ジャニーズは終わってしまったのか!?闘え!新時代の幕開け!!

かつて、芸能界に名を刻み、一時代を築き上げたジャニーズ帝国の生みの父・ジャニー喜多川さんが死去して、早3年が経つ。

そして、先日、ジャニーズ帝国の生みの母でもあったジャニー喜多川氏の姉・メリー喜多川さんが、この世を去った。

この場をお借りして、ご冥福をお祈りいたします

プロデュース力に長けたジャニー喜多川氏とジャニーズ事務所という会社の経営を担ってきたメリー喜多川氏。

この二人が去ってしまった現在のジャニーズ事務所には、

ジャニー喜多川氏の姪であり、メリー喜多川氏の娘・藤島ジュリー景子氏が筆頭となり、かつては所属タレントとして後に語る事にするが、ジャニーズJr.の第一黄金期を支えたタッキーこと滝沢秀明氏

この両氏が、現在のジャニーズ事務所を支え、これからの芸能界・世界のエンターテイメント界のカギを握っているのだろう。

ジャニーズ事務所の歴史は、これまで多くのメディアで報じられ、書籍化にもなり、ファンの間でも共有されるなど、聞き飽きた人もいるかもしれない。

ただ、日本の芸能界に男性アイドルという基礎を作り上げ、近隣国の今日に至るK-POP人気の誕生も、ジャニーズなしに産声を上げることはなかったかも知れない。

それだけにジャニーズは、日本が誇る文化の一つとなっているに違いない。

そして、これから語るジャニーズの歴史は、日本の芸能界、テレビ界・エンターテイメント界の歴史でもある。

まず、ジャニーズという言葉を耳にした事がない人はいないだろうが、ジャニーズをあまり知らない方、ジャニーズファンの方にも是非、一読して欲しい。


目次

芸能界で圧倒的な勢力を保ってきたジャニーズ事務所の今

SNS時代の到来で、今や圧力という言葉はファン並びに視聴者、つまり一般人が持つようになってしまった。
かつて、創業者のジャニー喜多川氏が作り上げたジャニーズ帝国の勢力は、薄れてしまい、ジャニーズというブランドの価値が見失われている昨今だが、今も尚、輝き続けるジャニーズ事務所は、もしや我々、ファン・一般人の個々の発信力の支配下にいるのかもしれない。

それは、ジャニーズ事務所だけに限らない芸能界の見える化は進化を続けている。

良いか悪いかはまだ発展途上の最中であり、答えは出せない。

今日のエンターテイメントを守り続け、輝き続けるジャニーズたちが、これまでにないほどエンターテイメントの在り方が問われている今日のコロナ時代に、今は亡きジャニー喜多川氏とメリー喜多川氏が不在の中、これからの芸能界、エンターテイメント界にどう受け継ぐのだろうか。
そして、今日まで芸能界を走り続けたジャニーズ事務所は、これからのエンターテイメントの在り方にどう問いただすのか。

人類が未知の世界・時代に突入した今、まだ、答えは出ていない。
だが、その答えを出すのは、ジャニーズ事務所なのか、それとも……。




時は遡る。日本にやって来たテレビの誕生!!

ラジオからテレビへと移り変わり、そのテレビの草創期を担ってきたのが、渡辺普氏らが設立した渡辺プロダクション。

今も尚、健在する大手プロダクションの一つであり、後に沢山の企業グループを作り、渡辺晋氏の次女・渡辺万由美氏が平成7年に設立して今や映画界を支えている若手の一人・菅田将暉さんを筆頭に松坂桃李さん、中村倫也さん、女優の木村佳乃さんなどを抱えるトップコート、ザ・ドリフターズや俳優の小泉孝太郎さんらが所属するイザワオフィス、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』などの制作会社ザ・ワークスなど様々な関連会社を生み出している。

1960年代の当時、芸能タレント・歌手は偏見などのずさんな扱いを受け、不安定な生活を送っていた。
これまでレコード会社がタレント・歌手の専属契約を結んでいたものを、改革に乗り出した渡辺氏は、妻と松下治夫氏と共に日本に、本格的な芸能プロダクションとして誕生させ、
マネジメントを含め、興行、著作権の関連にも着手し、芸能界初の月給制を取り入れることに成功した。
それからは、著作権の関連によって生まれた印税が利益となって、
当時は、ワタナベ帝国とまで言われるほど勢力を伸ばした。

『ザ・ヒットパレード』、植木等らがメンバーのクレージーキャッツを主演としたクレージー映画シリーズなど、今や懐かしの伝説番組となったお正月恒例番組『新春かくし芸大会』などのテレビ番組から映画までも制作にも携わってきた。

そんな芸能界の一本柱となっていたワタナベ帝国も、オーディション番組『スター誕生!』の登場で、陰りを見せる。

森進一さんや木の実ナナさん、布施明さんらの相次いだ独立が目立ち始め、

今日の芸能界を支える大手プロダクションたちの頭角を現した。

ここから追い上げるように成長するのが、ホリプロである。
現在は、和田アキ子さんをはじめ、さまぁ~ずや藤原竜也さん、竹内涼真さんなど大物歌手からタレント、実力派の人気俳優までを抱える今も尚、今日の芸能界のトップを走り続けることになる芸能プロダクションだ。

