6/28 疫病日記

2020年5月に書いたものを加筆修正しました。


コロナで人通りが少なくなった。
夜の街は本当に静かになった。普段は気にならない車の音って、じつはあんなに五月蝿くて、なくなると町はこんなにも静かだった。

夜の街を徘徊する。
小さなアパート、家族が住む戸建て、その窓から漏れでる光ひとつひとつに「ああここにも家庭がある、命がある」と納得させられて心細かった。

私という存在がどこまでも小さくなる。

部屋の光は、そこに生活があるのだ。
私が経験した家族生活のようなものが、きっとかたちを変えて様々にその光のもとで行われている。
あかりひとつひとつに生活物語がある。
私が経験した人生の分の物語が、そこに透き通って見える。

そういうことに気づいてしまえば、あかりひとつ、あかりひとつ、と見とれていけば、まずその多さに絶望する。
あまりにも生活がたくさんある。壁に区切られて生活が無限にある。
いや、無限ではない、日本では1億という数字が上限である。

しかしもうあかりの意味と生活の規模と感覚を理解している。1億の「私」がいる。その視点で見れば1億という数字すら絶望的な意味を持つことに気づく。
人が多い。人が多い。

ゼミにいる20人のうちの1人ではなく、大学の2万人のうちの1人ではなく、1億という数値の中の1人であることは、私の矮小さを際立たせる。
そして、わたしのようなちっぽけな人間ですら押し潰されそうになっている「苦痛」が1億人分存在しうることに気が狂いそうになる。

「1億人」のうちの大抵の人は、それら「苦痛」に傷つかず、またはそもそも感じずに過ごしている。凄いよ。私にその手法を教えて欲しい。

薬を飲まずとも訪れるようになった眠る夜は、しかしながら4時間程度で覚醒してしまう。
現実に襲われている。
眠りにすら逃げられない。

しかし現実とも戦う気もない。

みんなが息を潜めて閉じこもり、寝ている街を散歩し、それら光の苦痛に思いを馳せながら、1/1億にすぎない私の苦痛を労る。
生きている。ありふれた生活を生きている。

朝日が昇る直前、空が白む頃。
自宅の扉を開ける私は汗をかいていた。頓服薬で無理やり寝るまえにシャワーを浴びなければいけない、そんなことに1億人へ訪れるありふれた夏を感じた。

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