぶ。それをすぐに自分の店で実践する。
毎日毎日新しいアイデアと、心を強くするために勉強する。
チャンスがあれば、飛びつく。
ローマピザ職人なのに、イタリアのナポリまで行ってナポリピッツァ世界大会に出場しようとした(出場断れたけど、世界大会は観戦した)
全ては、みんなと幸せな人生を作るため。

 

色んなイベントにも積極的に参加する、ぽんぽこランドに行ったのもこの年かな。
ケータリングもしまくったなあ。
料理に関する資格10個くらい取ったなあ、利酒師や野菜ソムリエやチーズコーディネーターやら何やら、薬膳検定とかも受けてたなあ。
 

イタリアで料理修行する妻に会いに行ったり、
スタッフみんなとバーベキューやったり、
スタッフとプロレス見に行ったり。
遊ぶ余裕も出来ていた。

 

倒産寸前だったうちの会社は、
快進撃を続け、
2017年末、借金は0円になっていた。
 

心を強くし、仲間やお客様の幸せを第一に考え、勉強と行動と共有を続けた1年。


★経営10周年を振り返る vol.11 〜2018年・34歳・経営8年目・成功者の暮らしとラーメン屋オープン〜

 
超貧乏状態から1年、一気に小金持ちになった。
 

現場に入る日数を減らし、
ジムでパーソナルトレーニングを受けたり断食道場に行ったり、
1人で海外旅行に行ったり、色んな経営者や著名人に会ったり、
高級料理を食べに行ったり
株式投資を始めたり(FXや仮想通貨もやってたけど、1日に50万円儲かった翌日に50万円減ってビビって2ヶ月で辞めました)。
 

今まで忙しすぎたり貧乏すぎたりで、出来なかったことをやりはじめた。
 

と言っても、
調子に乗って遊び呆けていたわけではない。
私は心を鍛える勉強をしまくって『良いやつ』になっていたのです。

新しい仕事も始めたし、
新商品の開発もやっていたし、
働き方改革にも取り組んだし、社員のベース給料もアップしたし、
労働環境はぐっと良くなった。
年間休日125日以上になったのはこの年からかな。
 

勉強も欠かさなかった。
尊敬する先輩や経営者仲間にたくさん出会えた年だった。
飲食店経営者たくさんとオーストラリア旅行したのはすごく良いターニングポイントになった。
 

売上も順調に伸びていった。
 

イタリア料理人なのに、ラーメン屋をオープンした。
現場を離れていてもお店を順調に経営出来ているのだから、
別ジャンルの料理だって出来るはずだし、自分の事業の幅をつくりたかった。
それに、スタッフに可能性を示したかったの。
『ヤル気があれば、俺はみんなのやりたいお店に投資するよ』という意思も込めた。
 

(現在は社員の店に投資やめました。ラーメン屋2号店でこれやって大失敗したの。性格にもよるけど、やっぱり自分の金で覚悟して自分の店をやった方がいいかもね、って今は思ってる。)
 
 

ラーメン屋は当初『イタリア料理人でもある野菜ソムリエが、低糖質麺を使った、オシャレ健康野菜ラーメン』みたいなコンセプトだったが、
店主こじまくんのパーソナリティから『カロリージャンキーおもしろラーメン屋』に徐々に変更されていった。
初期と真逆やんけ!
でも、それでいいよね、店主に合う店にした方がおもしろい。
それにやっぱりラーメンってカロリー爆発した方が美味いよねえ。
 

特に何の事件も起こらない穏やかで楽しい1年だった。
経営史上、こんなの初めてかも。
 
 

って思ったけど、そういえば、
本町店の窓が割られて泥棒が入ってお金盗まれた翌日から、
新入社員と連絡が取れなくなるって事件あったわ。
だ、誰が犯人なんやろなあ・・・?(警察は、状況的と手口的に内部に詳しい犯人だろうけど、証拠ないから、って言って捜査すぐ終えてた)
あれ?これ2017年の事件だったかな?2018年の被害は台風だったかな?