それからは、後の1980年代漫才ブームを作り出した吉本興業、後に芸能界のドンと称される周防郁雄氏が設立したバーニングプロダクション(含むバーニンググループ)、人気俳優や人気女優を抱えて映画やテレビドラマの制作にも着手する研音、渡辺プロダクションでキャンディーズらをマネジメントしていたマネージャーが独立して立ち上げて今や日本の芸能事務所きっての上場企業とまで成長したアミューズ、後に『全日本国民的美少女コンテスト』を生み出すオスカープロモーション、そのオスカープロモーションを経て独立マネージャーがZARDの坂井泉水さんを育て上げて、今では芸能界最大の若手俳優女優を抱える事務所として成長することとなるスターダストプロモーション などが、生まれてきた。。

この時に渡辺プロダクションの系列会社として創業していたジャニーズ事務所は独立して、男性アイドルの基礎を作り上げていく事になる。



ジャニーズの誕生は芸能界ではなかった!? 

今となっては有名な話だが、ジャニーズの名は元々、ジャニー喜多川氏が率いる野球チームの名だった。
それも東京にある代々木公園で練習は行われていたという。

しかし、野球の練習が雨天で中止となった事で、映画館に足を運んだジャニー喜多川氏らが、名作映画『ウェストサイドストーリー』に感銘を受け、野球そっちのけでダンスレッスンを始める。

そして、野球チームから選抜された少年たちによるアイドルグループが生まれた。

それが、初代のジャニーズだ。

ジャニーズのメンバーには、今も芸能界で活躍する、『ジャニーズ』という名を生んだ・あおい輝彦さん(水戸黄門の3代目助さん役など)もいた。

感銘を受けたとされる『ウェストサイドストーリー』から、ジャニー喜多川氏は、初めからテレビ界に殴り込みに来たわけじゃなかった。

それに、『ウェストサイドストーリー』に感銘を受けたジャニー喜多川氏にとって、テレビ界より、舞台。そう、ブロードウェイ・ミュージカルという壮大な夢を抱いて、芸能界に進出したわけだ。
それは、当時日本では誰も見たことがない、考えたこともなかった壮大なエンターテイメントを一人で深求していたわけだ。

そもそも現在の当たり前のように存在する「歌って踊る男性アイドル」など日本に存在しなかった時代だ。

名曲『上を向いて歩こう』の作詞家・永六輔氏らが作・構成を務め、自身も作詞として担当した、あの名曲『上を向いて歩こう』や『こんにちは赤ちゃん』などを世に送り出し、初代ジャニーズのデビュー曲『若い涙』も誕生した当時のNHK番組『夢であいましょう』。
バラエティ番組でありながら、舞台ショーというジャニー喜多川氏の方針が一致したことから生放送番組に当時の歌手・田辺靖雄氏のバックとして、初代ジャニーズは晴れて芸能界デビューを果たしたのだ。

余談だが、田辺靖雄氏の甥は、今は世界を中心に批判の的となっている小山田圭吾氏だ。(批判の理由は記しません)

今や常連となった紅白歌合戦

1965年。日本が誇るテレビアニメが初めてカラー放送された『ジャングル大帝』の放送開始、高度経済成長期の要となる『日本万国博覧会』こと大阪万博のテーマが『人類の進歩と調和』に決まった年で、今や恒例となったプロ野球ドラフト会議が初めて開催した年であり、日本サッカーリーグが開幕した年でもある。
さらに、忘れてはならないのが、世界に初めて原爆が落とされて終戦してから20年目の節目の年でもあった。

その年末、大晦日恒例の番組となって通算16回目を迎えた紅白歌合戦。
ジャニーズ事務所所属の初代ジャニーズが初めて、紅白歌合戦の舞台に立ち、初出場を飾った。

その翌年、ダンスレッスンを本格化する為に渡米し、アメリカ映画でお馴染みの(日本にも法人化されている)ワーナー・ブラザース(現:ワンナー・ブラザース・エイターテイメント)と契約することになる。

そして、全世界に向けてシングルリリースすることになる。

この時にきっと当時の芸能界は、ジャニーズ率いるジャニー喜多川氏に対して見る目の色が変わったことだろう。

ジャニーズは、日本に留まらず、海外へ、世界に目を向けて動き出したのだ。

タラればになるだろうが、この時から既にジャニー喜多川氏が描いた夢の設計図が着実に作られていたに違いない。

1967年に、全米チャート第1位の大ヒットの記録、功績を残し、帰国することになるが、ビートルズを筆頭にグループ・サウンズの爆発的流行が日本にも齎し、ジャニーズの誤算となってしまった。

