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毎日読書#189 『アヒルと鴨のコインロッカー 』(伊坂幸太郎)

伊坂幸太郎の(特に初期のころの)小説には、なんともいえない違和感が漂う。

伊坂幸太郎が苦手! という方が割と多く居て、身近な読書好きの友人のあいだでも、好き嫌いは二分している。

初期の頃は特に、小説のフレームワークを決めて、そこにキャラクタを置いて物語を作っていく感じがあって、悪く言えば話が人工的で不自然。

でも、私は好き。好きというか、肌に合う。

伊坂幸太郎は、小説で食べる前は、システムエンジニアだったそうで、この時代の作品は、そんなエンジニアだったころの名残を感じる。思考の癖を感じることができる。フレームワークをまず用意するような感じは、とても理解できる。多分、自分が小説を書くとしたら、似たよなアプローチになるのではないかなと思う。

いわゆる文学好きからしたらルール違反のような感想を持つのかもしれない。文体で遊んだり、キャラクターをロボットのように動かしたり。

小説としてそれはアリなのか? と言われると、人によっては無いのかもしれない。人間を書いていない、描いていない、と気に入らないかもしれない。小説をおもちゃのように扱っている感じが肌に合わない人は多いのかもしれない。

くどくど書いたが、私はそんな伊坂幸太郎の作品を楽しめる。好きな作家。

本作『アヒルと鴨のコインロッカー』も好きな作品の一つ。

話は<現在>のパートと、<二年前>のパートが交互に書かれる。

<現在>のパートでは、東北の大学へ通う為に越してきた椎名の物語。椎名は、越してきたその日、隣人の河崎と名乗る男から「一緒に本屋を襲わないか?」と誘われる。

<二年前>のパートは、ペットショップで働く琴美の物語。恋人のブータン人であるドルジとの生活に、ペット虐殺の犯人たちが忍び寄る。そこには、河崎も琴美の元カレとして登場する。

この二つの軸の物語が、河崎という人物がキーとなり結びつき、あっと驚くラストに繋がる。話は、正直そんなに気持ちの良いものでもないし、発生する事件も、登場する様々な人物も、すべては物語の構造を成り立たせるためのコマでしかない。なので、とても頑張って自然に書こうとしているけど、やはり無理があって、まるで人形劇をみているような気分になる。ブータンも、死生観で琴美や河崎の死を納得させるための道具にしかなっていない。

だけど、それを凌駕する伏線の回収と謎解き、オチの付け方。

最後に申し訳程度にしんみりするエピソードを持ってきているけど、この作品は、伊坂幸太郎の上手さを楽しむ小説だろうな。

友人曰く、映画が傑作だというが、ラストまで読んで思うのは、これ、どうやって映像化したのだろう? という疑問。どうやって?

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