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生きた言葉を求めて

世界は言葉であふれています。言葉の海で溺れるのではないかと思うくらい、日々言語を通して多くの情報が私たちに届いています。

その中から、読んでためになった情報がどのくらいあるのか? 「新しいことを知って学びになった」というところまで行かなくても、「知って嬉しかったこと」「おかげで気分が明るくなったこと」「周りの人とのつながりを実感させてくれたこと」などが、言葉を通してどれくらい届いているか? このようなことについて真面目に考え出したら、絶望してSNSなどを止めたくなる方も出るのではないかと思うので、修辞疑問の程度にしておきましょう。また、発信する側としては「自分の言葉は世界への贈り物になっているのか?」と考えさせられることがあります。このあたりのことを念頭に置いていても、考えすぎないほうがいいかもしれません。言葉を完全に発信できなくなるリスクもあるからです。

日々私たちに届いている言葉の多くは空っぽです。テンプレート化されている言葉が多く、本当の意味で何かを伝えようとする言葉や、受け手のことを思って発声・発信されている言葉、つまり「生きている言葉」は実に少ないような気がします。
言葉は、使えば使うほど意味を失くしていると感じる瞬間もあります。

毎日文章と向き合って生活していると、言葉の限界に気づくことがしばしばあります。言葉が「伝える力」を失くしている状態、あるいは伝えたいことはあるが、伝えたいことにはその言葉が及ばないという現象もよく見かけます。自分にもこのような時があります。

それで、言葉が元気を取り戻すには、少なくとも二つの方法があると気づきました。

一つ目は、言葉からいったん離れること。しばらくの間、例えば音楽の世界、あるいは絵(写真や絵画など)の世界に浸かって、言葉を必要としない世界で感覚を研ぎ澄ますこと。
言葉を一時的に発信せず、受信もしない、つまり「沈黙」を体験するのもおすすめです。言葉のない世界では、それ以外の形で伝わってくる情報に敏感になります。それこそが「心で聴く」行為なのだと思います。
人と同じように、言葉を少し休ませると、新鮮さを取り戻すのです。

二つ目の方法は、詩に触れることです。
詩は言葉の錬金術。言葉に命を吹き込む力があります。
いかにも人間的な事柄と言葉を題材にして、それで思いがけないイメージを呼び起こしている詩は、言葉を変身させ、昇華させています。その上に、言葉の中に眠っているリズムに気づかせてくれます。
詩は生きた言葉の源泉で、ある意味で生命の底流に繋げてくれるものです。

生きた言葉の本当の力に触れたことがある人は、自分の言葉が無力になっているのを自覚するのはとても耐えがたいです。
嬉しいことがあった時や、悲しいことがあった時、あるいは人間の理解を超えるような出来事に直面した時は、感じていることや考えていることをうまく言葉で表せない―人間ならだれでもこのような状態を経験したことがあるでしょう。
とはいっても、その場にふさわしい言葉が出てこないのは悔しい気持ちです。

最近はこのような時もあるということを受け入れるのもありかと思うようになりました。
言葉が元気を取り戻すには、生きた言葉に触れる機会を増やすのが大事です。


と、ここまで書いて、言葉について言葉で論じるのが難しいことだとつくづく感じています。
言葉とにらめっこをしているみたいです。飛べ!と言葉に対して言っているのに、なかなか飛び立たないもの。
とは言え、生きた言葉を求めて言葉の限界の縁をしばらく歩くのもたまにはいいことです。言葉を超えるものの近くにいるからです。
ここにしばらくいれば、徐々にこの感覚を表現するにふさわしい言葉も一つ一つ磁石のような力に引っ張られて、きれいに配列され、一つの結晶が出来上がるのではないかと思います。

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