帰国した年の秋頃、11月20日に渋谷公会堂にて解散コンサートを経て、間もなくして幕を閉じることになる。

しかし、ジャニーズ事務所は発想の転換が早く、初代ジャニーズが解散した翌日には、フォーリーブスがデビューする。

当時、流行中だったグループ・サウンズに乗っかかり、楽器を持たないグループ・サウンズとして一躍することに。

音楽時代の転換期を迎えて

芸能界では、初代ジャニーズが解散して、2年ほどすると日本が誇るテレビアニメなどで活躍する声優を専門とした青二プロダクションの登場、今や音楽事業の大きな中核を担っているエイベックスの登場などにより、芸能界・エンターテイメント界は華々しいものとなっていく。

そして、世界に衝撃を与えたビートルズの解散をきっかけに、日本の音楽ブームにフォークソングが誕生する。
吉田拓郎さんをはじめ、井上陽水さん、中島みゆきさん、海援隊などが活躍するようになる。

ジャニーズ事務所はと言うと、尽く日本の時代の流行を裏切り、アメリカの音楽グループ『ジャクソン5』、後に世界のマイケル・ジャクソンを生み出すグループだ。
そんなグループが行っていたソウルミュージックを取り入れた。

今や一人の歌手として有名な郷ひろみさんもこの時代(1972年)にデビューを飾る。

そして、ジャニー喜多川氏のプロデュース力の原点となるのが、グループ・サウンドの中でも人気を博したオックスでタッグを組んでいた作曲家の筒美京平氏をプロデューサーに招き入れたのだ。

郷ひろみ氏は、後の流行となるディスコにもいち早く取り入れたが、1975年に退所することとなる。

この間にも、男女混合グループなど複数のグループがデビューを果たすが、ジャニーズの代名詞には至らなかった。

そして、日本の芸能界はアイドル時代の黄金期へ突入する

1970年代に、女性アイドルが次々と生まれ、今も尚、ファンがいるとされ、愛され続けている伝説のアイドルグループ・キャンディーズやピンク・レディーをはじめ、アグネスチャンさん、桜田淳子さん、岩崎宏美さん ほか。
そして、上記にも紹介した番組だが、オーディション番組『スター誕生!』で生まれた当時のスター・山口百恵さんの衝撃の引退で、70年代のアイドルが次々と卒業、引退となり、時代は80年代となって、新たな女性アイドルブームが生まれる。

花の82年組という言葉をご存じだろうか。

小泉今日子さん、中森明菜さんをはじめ、早見優さん、つちやかおりさん、後に人気タレントのヒロミ氏の妻となって天然エピソードが話題となる松本伊代さんや令和時代の若年層には、口腔癌を患って闘病していることを公表した事で知った人も多いのではないか、堀ちえみさんだ。

彼女らは華々しいデビューを飾り、『花の82年組』という言葉は、芸能界の歴史に刻まれた。

すぐ様に、おニャン子クラブが生まれるのだが、

女性アイドルのブームが頂点に達していた時、ジャニーズ事務所も負けてはいなかった。
1977年デビューの川崎麻世氏をはじめ、1980年デビューの近藤真彦氏や田原俊彦氏らの『たのきんトリオ』の面々。

そして、1982年。映画会社の東宝が創立50周年という半世紀を迎えた年。

ジャニーズ事務所からは、花の82年組として、ふっくん、もっくん、やっくんでお馴染みのシブがき隊が華々しいデビューを飾ることになる。

その3年後に、少年隊がデビューを果たす。
グループでの活動はないが、退所メンバーもいる中、現在もグループ名『少年隊』は生き残っている。

そして、日本はバブル時代へ             

女性アイドルのブームに陰りを見せ、かつてジャニー喜多川氏が、目にしたジャクソン5のメンバーだったマイケル・ジャクソンの活躍をはじめ、洋楽ブーム、米米CLUBをはじめとしたロックバンドブームが誕生する中、ジャニーズ事務所も新たなグループを生み出す。

それが、『光GENJI』(1987年デビュー)だ。
歌って踊るアイドルに加え、ローラースケートを履いたアイドルだ。
当時は、物珍しいながらもアクロバットをこなすなど、ジャニー喜多川氏が得意とするエンターテイメント性に溢れたショーのようで、日本社会の経済と共に人気は上昇し、社会現象を巻き起こした。
デビュー曲の『STAR LIGHT』の作曲は、当時大人気だったチャゲ&飛鳥だ。

斬新なグループを生み、これからデビューさせるグループの初曲を人気の作曲家や作詞家に依頼するというジャニー喜多川氏のプロデュース力が垣間見える。

そして、彼らの活躍の裏でデビューしたのが『男闘呼組』(1988年デビュー)、『忍者』(1990年デビュー)、『SMAP』(1991年デビュー)、『TOKIO』(1994年デビュー)だ。

いつの間にか、バブルが崩壊し、日本社会がガラリと変化して、
1995年、ついに一世を風靡した光GENJIは、解散となる。

そして、今秋に解散が発表された『V6』が『光GENJI』の解散の年にデビューを果たした。

それから、ジャニーズ事務所は初の関西出身の二人組KinKi Kidsをデビューさせた。

彼らはジャニーズ一の歌唱力の持ち主とされ、デビュー曲から今日まで発表し続けているシングル曲は発表の度にオリコンチャート1位を記録し続け、偉業を成し遂げ続けている。

第一ジュニア黄金期の到来!!

