見出し画像

彗星と隕石と、記憶喪失

ここ2~3週間ほど、ネオワイズ彗星が見ごろを迎えていたそうです。肉眼でも見えるのを聞いて、毎晩北西の空で探してみました。北斗七星さえ見えていれば、その下にネオワイズも見えるはずでした。今まで一度も彗星を見たことがなかったし、この彗星が地球に接近するのは約6800年に一度だけだということもあり、見ておかないと!という気もちでした。

この期間、ネオワイズの写真を色々見かけました。彗星の尾は、まっすぐに伸びるイオンテイルと曲線状に伸びるダストテイルからなり、面白い形をしています。その姿は、どこかで見たことがあるような気がしていました。写真ではなくて、本物でもなかったのだが、確かどこかで見たことがあるような気がして、なかなか落ち着きませんでした。北西の空にネオワイズを見かければ、思い出すんだろうと、かすかに期待していました。

しかし、皆さんご存知の通り、梅雨が長引いて、つい最近まで星空はあまり見えていませんでした。彗星は8月半ばあたりまで引きつづき地球に接近しているそうですが、東京からは肉眼ではもう見られない状態です。

彗星が現れたのは7月8日あたりだったのですが、その時点ではわずか一週間前に起きた隕石落下のことはもはやだれも思い出していなかったようです。7月2日に千葉県習志野市にある家庭の庭に、約70グラムの隕石が落ちました。幸いにはケガ人がいませんでした。

しかし隕石に彗星といって、7月の空はなんて忙しいだろうと思いながらも、彗星をどこで見たことがあるかも、隕石落下がどうして危険だと分かっているかも、ちっとも思い出せない自分がいました。

そして、なんと、ちょうど2日前、一週間も前からたまたま借りていたがなぜかまだ観ていなかった『君の名は。』を久しぶりに観たんです…

この映画を初めて観たのはリリースされた直後で、とても気に入って深く印象に残りました。DVD版が出てからも、少なくとも2~3回観ています。それでも!それでもですよ、彗星や隕石の話になっても、自分は彗星と隕石をどこで観たかが思い出せないという状態です…

神隠しの一種かしら?と思いました。あるいは、コロナ危機のせいで大事なことも思い出せないくらい人間の意識が変えられているでしょうか?

パッとしない映画の話だったら、まだ分かるけど、大好きな映画のことですよ!と、自分でも不思議に思いました。二人の個人である主人公たちの物語を、彼らを取り巻く世界に、そして宇宙全体にきれいに結び付けていること、伝統と信仰が息づいている日本と都会的な日本が両方とも輝いている形で描かれていること、おまじないをこめて組紐を作る人たちとスマフォをいじる人たちが同じ物語で出ていること、ユーモアも切なさもあることなど、『君の名は。』の面白さは語りつくせません。

それでもですよ! 彗星の話になって、自分がどこで彗星を観たかが思い出せないという…

確かにたくさんの要素が複雑に絡み合う濃い物語なので、一番印象に残っているのは彗星のことではなかったと言えるかもしれません。おそらく自分の関心が完全に別の要素に向けていたので、自分にとっては彗星のことはどこか背景に移ったかもしれません。しかしね…

面白いことに、この物語に登場する主人公たちも、不思議な記憶喪失に悩まされているのです。必要な時だけに大事なことを思い出しているのだが、それ以外の時は、相手の名前さえも思い出せません。名前が思い出せない代わりに命が助かったのはよかったですが…
運命的な記憶喪失というものが存在していると、この映画が教えてくれているのではないかと思います。

とはいっても、私たちが今生きている時代は、確実に人間の意識を変えているに間違いありません。コロナ危機はそれなりに大きな問題で、私たちの全ての注目を集めています。いつもよりも、人間の意識は「今ここにあるもの」に吸い込まれていて、長いスパンでもの見る余裕があまり残されていません。普段は、遠い過去も、未来も、他の国のことも、自然や宇宙のことも視野に入るのですが、現在は人間の視野が狭くなりつつあります。危機的な状況では「今ここ」の存在感がいつもよりも大きくなりがちです。

この時代を乗り越えた時点で、私たちはおそらく別人になっているでしょう。
だから、いつも思い出したいもの、忘れたくないものがあるなら、その思い出を大切にする努力がいつも以上に必要かもしれません。

人は思い出したいから思い出すのです。思い出したいという意志が運命に伝われば、肝心な時には思い出します。
この時代を生きている私たちは、日に日に意識を変えられているかもしれませんが、どのように変えられているかは、それは自分たちの意志で決められるものだと信じたいです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?