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文章修行日記・二十五・「自分に核が無い人は他人に答えを求めがち」

「自分に核が無い人は他人に答えを求めがち」
世の中こうした方がいいああした方がいいという記事に溢れている、
けれどもそれが無理に自分を曲げることであったり、過度にストレスを感じることであれば、自分の少し悪いなと思える部分を個性に変える方向で考えた方が良いのではないだろうか?
もちろん自分の行いに核たるものがあり、それが自分の考える正しいこと善いことに外れないというのであれば、もうそれは変える必要がないというか、わざわざ自分が悪と考え、善くない事である方向に向かう必要はないからで、おそらくそういう人は一番最初に書いたような記事を読んでも言動はブレない。
 
ただ自分自身に迷いがちな人や自信のない人が読むともう大変なことになりそうな気がする、どんな記事もある程度は客観性を考えて書かれてはいると思うが結局どこまでいってもそれはその人の主観でしかありえない。

例えばありがちなことではあるけれども自分は一時期(3~4年くらい)自己啓発系の本を好んで読み実践していたことがあった、取捨選択をせずに気になった事はどんなに些細なことでもメモを取り、追い付かない小さな目標がどんどんたまり、それでもあちらこちらの講座や勉強会に出かけたりしていた、それはそれなりに充実感があり何とか頑張れてもいたが、職場の同僚である女性の「〇〇さん(筆者のこと)って何かちんたらしてるよね」という一言によって自分の中の何かが一気に瓦解し回復までには何年もの月日を要した、それは悪気のないほんの思い付きの言葉だったかも知れないけれど、自己啓発によって生き生きしていたはずなのに他人からはそういう風に見えていた、確固たる核を持たない自分にとってはそれまでの言動のどこに問題があり相手にそういう風に見えていたのか見当が付かなかった

論語で言えば
顔回は孔子のようになろうとしたがなれず極貧の内に亡くなった、
子貢はハッキリと目指すものがあり、足りないものを孔子から得ようとしていた。
あいまいなものを目指した顔回とハッキリと目指す場所を見据えていた子貢
顔回はあくまで孔子の弟子として伝わっているが子貢はそうではない、孔子の弟子でもありすぐれた商才をしめし自ら名を残した。
(孔子、顔回、子貢に関する認識はあくまで自分の認識であり色々異論はあると思います。)

どちらが良い悪いという話ではないがどちらを目指すべきかは考える価値がある話だと思う。
もし子貢を目指すならば己の中に自分の核を持たねばならないと思う、
自分で物事を考えず他人に答えを求めがちな人が陥りやすいわりとありがちな罠だと思うのだが、そういう人は意外と多い様に感じる


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