誰が名付けたのか、CDデビュー前のレッスン生たち(いわゆる研修生)をジャニーズジュニアと呼んだ。

90年代後半より、今やジャニーズ事務所の幹部であるタッキーこと滝沢秀明氏を筆頭に、ジャニーズジュニアの存在が大きく目立ち始める。
デビューもしていない滝沢氏だったが、当時のジュニアを率いる形で、BS‐NHK番組の一枠で、SMAPらが出演していた『アイドルオンステージ』を引き継ぐように『ミュージック・ジャンプ』経て、始まった『ザ・少年倶楽部』は現在も続く長寿番組ともなっている。

これだけではない。

ジャニーズジュニア出演の『SHOW‐NEN J』が放送を開始すると、『8時だJ』→『やったるJ』、『愛ラブB.I.G』、『七人のサムライ J家の反乱』など主に朝日放送・テレ東を中心にゴールデンタイムでジュニアの冠番組を持つことになる。

そして、滝沢氏は、当時の黄金期ジュニアを率いながら、GP帯ドラマ『魔女の条件』に女優の松嶋菜々子さんとダブル主演を果たす。
その後、今井翼と共に『タッキー&翼』としてジャニーズ初のグループ名に個人の名前が入ってのデビューを飾った。
それからの人気は衰える事を知らず大河ドラマの主演に最年少で大抜擢され、その翌年より活動の場を舞台に移していき、ジャニー喜多川氏のエンターテイメントを受け継いでいくことになる。
和をテーマにしたミュージカル『滝沢演舞城』は、キンキキッズの堂本光一氏の舞台『SHOCK』と並ぶほどのロングラン上演となり、自身でも演出を手掛け始め、芸能界を引退し、裏方に徹した今尚、タイトルを変えながら後輩たちが引き続けている。

第一黄金期に登場した新たな才能たち

ジュニア黄金期と呼ばれた一因は、滝沢秀明氏だけじゃなかった。

この黄金期にジャニーズファンから絶大な人気を誇ったグループが生まれている。
後に俳優としての地位を確立する生田斗真氏、風間俊介氏、山下智久氏、長谷川純氏によるFOUR TOPS。
ジャニー喜多川氏より「このメンツでデビューすることはない。お前らはそれぞれのところで頑張るからFOUR TOPSだ」と言われ、生まれたジャニーズジュニア内ユニット。

その後は、言うまでもないが、彼らに放ったジャニー喜多川氏の言葉そのものとなっていく。

そして、彼らのうちの一人・山下智久氏はNEWSとしてデビューする。

それからはFOUR TOPSは解散し、ジュニアの黄金期に陰りを見せる中、ジュニア一の美声の主だと謳われていた薮宏太氏らをメンバーに、ジャニーズジュニア内ユニット『Ya-Ya-yah』からジュニアながらCDを発売。
アニメ『忍たま乱太郎』のオープニングテーマ及びエンディングテーマに起用される。
オープニングテーマの『勇気100%』はバブル期に大躍進を見せた光JENJIの曲をカバーしたものだ。
同曲は、現在も続くアニメ『忍たま乱太郎』のオープニングテーマ曲として今も尚、その時々のジャニーズが引き継ぐ形で起用され続けている。

NEWSがデビューした翌日、ジュニア黄金期で姿を現したアイドルながら浪花のお笑いでお茶の間にお笑いを届けることになる関ジャニ∞のデビューだ。

ジュニア黄金期に放送されていたジュニアの冠番組で、当時はアイドルなのに関西弁を口にして物珍しく注目を浴びていた村上信五氏や丸山隆平氏、既にNEWSとしてデビューしている錦戸亮氏らがメンバーとなる。

第一ジュニア黄金期を支えていた一人・山下智久さん。
既にNEWSとしてデビューしていた彼が出演するドラマ『野ブタ。をプロデュース』。
『ごくせん2』で知名度を上げるも、まだKAT-TUNとしてCDデビューする目前だった亀梨和也氏が主演を飾った。
そして、同作は、期間限定ユニットとして、同作の役名・修二と彰で『青春ア・ミーゴ』を発売。
キャッチ―なダンスと歌でミリオンヒットを飛ばし、ドラマと共に社会現象を巻き起こす。


その後に、KAT-TUNは晴れてCDデビューを果たす。
デビュー曲の『Real Face』は、作詞:スガシカオ、作曲:松本孝弘(B‘z)。
ジュニア時代からあったグループで、待ちに待ったデビューだ。
期待されていたに違いないと思わせる程の面々がデビュー曲に携わる。
これもまた、ジャニー喜多川氏のプロデュース力を覗えるところだ。

