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創作活動の源は、構ってちゃんだった。恥ずかしながら。

星野源の“喜劇”の一小節「普通のふりをした、あなたと探し諦めた。私の居場所は作るものだった。」
いやあほんとにいい歌詞書くなあ。
みんな、なんとか世間と折合いつけながらも、自分の居場所を探してるもんなのかな。

ふと、ぼくはなんで駄文をネットの海に垂れ流しているのかと自分に問うた時に、一番しっくりくる答えも同じようなものだった。

この歌では、夫婦であったり、人生を共にするパートナーを連想させる言葉が多いので、歌の趣旨からすると少し違うかもしれないが。ふと、そう考えるきっかけになった。

そもそもなぜ、自分の居場所が欲しいのか。プライベートな居場所は多くの人にある。自分の部屋や時間があれば、そこは自分の居場所だ。

ただ、ぼくが言う居場所とはパブリックな自分の居場所だ。

社会的に名前が付いており、不特定多数と意思疎通をとることができる集団への所属。これがパブリックな居場所である。あくまで自分の中での定義づけであるが。
学校や会社、それもパブリックな居場所である。ただ、それとは別の「普通なふりをしなくてよい、曝け出せる」場所が欲しいのだ。

なぜそんな場所が欲しいのか。答えはシンプルで、独りはさみしいからに違いない、、、、、
多くの人は、サークル活動や、ヨガとかダンスとかウンタラ教室とかでそういう欲求を満たしてるのかな。

しかし、このパブリックな居場所を見つけるというのは、極めて難しい。

例えば、今日は一人で新しくできたカフェに行ってきた。音楽やアートをコンセプトにしたカフェで、レコードやでかいスピーカーがあって、コーヒーも美味しくて良かった。が、居心地は悪かった。好きなものはそろっているはずなのに、、、
まだそのカフェの常連になっていない。つまり、自分も、店側も受け入れの心理的な準備が整っていないというのもあるかもしれない。
でも、それでも居心地が悪かった。一人席はあるものの、人がたくさん入ってくるし、喋り声で音楽が聞こえなくなったりしていた。身内みたいな人が群がっていて、アートブースは入り難い。

もう行くことは無いと思う。

つまり、要素だけをみると居心地がよさそうなのに、パブリックな居場所だと難しいってことなのだ。

そして、ぼくの創作活動の源はきっと、この中々見つからないパブリックな居場所が欲しいという欲求なのだ。今まで、絵をかいたり、動画書いたり、漫画書いたりしてきたが、全て居場所が欲しかったからだ。

だからきっと、ぼくは文章なんか書く必要なんか無くて、大して伝えたい主張や意見なんか無くて、ただ、寂しいよお、構ってよお、という叫びで創作をしてるにすぎないのである。最悪だ。気付かなければよかった。

もうVtuberになってチヤホヤされればそれで良いのかもしれない。ダッセーけど。

ぼくの創作活動は、主張でも意見でもなんでもなく、寂しいよおと嘆く悲痛の叫びだった…この叫びを聞け!

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