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論文を読む『氏名権, 親の命名権をめぐる比較法的考察』中編

――親の命名権は「親に権利あり」「子供の代理」の2つの考え方がある――

自己命名権に関連する論文を読んでいきます。今回は中編――
長友昭. "氏名権, 親の命名権をめぐる比較法的考察―日本の実務と中国の指導案例 89 号 「北雁雲依」 事件, 中国民法典の人格権規定から―." 拓殖大学論集. 政治・経済・法律研究 23.2 (2021): 1-21.

中編では「命名権」についての記載を見ていきますが、「自己命名権」という考え方が決しておかしなものではないことも記されています。

命名権について
 
命名権を考えるにあたり,日本民法には,子の名に関する規定は置かれていない。戸籍法には 「子の名には,常用平易な文字を用いなければならない」(戸籍法 50条 1項)という規定があるが,その他の規定は存在しない。そして,出生届には子の名が記載されるが(戸籍法施行規則59 条の定める出生届様式では記載事項とされているが,戸籍法49条ないし戸籍法施行規則 55条における記載事項ではない),名を決める権限が誰に属するかは定められていない。ただし,父母 (または母)が届出義務者とされている(戸籍法 52条 1項 2項)(15)。


(15) 大村敦志『民法読解親族編』有斐閣,2015年,180頁。

長友昭. "氏名権, 親の命名権をめぐる比較法的考察"

名を決める権限が誰に属するかは定められていない」というのは重要な記載です。日本の法律ではそんなことも明記されていないのです。

 そのため,日本における「命名権」の基礎については諸説あるとされる。井戸田博史によれば,(A)命名権親権固有説(B)命名権子固有説に分かれており,さらに命名権子固有説における権利をどのような法的構成によって代行するかによって,(B-①)事務管理的代行説(B-②)親権者代行説があると主張されている(16)。


(16) 井戸田博史「第 6章 出生子命名権――「悪魔」「琉」命名事件――井戸田博史『氏と名と族称 その法史学的研究』法律文化社,2003年,150-153頁。

長友昭. "氏名権, 親の命名権をめぐる比較法的考察"

親が子供に名前をつける「命名権」については3説あるとされています。
(A)命名権親権固有説
(B)命名権子固有説
  (B-①)事務管理的代行説

  (B-②)親権者代行説
これを順に見て行きましょう。

すなわち(A)親権者の権限・作用の一環とするもの(17)では,中川淳によれば「出生子自身がみずから自己の名を定めることができないという意味では,自己決定権は,抽象的,潜在的なものといわなければならない。このように,出生子みずからが命名しないということになれば,監護関係という視点から,親権者になる者に第一義的な命名権をあたえるほかない。本人の授権行為もなく,法律規定の存在もない以上,親権者に命名権があると解することは,子の利益・福祉の保護という制度上,自然の理というべきである。」 とする。

(17) 谷口知平 加納實 澤井種雄編『大阪家庭裁判所家事部決議録』有斐閣,1960年,240頁,中川淳 「判批」判評 429号(判時 1503号)69頁。

長友昭. "氏名権, 親の命名権をめぐる比較法的考察"

(A)の説は、「命名権は親権者にある」と解釈するものです。生まれた子ども自身が自己命名できないのだから、親権者に命名権があると考えているわけですね。

(B-①)子の固有権・人格権を事務管理的に親権者が代行するとするもの(18)では,戒能通孝によれば「現行の民法そのものの規定からみても,親権に服するのが未成年の子に限られているときに(第 818条),名がむしろ一般に終生的であり,身上的であることを考えてみるならば,命名を以て直ちに當然には親權の作用であるとみることはできないであろう。だとすれば 命名の本來の基礎は,命名さるべき出生者自身にあり,親権者はそのもののため事務管理的にそれを代行するのではあるまいか。親権者が自己の固有権として命名するのではなくて,被命名者の固有權を代行するにすぎないとみた場合,命名に際して起るかなり多くの問題に,より合理的な解決を期待する道が開かれるであろう。それがもし親權本来の歸結だといえば,結局同じことを主張することにはなるけれども,しかし命名はすべての親権行使より子の一身に專屬し,密着する程度が濃厚であるというかぎりにおいて,まさに子の固有権の代行行為に外ならないのである。」とする。