第一ジュニア黄金期に活躍したジュニアたちがデビューしたうちの、NEWS、関ジャニ∞、カトゥーンの三組のグループは、デビュー以降、不祥事や方向性の違いでグループの脱退、退所が相次ぎ、休止期間を設けたりと、存続の危機を迎える時期もあった。

嵐を巻き起こせなかった嵐の行方                     

タッキー率いるジャニーズジュニアの第一黄金期の最中に、ハワイの地で誕生した嵐は、デビュー曲で話題を呼ぶも、当時の滝沢氏のジュニア黄金期に勝る事が出来なかった。
デビューを果たしていながら、ジュニアの冠番組でもあったTBS系列『ガキパラ帝国2000!』その後継番組『USO!?ジャパン』、テレ朝系列『music‐enta』などの番組ではジュニアのバッグに座っている時期もあったほど。

しかし、唯一の武器を持っていた。

デビューから2年後、ジュニア黄金期に陰りを見せた中、ひっそりと日本テレビ『真夜中の嵐』という深夜番組を手に入れて、スタートさせていた。
同番組はタイトルを変えて『嵐の宿題くん』まで約9年間続き、スペシャル特番では理科の実験の内容が好評を経て、番組終了後も様々な反響があり、後にチャリティーイベント『嵐のワクワク学校』にも影響を与えている。

しかし、グループとしての活躍はいまいちだった。

転機が訪れたのは、2004年の24時間テレビに初参加した翌年からの事だった。
秋に放送された『花より男子』が大反響を呼び、その主演だった松本潤さんが脚光を浴びる形となった。
それからは、映画『硫黄島からの手紙』に出演した二宮和也さんが、同映画での演技力を買われ、注目を浴びる。
また、一足先に出演していた『天才!志村どうぶつ園』で動物と体当たりロケをしていた相葉雅紀さん、ニュース番組『NEWS ZERO』でジャニーズ初のニュースキャスターとなった櫻井翔さん、少し遅れて金曜ドラマ『魔王』でGP帯初主演を果たす嵐のリーダー大野智さんの舞台で担ってきた演技力に注目を浴びるなど、個々の活動が華々しく見せ始めた。

そんな中、『花より男子2』の主題歌『Love so sweet』は、ドラマと共に大ヒットとより、嵐というグループ活動に火をつけた。

2008年のTBS系列『ひみつの嵐ちゃん』の放送が開始すると、『VS嵐』や『嵐にしやがれ』と冠番組が一斉にスタートする。

代表番組の開始と共に、次々と発表していくCDは、オリコンチャート1位の常連となり、年間ランキングでも1位を獲得するなど、様々な賞を受賞、日本の音楽史・芸能史の記録を次々と塗り替え、栄冠に輝き続ける。

もはや嵐に敵はなしの状態と思われた。

だが、K-POPの人気、後に巨大化するEXILEグループの面々が頭角を現し、女性アイドルグループAKB48と競い合うように、一つのエンターテイメント時代を築き上げた。

夢の東京オリンピック

2013年、2020年東京オリンピックが決まった時、ジャニー喜多川氏の夢はさらに膨らんだはずだ。
東京オリンピックをジャニーズ一色にして、さらなるエンターテイメントの向上を求めていた事だろう。

勿論、その中心は誰しもが嵐だと思っていた。

だが、夢のままに終わった。

エンターテイメントの世界どころか、全世界、全人類を震撼させ、恐怖のどん底に陥れる事になる新型コロナウイルス感染拡大の影響で、東京オリンピックは延期となって、2021年に無事に、とは言い難いが開催されたことになる。
そして、エンターテイメントの世界にも未だ影響を与えていることを知らないまま、ジャニーズ帝国を作り上げてきたジャニー喜多川氏は、この世を去った。

もし、生きていたら、我々に夢や希望を、エンターテイメントを通して、どのように与えてくれていただろうか。

そして、東京オリンピックの顔になるはずだった嵐は、延期となった東京オリンピック開催を前に、芸能界の限界を感じたのだろうか、グループの活動を休止した。

嵐にとって、2019年に活動休止を発表して、残りの約2年間でファンとの交流をさらに深めようとしていたが、思わぬ悲劇が襲って、悔しい幕の閉じ方をしたことだろう。

活動再開がいつになるのか、定かではないが、グループとしての活動を一休みしている間、個々で活動を続ける彼らは、また新たな何かを得るに違いない。

その時、ジャニーズの歴史が、また動き出すだろう。

国民的グループの解散!そして、放たれるジャニーズ

後にも先にもない程の日本が誇る国民的アイドルグループだったSMAPの解散がついにやってきた!

