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説明できない気持ち悪さも大切にする

(文:SELF編集部 かつ しんいちろう)

分かり合うということについて。わたしたちはどのようしたら分かり合うことができるのでしょうか?分かり合うということはどのような状態なのでしょうか?

人は、同じものを見てもそれぞれが違う思いを持ちます。同じ文章を読んでも受け取るメッセージは様々です。ずっと様々なままだと困るので、初等教育で共通化を「図り」ます。できるだけ、同じものを見たら同じことをすべての人が思うように。それが初等教育の役割の一つです。仮にこれを思考の共通化と呼びます。

この思考の共通化に必要なのが言語です。私たちは何かを誰かに伝える時に言葉を使います。

その言葉は、構造化されていると、論理が通っているのでスッキリと理解ができたように感じます。その論理もまた各人の経験の中で得られた仮のものです。構造化された言語は、相手によって解読(デコード)され、伝わったかのような感覚になります。普通、わたしたちは「伝わった」と思います。実は、伝わったというのは幻想で、正確には「伝わったと思いたい」ということです。「伝わったことにしましょう」というあきらめにも近いものです。

ですが、こうしたやり取りが繰り返されるうちに、論理的っぽく書いたり話したりすることで、自分の考えていることは相手に伝わっていることにするということにしてしまいます。これを二人の間では「対(つい)幻想」、多くの人の間では「共同幻想」と言います。

私が振り返るに、自分で伝わったなと思うのは平均打率7割くらいです。対話をしていて「あー、同じ思いなんだな」と思うシーンだと8割に上昇し、「こりゃ、見ている世界とロジックが全然かみ合わない。」という場合だと2割くらいの伝達率です。(今回のこのエッセイの打率も怪しいところです。)

でも、それで良いのでです。伝わっていないと悩むより、伝えようとする思いの方が重要です。最も困るのは端から理解し合おうということをあきらめて、自分の言語だけで意見を述べて脳を閉ざしてしまうことです。

ミラツクの西村勇哉さんが先日、企業研修においてビジョンを語る際に将来予測や未来の話をする時、「まだ決まっていないことを話すのは気持ちが悪いことだと肯定してかかるとスッキリする」ということを話していました。まだ誰も見ていないものは、論理的に説明をすることができない。論理的に話そうとすると、過程が崩れて不安定になる。なので気持ち悪さが残る。これって合っているのだろうか?

現在のことでさえも、説明できているように感じているだけでわたしたちは共同幻想のなかで済ませています。ましてや未来のことはイマジネーションの世界。それをむりやり論理的に語ろうとすると矛盾が生じ、気持ちが悪くなる。

説明しきるという状態は無いわけで、ある程度の対話の末に「なし崩し」まで持っていけた。これでコミュニケーションが取れたと思う。でもよいのです。

逆に、対話という確認作業が無いままに「説明が不足していましたので、もっと説明を丁寧に行ないます。」というアプローチはNo Goodです。

言葉というコミュニケーション・ツールを使って、お互いの理解を8割まで引き上げる努力(=対話)を行なうこと。その中で2割くらいは伝わらない気持ち悪さも享受する。それを含めてコミュニケーションなんだと捉えることがよいのかなと思います。

分かり合うということは、時空間を同一にしていても、昔の人とでも、離れた人とでも面白いことです。その努力をすることをわたしたちは放棄してはいけないなと思います。





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