★経営10周年を振り返る vol.12 最終回 〜2019-2020年・35-36歳・経営9-10年目・絶好調からのコロナ大失態〜
 

2019年、絶好調は続く。
 

テレビ出演、雑誌掲載などメディア露出も増えていった。
現場にはほとんど入らず、社外の仕事も増えていった。
飲食店専門広告仕事も順調だった。
年末には、飲食店経営者が800人集まる勉強会の年間MVPを受賞、副賞はファーストクラスで行く世界一周旅行。
 

プライベートでは、
セブ島に英語留学に行ったり、
ニューヨークのシェフに会いに行ったり、
ラスベガスで遊び呆けたり、
ヨーロッパ縦断夜行列車の旅に行ったり、
ドイツの本場のオクトバーフェストに行ったり、
バルセロナやサンセバスチャンに行ったり、
出張兼国内旅行も何十箇所も行った。
1年の半分は自宅にいなかった。

 

仕事もプライベートも絶好調。
 

しかし、離婚の話し合いを始めたり、
居酒屋やりたくて飲食店やってるのに現場に入らないのはどうなのかなあ?
と、悩みごともちょっぴり抱えた。
 

勉強はひたすら続けていた。
コピーライティングの合宿に行ったり、
マーケティングや経営の合宿に行ったり、
料理教室に通ったり、ひたすら勉強した。
 

慢心は無かったと思う。
過去に失敗をたくさんしてきたので、
調子に乗って失敗することはもう無い。
失敗するのは新しいチャレンジをする時。
 

ただ、段々と新しいチャレンジに興味を持てなくなってきていた。
もっと原点的なことがやりたいな、居酒屋やりたいな。
 

なのに私は、尖ったラーメン屋をオープンした。
今考えればわかる、自分の幅を広げるために仕事するより、
自分の幅を狭めてもいいから好きな仕事だけをする、という方が性格的に合っているということ。

 

新しいチャレンジも大事だけど、一番好きな原点を忘れない方が、良かったのかしらね。
チャレンジしなくちゃいけない、と思い込みすぎたのかもしれない。
古臭くても、好きなことを愚直にやるのもいいよね。
 

イタリアンラーメン屋をオープン。
料理長は、大阪の超有名で行列が出来まくるラーメン屋の元・セントラルキッチン料理長。
内装はイタリアンで、おしゃれなラーメンを出す。
 

この戦略は、メディア受けはとても良かった。
雑誌取材やテレビ取材はたくさん来たし、
あまから手帖にも大きく掲載してもらった。
まさか、あまから手帖に載った1ヶ月後に閉店するとは思わなかったけど。
 

常連客が全くつかずに、売上は低迷を続けた。
ラーメン屋不毛地帯の淀屋橋で、尖ったことをやるのだから、
売上が伸びないのは仕方がない、予想していたことだ。
ただ、誰もライバルがいないのだから、当たればでかい。
あまから手帖にも掲載されるのだから、味は間違いない。いつか繁盛するだろう。
 

が、料理長のヤル気が折れてしまった、急遽閉店が決定する。
私は、客商売を勘違いしちゃったかな、と、人に任せすぎたかな、と反省した。
美味しい料理とマーケティングと凄い料理人、これで上手くいくと思っていた。
もっと泥臭くいくべきだった、今までそうだったから。

 

私はイタリアンラーメン屋を廃業し、
ピザ屋にリニューアルし、私も現場に入ってピザを焼いた。
この改革は上手くいった。

 

2019年末、社員たちと高級焼肉で忘年会をし、
色々あったけれど充実した1年だったと楽しんだ。
お会計は23万円だった。

 

2020年、離婚、入院、コロナ、と不幸連チャン。

 
大阪のビジネス街で宴会居酒屋を経営している弊社には、
コロナでの宴会自粛はあまりにも大きかった。
 

3月から影響が出始め、4月5月で赤字1000万円ほど。
今も厳しい日々が続く。

 
さて、どないしたろか。
学んできたことを全て振り返り、愚直に好きなことをやる。
居酒屋大繁盛、成し遂げてみせまっせ〜。

 

やっぱ、宴会を売りたいなー。
デリバリーとか通販とか色々手法はあるけれど、
俺は酒場がやりてえ。
宴会で儲かりてえ。
それが好きな仕事なんだ。
 

過去最大の赤字を出したし、
借金0円から借金5800万円になった。
 

現状に悩みまくって大変だったし、
立地と業態的にメイン事業の宴会は打つ手なしだった。
 

でも、俺、やっぱりメイン事業やるよー。
宴会売るよー。

 

がんばるでー。

 

以上、経営10周年の振り返りでした!
 

人間は、今が一番大変、って思いがちだけど、
俺の経営人生、今なんて全然余裕だなー。
過去の方が超厳しかった、いや、赤字は過去最強だけど!
 

さあ、振り返りは終了や!
9月から大逆転や!
好きな仕事で儲けるで!あかんかったら、皿洗いからやりなおしや!
上手くいってもあかんくても、酒場で働くで!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?