当時の国民、世界に多大な衝撃を与えたに違いない。

これまで多くの男性アイドルを育て、世に送り出し、デビューしては解散というアイドルとしての平均寿命があった。

しかし、SMAPだけは違った。
踊りながら歌う。
これまでのアイドルの概念を変えた。

上記でも紹介したが、日本のバブル時代にローラースケートを履いたアイドル『光GENJI』の大活躍の裏で、デビューを果たしたSMAP。

これまでのジャニーズ所属グループと違って、売れないアイドルだった。

何にせよ、『ザ・ベストテン』など多くの音楽番組が相次いで終了し、残ったのは始まったばかりの音楽番組で、今も尚続く『ミュージックステーション』ぐらいとなって、活躍の場が失った状態で、キラキラに輝くアイドルとは裏腹に、彼らの現実は暗かった。

しかし、バラエティ番組の進出でコントをしたり、体当たりなロケを決行したり、当時の視聴者を驚かせ、冠番組を持ってからは、グループとしてだけでなく、個々の活躍が目立ち始める。
司会者、あるいは月9主演俳優、あるいはキャラクターになりきる者、バラエティ番組へと出演、ソロ曲の発表……。
個々が持つ武器を、それぞれのフィールドで発揮していく。

いつの間にか30歳を超えたアイドルが生まれていた。

誰も手の届かないところまで成長し続け、ジャニーズ事務所の中でも特別扱いを受け始める。
ジャニーズと言えば、ダンス。ジャニーズのバックダンサーは基本、ジャニーズジュニアが担当するもの。
しかし、SMAPのコンサートでも見られるように、バックダンサーは後輩たちではなく、外部からのプロダンサーたちが彼らのステージを盛り上げていた。

それからも、SMAPを追うように生まれた後輩たちの活躍は、彼らが開拓した道を辿ることになる。

SMAPがデビューした頃の年に産声を上げたHey!Say!JUMPたちの登場を思うと、すでにアイドルの平均寿命は過ぎていた。

そして、40歳を過ぎたメンバーがいる中、

ついにジャニーズ事務所の歴史が動き始めた。

SMAPの解散。

奇しくも解散発表の日が、後にメリー喜多川氏の命日になるとは誰を思わなかっただろう。

突然の発表で、彼らの冠番組の生放送での解散報告は、公開処刑などと批判を浴びる事になった。

また、解散の理由がマネージャーと副社長の関係に亀裂が入った事で空中分解したという週刊誌などの記事が公表され、連日、ワイドショーで賑わせた。

しかし、25年乃至は28年間アイドルとして走り続けてきた功績は、ジャニーズ事務所に留まらず、日本の芸能界の歴史の一ページとなっている。



そして、第二のジュニア黄金期の到来!!

SMAPが解散される数年前に、遡る。

Ya-Ya-yahの登場以降、ジャニーズjr.の活躍はそれほど目立たず、
Ya-Ya-yahのメンバーから薮宏太氏、八乙女光氏が抜擢され、ジャニーズ事務所初のメンバー全員が生成生まれというキャッチ―なコピーでHey!Say!JUMPがデビューを果たす。

そして、日本はかつてないほどの災害に見舞われる。
東日本大震災だ。
大地震、大津波、原発事故……。
日本中が不安と恐怖の渦中にあった、2011年。
エンターテイメントの力で日本に光を射すようにデビューしたのが、長年ジャニーズジュニア内のグループで活動を続けてきた『Kis-My-Ft2』だ。

続く『Sexy Zone』のデビュー、翌年には『A.B.C-Z』がジャニーズ初のDVDでのデビュー。

SMAPが解散される数年前より、徐々にジャニーズジュニアの
活躍の場は民放のテレビ局から衛星放送へと広がる。

BSスカパー番組『ジャニーズJr.ランド』。
出演者の中には、後にSexy Zoneとしてデビューを果たすメンバーの中島健人さん、菊池風磨さん、佐藤勝利さん、松島聡さん、マリウス葉さん、をはじめ、king&Princeとしてデビューを果たす岸優太さん、神宮寺勇太さん、など今思えば第一ジュニア黄金期のメンバーと比較できないほどの面々が出演していた。
そのほか、第一ジュニア黄金期の末期に登場したYa-Ya-yahの冠番組の後継番組『ヤンヤンJUMP』の出演、『百識王』、『ガムシャラ』など、今やSnowManやSixTONES、king&Princeの面々を輩出する事になるジュニア番組が放送されていた。

第二のジュニア黄金期は、西からもやって来た!

関西で活動する関西ジャニーズJrだ。
言うまでもないが、関ジャニ∞、ジャニーズWEST、今秋デビュー予定のなにわ男子の生みの聖地だ。

今も続くBSフジの番組『まいど!ジャーニ〜』。

同番組は、2012年の秋に始まった。

番組開始当初は、まだアドけない顔をした、しかし、今ほどじゃないがオーラを放していたking&Princeの平野紫耀さん、永瀬廉さんの姿があった。
ボケ担当なのに、二人の天然ぶりで司会業で突っ込み役となった当時の最年長・SnowManのメンバーである向井康二さん、今秋CDデビューが決まったなにわ男子の西畑大吾さん、大西流星さんがレギュラー出演していた。
もう一人いたが、ジャニーズ事務所を退所するも、現在は新たな夢となった美容師として活躍しているとのこと。

番組開始から1年を過ぎた頃、ジャニーズWESTがデビューを飾った。

そんな最中にもジャニーズジュニアは、後になにわ男子のメンバーであり、関西ジャニーズJrの西畑大吾さん、道枝駿佑さん、後にSixTONESのメンバーとしてデビューを果たした松村北斗さん、当時ジャニーズJrの長妻怜央さん(現在退所)など、各民放テレビ局の看板ドラマに続々と出演する。

第三のJr黄金期が到来!

