認知症や植物状態、要介護老人にとっての自立とは何か


◆自立とは何か

例えば、重度認知症のために意識がまったくない寝たきりの老人で、食事は胃ろう、排せつはオムツで済まし、後始末は全てにおいて介助が必要な老人がいたとします。「この方にとっての自立とは何ですか?」と問われたら、どう答えますか。

 障害領域などにおいて「手が動かずご飯が食べられなかったけど、回復して自分で食べられるようになった」等と言われると「自立」という言葉がふさわしいように思います。でも、介護の場合はそうもいかない場合が非常に多くあります。回復しない要介護状態の老人が大半だからです。

 現状維持できればまだいい方で、やがては皆、自然の摂理に従い健康状態が低下し、死を迎えます。特に認知症が進み重度化すると判断・思考そのものができなくなったり、植物状態※になることもある。そうした要介護の最終ステージにおいて「自立」とは、そして「自立支援」とは何を意味するのでしょうか。
 ちなみに、「自立の概念」について厚生労働省はそのホームページで次のようにしています。

※植物状態=遷延性意識障害(せんえんせいいしきしょうがい)
「自立」とは「他の援助を受けずに自分の力で身を立てること」の意味であるが、福祉分野では、人権意識の高まりやノーマライゼーションの思想の普及を背景として、「自己決定に基づいて主体的な生活を営むこと」、「障害を持っていてもその能力を活用して社会活動に参加すること」の意味としても用いられている。

上記文中で要介護老人に比較的、しっくりくるのは「自己決定に基づいて主体的な生活を営むこと」という定義かもしれません。しかし、これもよく読むと「自己決定に基づいて」という文言にひっかかります。

 認知症になると判断力が低下し、自己決定したくとも、その前提条件となる、理解力が低下・喪失するため、まともな自己決定ができなくなるからです。先の厚労省の定義では、認知症老人は自立できない、ということになってしまいます。(これは少し意地悪な見方であって、先の文書は認知症がこれほど社会問題化する以前に考案された定義であり、時代に即した書き換えが求められている、と言うべきかもしれませんが)

◆とりあえずビールの「とりあえず」とは


そもそも、私たちは、読者であるあなた自身は、自己決定すべき場面で、きっちり自己決定しているでしょうか。(=自立しているでしょうか)。

例えば、職場や友人達との飲み会の席にて、最初の乾杯に向けて注文を取られます。その場面では、お金もしっかり払うのですから、普通に考えればメニューをじっくり見て、自分の飲みたいモノを注文(自己決定)するはず。しかし、多くの人は、そんな場面でさえ「とりあえずビール」と言う。自己決定しません。なぜだと思いますか。そも、「とりあえずビール」の「とりあえず」とは、何が「とりあえず」なんだと思いますか。
生真面目に考えるとこうだと考えます。

「私が注文したいのは、本当はウィスキーロック・ダブルの水割りだけど、自分だけ好きなもの注文していたら乾杯の時間が遅くなるし、みんなから変な目で見られるかもしれないし、店員さんも注文が大変だろうから、とりあえずビール」、と。(笑)

そう、私達は、そんなささやかな飲み会レベルの場面でさえ、自己決定を「良し」としない文化・習俗の中で生活しています。自己決定は時に我がままと取られかねず、何よりも「和をもって貴しとなす」。欧米的な「自我」や「自己」を後回しにし、自己決定も声高にしません。

 福祉の教科書的な「自己決定」や「自立」という概念には「私」という個が確立した西洋文明が背景にあり、そこから派生した「近代的自我」の成立が前提条件のはずです。そして、それらは元々、日本社会には根付いていないものです。2020年代においてさえも。