(18) 戒能通孝「子を命名する権利と義務」末川博 中川善之助 舟橋諄一 我妻栄『家族法の諸問題 穗積先生追悼論文集』有斐閣,1952年,329頁,大里知彦「人名について考える 「悪魔」ちゃん 騒動から学ぶべきもの 」戸籍 623号,41頁等。

長友昭. "氏名権, 親の命名権をめぐる比較法的考察"

(B-①)の説は、「命名権は生まれた子供が持っている権利だが、事務作業を誰かがやらなければならないので、親がそれを代行している」と考えるものです。ここで「名がむしろ一般に終生的であり,身上的である」、つまり、名前とは一生付き合わなければならないのが一般的であるという事実にも触れられています。

(B-②)子の固有権・人格権を親権者が代理して行使するとするもの(19)では, 「名は子自身の固有のものであるが,出生時に子自らが命名することはできないから,誰かに代行してもらう必要がある。(20)」もっとも,この代行を事務管理的な代行と解すると「親による命名を親権者が義務なくして子に名をつけるというふうに構成するのは,何としても,多くの親に 共通するに人間的な感情に即しない(21)」ものであり,「親権は子の福祉を維持増進させるための義務性を内容とするものであって,子の利益のために,親に与えられている。親のうち,子の福祉を守る親権を行使する者すなわち親権者が,出生子に固有の命名権の代行者とするのが妥当である。(22)」とする。

(19) 田中実「命名の法理」法学研究 37巻 10号,16頁,高梨公之「名と戸籍名」日本法学 30巻 1号,9 頁,前掲注(16)書,152 153頁等。
(20) 前掲注(16)書,152頁。
(21) 前掲注(19)田中実論文,16頁。
(22) 前掲注(16)書,152頁。

長友昭. "氏名権, 親の命名権をめぐる比較法的考察"

(B-②)の説は、「命名権は生まれた子どもが持っている権利だが、親がそれを代行している。ただし、単なる事務管理的な代行(B-①)では義務ではないということになってしまう。親権(子の福祉を維持増進させる義務)として命名権を代行している」とするものです。
(B-①)は単なる事務作業を代行しているだけ、(B-②)は子供の保護育成を義務とする「親権」の一部として代行している、という点が異なります。

命名権の基礎についていずれの説と解するにせよ,出生子に意思能力がないことに疑いはない。 他方で,命名権が親(父母)に固有の権利かというと,祖父母等による命名等も社会に少なからず見られるところであり,それが他の法規や公序良俗に反するとも認められないから,親が子の命名をすることが社会的な必然というわけでもない。この議論は,戸籍法の関連条文や民法 820 条その他の条文,さらには自然法ないし慣習法にまでおよぶ解釈上の争いとして,さらに名付けに関する国民の素朴な感情といった面からの問題として,あるいは日本固有の慣行等をどう評価するかといった問題としてそれぞれの立場からのそれぞれの根拠づけがなされている(23)と解される。特に命名権者については,先例等によると,地方の慣習によって定まるとされている(24)。また,下級審裁判例では,命名権者を定める過程で命名権に触れるものも少なくない(25)。他方で, 事実上,命名にたずさわることが多い親について,命名に際しての親の裁量が,子の福祉や利益 の観点から一定の制約に服すべきかが問題となる。

(23) 前掲注(5)書,251頁。
(24) 昭和 45年 5月 24日~25日熊本県連合戸協決議・同年 10月 14日福岡法務局長変更認可,昭和 28 年 6月 26日~27日名古屋局管内北陸都市戸協決議・同年 29年 1月 13日法務省民事局変更指示等。
(25) 東京高決昭和 26年 4月 9日家月 3巻 3号 13頁,名古屋家一宮支審昭和 38年 10月 8日家月 16巻 13号 107頁,函館家審昭和 45年 10月 22日家月 23巻 6号 73頁等。

長友昭. "氏名権, 親の命名権をめぐる比較法的考察"

親権者が命名権を持つ、または親権者が命名権を代行するというどちらの考えについても、そうではない場合も見られる(たとえば祖父母が名付け親になるのはよくある)といった点も指摘されています。

少なくとも、「命名権が親にある」というA説は受け入れがたいと言えます。「命名権は子(本人)にあるが、出生時にそれを親が代行する」という
B説が妥当でしょう。それが事務手続きのみに留まるのか、それとも親権の一部なのかには議論の余地もあります。

しかし、成長した子供自身が命名を選ぶ権利については完全に無視されているといえます。
わたしたちは自己命名権というものが存在することを再確認し、日本での意識を高めていく必要があります。


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