そして、第二のJr黄金期を支えたジャニーズJrたちは、SixTONES、SnowMan、king&Princeとしてデビューを果たし、今、第三のジュニア黄金期が到来している。
連続ドラマで全員が主演を務める美  少年をはじめ、Travis Japan、HiHi Jets、東京B少年など多くの活躍を見せています。

歌って踊るだけの時代はとうに過ぎ去り、個々の得意技や資格、楽器、作詞作曲など武器に、活躍の場を広げています、

そして、何より、活躍の場が大きく変わったのが、YouTubeだ。
自ら企画を考えて発信する能力は、現在の若手クリエイターのように、自分乃至はグループを自分たちでプロデュースする力が補っています、

個々の活動でも映画の主演をすたり、バラエティでの活躍、クイズ番組での活躍を見せており、いつデビューするのか期待されております。

西にはも強烈なクループがいます。

関ジャニ∞の横山裕氏と大倉忠義氏がジャニー喜多川氏を手助けるために、関西のジャニーズジュニアをプロデュースする事になった。

『なにわ男子』をはじめ、『Aぇ! group』、『Lil かんさい』の三組をプロデュースした。

既に朝ドラに出演して演技を評価された大畑大悟氏、次いで正門良規氏、ドラマや映画に出演して見る見るうちに演技力を伸ばしていく道枝駿佑氏、木曜劇場に大倉氏と共演した末澤誠也氏 など活躍の場を常に広げている彼らたち。

king&Princeの平野紫耀主演金曜ドラマ『花のち晴れ〜花男 Next Season〜』の主題歌『シンデレラガール』は、ジェットコースター級の大ヒットを飛ばした。
それぞれのメンバーにも個性あふれ、超天然もの、ボーっとしているようで漫画家だったり、おバカキャラでバラエティに進出、ドラマ出演を機にドラマや映画のキャスティングが増えるものなど。


そして、気になるは次のデビュー組だ。

東西どのグループがデビューを飾ってもおかしくない中、今秋にデビューが決まったのは、西からのグルー『なにわ男子』だった。

ジャニーズジュニアの改革が始まった

昨今、デビューしていないジュニアたちも、活躍の場が広がり、華々しい躍動を見せている。

ただ、一つ。

Jrの年齢層が高くなってきた。

何故なら、Jrの年齢に制限がなかったからだ。

ジャニー喜多川氏やメリー喜多川氏が、この世を去った今、第一のJr黄金期を支えたタッキーこと滝沢秀明氏が、Jrの育成に取り組む。

そして、Jrの年齢制限が導入された。
これまで、CDデビューや公式サイトにプロフィールが掲載される事で晴れてJrを卒業した証となっていたが、
今年の年明けに22歳を上限に設け、満22歳に達した年の年度末にジャニーズ事務所との合意が至らなかった場合は、ジャニーズJrの活動を終了する。
これは、大事な時期に芸能活動をするか、一般の社会人として生きていくかの選択肢を与えられた事による。

事務所へ所属する為の契約書あるはずなのだが、その契約を知らなかったジャニーズJrたちは、突然突きつけられた契約書の中身に反発するジュニアもいたそうだ。
当然、活動方針が合わなければ、事務所を対処していくしかない。

ジャニーズジュニア内でグループが既に退所にて、新たなグループとして活動している者もいる、

SMAPの解散頃に、東海地区から頭角を現したBOYS AND MENの存在が、影響されているのか。

ジャニーズ事務所の何が凄かったのか!?

それはテレビ局との密な関係である。

かつて、ジャニーズ事務所からCDデビューを掴む為に、直向きにレッスンに取り組むジャニーズJr.のレッスン場所が、旧・テレ朝にあった。

それが故に今も尚続く長寿音楽番組となっているタモリさん司会の『ミュージックステーション』の放送開始にあたり、毎週回ジャニーズ事務所の所属タレントを出演させる事を条件に始まったとされている。

その為、デビュー当時、アイドル路線であったw-inds.など、ジャニーズ事務所所属タレント以外の男性アイドルの出演がなかった。
これにはジャニーズの圧力と批判されてきた。
今となってはテレビ局の忖度だったのか、
それとも、番組として同じようなアイドルを別々の事務所から2組も出演させる必要もなかったからだろうか。
その当時に、昨今、大活躍しているLDH所属グループの面々がいたら、まず活躍の場はなかっただろう。