◆日本社会の自己決定

 では、私たちは、どのようにして判断・決定しているか。

例えば、施設か在宅か揺れる家族・老人の間では、よくこんなセリフが聞かれます、「(息子の)お前が、A施設に入れって言うんなら、それでエエよ」と。また、デイサービスの選択を求められた老人が信頼するケアマネに言います、「あんたがイイと思うデイサービスでイイよ」と。介護施設においてクラブ活動に尻込みしていた老人が介護職員にこんな事も言います、「あなたがそこまで進めてくれるんなら、少し手芸活動やってみようかしら」と。

 こうした事象について三好春樹氏は「自己決定」ではなく「共同決定」と指摘されています。介護の現場では老人と(信頼関係のある)介護職が一緒に判断をしているじゃないか、ということですね。

 私は、そこに、さらに、「協調決定」という概念も追加したいと思います。本当は施設になど行きたくないのに、周囲に迷惑をかけまいと、周囲に協調して行う場合の決定スタイルのことです。あと、周囲の強引な圧力に押されて、同調圧力に負けてしまう形での決定スタイルとして「同調決定」というスタイルもあるでしょう。

 そんな純粋な自己決定とは程遠い、判断方法を採用している日本社会においては、西欧的な自己決定を前提とした「自立」の概念そのものが成立しない、と考えるわけです。

 このように実際の介護現場での老人達の決定スタイルを見ると、それらは近代的な「自我や自己」を前提とした「自己決定」ではありません。そんなものは最初からなく、自分にとって大切な人の事も念頭に入れながら、周囲に気を配りながら判断を下す、いうなれば「共同決定」「協働決定」「協調決定」「同調決定」*といった言葉の方が正確に事実を表現しているのではないでしょうか。少なくとも教書的な「自己決定」からは程遠いスタイルが主流派だということが現場にいれば分ります。



【共同決定】 三好春樹の定義で、主に介護現場において、老人が自己決定するのではなく、信頼する介護職員との関係性の下で一緒に物事の判断決定をする様を言う。
【協働決定】 上記の応用で、本人判断力がない場合に、周辺関係者が協働で決定していく様。(以下、すべて本間による独自定義)
【協調決定】 本人が自己決定を遠慮し、周囲の意向と強調しながら着地点を見出す様。
【同調決定】 本人の意向に反するが、周囲の同調圧力に逆らえず、やむなく同意決定する様。専門家による代弁が求められる場合もある。

 ひるがえって、冒頭に掲げたような認知症や植物状態、要介護老のような人の自立(=自己決定)はどうあるべきか。

それは、今、考察してきたとおり、本来的に日本社会では、自分だけで判断・決定する習俗ではありません。自分にとって大切な人達との関係性の中で、調和を乱さないように決定されていく習俗です。

 だとすれば、法規的には、本人に変わる配偶者の判断・決定が優先され、それが難しい場合は直系の子どもなどが、本人の代弁機能を果たしつつ決定していくのが無難な着地点ということになります。(もちろん、周辺関係者との調和を取りながら)

そのような意味では、認知症であろうが植物状態であろうが、(自己決定に基づく)自立支援は十分実行可能なわけです。そして、そのような時には、(単に法的だけでなく)社会的に見て納得のいく、第三者(や関係者)が本人の代わりに最良の協働決定をしているか、が問われることになります。

難しいことを言っているのではありません。介護福祉の専門職なら、老人本人、老人の親族などの代弁者、そして直接援助者としての自分。それぞれの立場を踏まえた最良の着地点を見出していけばよいのです。

 ただし、これはあくまで模範的な考察であって、病院や介護施設では時に、親族自らが判断・決定を放棄し、職員側に丸投げしてしまうことがあります。「そちらにお任せします」等といって。

もちろん、これは「判断」や「決定」ではありません。判断放棄であり決定放棄です。「とりあえずビール」と判断放棄する社会習俗は脈々と根付いているのです。自立支援はだからこそ、難しいのです。

※月刊介護保険掲載,本間清文著「植物状態の人にとって自立とは何か」を改編

参考:夏目漱石|近代日本の文学,近代的自我

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