ジャニーズと学園ドラマ


長年続い伝説の学園ドラマ『3年B組 金八先生』。

学園ドラマの生徒と言えば、必ずと言っていいほど3人ほどはジャニーズ事務所から出演している。

当初、金曜日の8時は激戦区で『太陽にほえろ』の放送もあって、あまり期待もされず、金曜の8時にするんだから『金八』でいいんじゃない。という、軽い感じで付けられたタイトル、
当時は、海援隊としてそれほどだったボーカリストの武田鉄矢を起用することになり、周囲からどころか制作人にも期待は薄れていく一方だったことだろう。
そんな中、オーディション締め切り間近にやってきたジャニーズ事務所から、既に内定していた生徒は降ろされ、うちのタレントを起用して欲しいと懇願、売り込みにきたのだ。
後に、たのきんトリオとして一世を風靡するわけだが。

現在に至るまでの他の学園ドラマも、生徒に複数人のジャニーズ事務所所属タレントが起用されているという定番の原点でもある。

ジャニーズとバレーボール

V6から始まったバレーボールのイメージキャラクターも、テレビ局との密な関係があったからだろう。
バレーボールのワールドカップ大会の試合がテレビで放送されるのだが、
何が凄いのか、名も顔も知らないアイドルたちが、いきなりイメージキャラクターとして起用され、そのイメージキャラクターとしてテーマソングを歌うのがデビュー曲なのだ。
ほかの事務所では絶対にできない事だろう。
それから、しばらくは恒例のように『バレーボール ワールドカップ大会』放送のイメージキャラクターとして、ジャニーズのデビューきっかけとなっていく。


しかしながら、野球チームから始まったジャニーズなのに、甲子園ではなく何故、バレーボールだったのか個人的見解として思う。

ジャニーズとチャリティー        

夏の恒例番組となっている日本テレビ系列『24時間テレビ』にジャニーズが初めて参加したのが1995年の第18回目からだ。その時、参加したのがSMAPだ。以降は、97年のキンキキッズ、98年のTOKIO、00年のV6、そして03年、二回目のTOKIO以降はジャニーズのタレントがメインを務めている。

チャリティーの参加は、24時間テレビに留まらず、阪神・淡路大震災へのチャリティー活動の一環として生まれたTOKIO、Ⅴ6、キンキキッズの三組からなるJ-FRIENDSのグループ。
その後も、ジャニーズ事務所は東日本大震災をきっかけにSMAPや嵐を中心に、募金活動やチャリティーイベントへの参加、主催を行ってきた。
現在も、コロナ時代の中で奮闘する医療従事者へのエールを込めた動画の配信や感染対策の呼び掛けなど積極的に活動を行っている。


まとめ


ジャニーズの歴史として、これまでには様々な事柄があった。

それも、SMAPの解散以降、目まぐるしく変わっていく社会の中、頭角を現すジャニーズ事務所以外の男性アイドルたち。

SMAP解散の衝撃と同時期に音楽業界で衝撃を与えたのが、東海から生まれたBOYS AND MENのメジャーシングル2作目となる『BOYMEN NINJA』のオリコンチャート1位を獲得したことだ。

それからもD‐BOYS、スターダストプロモーションのエビダン。

これまでジャニーズ以外の男性アイドルは、ジャニーズの勢力、圧力によって大きく目立つことが出来なかったとされていた。
しかし、芸能界の圧力や忖度は、SNS時代の到来で、ファンや一般人が勢力を持ち、ジャニーズ帝国を真っ裸にした。

これまで芸能界の古臭い考えにしがみ付いていた。
いや、アイドルとしての地位を守ってきたジャニーズ事務所が、SMAP解散と同時にネットやSNSの恐怖を覚え、ついに肖像権管理に手を付ける。
ドラマや映画の記者会見、舞台あいさつに何故がジャニーズタレントだけ映ってないという不気味さがあったが、映画『羊の木』で主演を果たした錦戸亮さんが行った同作の記者会見の様子が切り取られた写真がネットニュースに掲載するなど肖像権の保護を緩和した。

そして、これまで禁止とされてきたSNSの解禁が始まり、
Twitter、Instagram、そして、YouTubeでジャニーズ専門のチャンネルなどを開設。
これは紛れもなくネットメディアを最大限生かしたSMAP解散後の元メンバー草彅剛さん、稲垣吾郎さん、香取慎吾さんからなる新しい地図の影響を大きく受けているだろう。

これまで報じられてきたジャニーズ帝国の数々は、嘘か本当か、定かではない。
この記事も、私個人の見解が入っています。
しかしながら、『ウェストサイドストーリー』に感銘を受け、ファンに夢と希望、勇気を与え、日本で世界のエンターテイメントを作り上げてきたジャニー喜多川氏、そして、裏で支えてきたメリー喜多川氏のこれまでの功績は、決して軽いものではなく、真実であるという事。
コロナ時代という新時代に、かつてないほどエンターテイメントの価値が問われている中、ジャニー喜多川氏のプロデュース力を受け継ぐ形となった滝沢秀明氏と藤島ジュリー景子氏が、再び、エンターテイメントの価値を作り上げていく。
そして、未来に、見た事がない新たなエンターテイメントが見られることを願うばかりだ。
完了。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?