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花のかげ~第4章 瓦解(6)

六.急速な衰え

 母の次の受診は十一月九日になった。その日は私もちょうど休みになっていたので母を病院に連れていくことができるのが幸いだった。
 ただこのころから少しずつだが明らかに母の認知症は加速していた。
 家の中ですら車いすで移動しているくらいなのに、デイサービスからは一人で歩いて帰ってきたと言って譲らないことが何度もあった。
「その気になれば私だってそのくらいやれるんだよ」
と少し顔をこわばらせて言うかと思えば、
「今日はね、帰りのバスの中で外を見ていたら、村山夫妻が私の方を見て手を振ってくれていたんだよね」
と嬉しそうに言うこともあった。村山夫妻とは母の弟夫婦のことである。ありえないのだが、否定はしないでいた。だが私の表情から私が信じていないということを母は敏感に察知したようだ。
 ソファーに座りながら母は
「あんたたちは私の言うことをいちいちおかしいって思うかもしれないけど、事実なんだからしょうがない」
と独り言のようにぶつぶつ言っていた。母にとってはすべてが事実であり、真実なのである。これを否定してしまうのは残酷でしかない。だから私も妻も言葉に出して否定することはしないでいた。もはや完全な認知症の状態なのである。
 とはいえ、母の場合はまだ認知症のスイッチが入ったり切れたりするような状態だったと言ってもいい。私のことも妻のことも息子のこともきちんと認識できていたし、時折噂できくことのある紙パンツを食べてしまうような症状を見せることは一度もなかった。夜中にトイレに起きることは相変わらずあったのだが、その回数は以前に比べて減ってきていた。紙パンツにしてしまうことにそれほど抵抗はなくなっていたのだろう。
 ただ朝になるといろいろと苦労があった。やはり着替えのために起こすことは妻一人ではできなくなっていた。私が朝は六時少し前に家を出なくてはならないので、寝ている母には申し訳ないと思いつつ紙パンツの交換だけはやっていくことにしていた。そして着替えの時は息子の力を借りるようになっていた。そのため、
「お願いね」
と母は私の息子、つまり孫に向かって少し甘えたような口調でサポートをお願いするようになっていた。やはり自分の面倒を見てくれる人に対しては不義理を働けないと思っているのだろう。
 だが入浴だけはさすがに危険を伴うためデイサービスの方で済ませてきてほしいと思っていたのだが、予定されていた入浴日に入浴を拒否することは多かった。それならばと、母が歯磨きをしようとするときにこちらが二人がかりで自宅の風呂に入れようとすると、それもまた嫌がった。あまり言うのもよくないと思って、自分でやろうとしていた歯磨きでいいと言うと、それも面白くないのか拗ねてしまうことがあった。もうそうなったらどうしようもないので放っておくしかない。すると何ごともなかったかのように歯磨きに向かうわけである(もちろん私か妻のサポート付きで)。
 認知症が加速していくといろいろなことが起こることは予想していたわけだが、私も妻もこのあたりがそろそろ限界なのではないかと思い始めていた。コロナのこともあって私も通常勤務よりも一時間ほど早く職場を出ることができることがあったし、妻もリモート・ワークではある。だが認知症が進んでくると仕事に支障がどうしてもでてしまう。私も仕事中に母のことが気になって仕方がないことがどんどん増えていった。肉体的な疲れもある。そろそろ限界が近いのかもしれない。ショートステイをなるべく少なくしてここまで乗り切ってきたものの、そろそろショートとは言えないくらいの期間施設にステイする必要もあるのかもしれないと思うようになっていた。
 そういう時に重なるものは重なるもので、姉たちが母に会いに来たいと言い出していた。正直姉には母に会ってもらいたいという気持ちもある。姉も姑の介護を長らくしていることもあるし、コロナのこともあっていろいろと準備が必要なのもわかる。タイミングをはかるのは困難なのだ。「点滴の時に病院で会うのでもいいから」という姉の申し出に妻もそれでいいと言っていたのだが、タイミング的に難しかったのだろう。だがこちらも疲労のピークに来ているわけで、十一月の一日に来たいという申し出には正直のところ少し気が乗らないところもあった。だがそんなことは言っていられない。妻が遠慮しているのではないかという姉の問いに「自分たちも少し限界に近い」という言い方はしたものの、来ることを拒みはしないという言い方で返答はしていた。これをどう受け取ったのかはわからないが、それが後々禍根のようなものを残すことになってしまう。
 だがその日は横浜に住む姉の娘、つまり私にとっての姪、母にとっての孫がやってくることになっていた。常々会いたいと言っていたので、ようやくそれがかなうことになる。別にこちらが強硬に断っていたわけではないのだが、どうしてもタイミングが合わないでここまで来てしまったわけである。その「タイミングが合わない」ということも向こうがどう解釈しているかはわからないにしても、私にとっての姪が母と会えるというのは悪いことではない。
 その日に姪が来るのを私たちは母には黙っていた。と言うのも、言ってしまったが最後、十分ないし五分おきにまだかまだかと言われるのはたまらない。サプライズのような形にはなってしまうのだが、これは致し方ないことだろう。
 母にとっての孫との再会は驚きと喜びの瞬間でもあった。
「なに、どうしたのぉ」
と母が驚きの声を上げた。
「ばあちゃん、どぉ?」
と言われると、母はいくぶん自虐的に、
「ご覧の通りです」
と笑いながら言った。
 そのあとのことは私は二階で仕事をしていたのでよくわからない。だが二人で写メを撮ったりいろいろ話をしたりして楽しい時を過ごしたようだった。
 姪を妻が駅まで送って行って、その車の中で交わされた言葉がまた誤解のもとになったようだが、それはここでは触れないでおくことにしよう。どうしても私と姉の間には誤解しか生まれないようだ。どちらが悪いということではない。ただ分かり合えないというのはなかなか困ったものだ。
 そして母の急激な衰えは、姪が訪れた日の二日後から始まった。
まず視野がかなり狭まっていた。食卓で私が右側に直角に座って母の食事をずっとサポートしてきた(私がいない時は妻がサポートした)わけだが、私に取り分けられたものに箸を伸ばすことはこれまでも頻繁にあった。言えばそれを修正することはそれほど難しいことではなかったのだが、ここにきてそれがかなりエスカレートしてきたのだ。左側はほとんど見えていないのではないかというほどに視野が狭まっているようなところがあった。同じ病気で同じような手術をした人の例については前に述べた通りなのだが、それにしてはあまりにもひどい。ひょっとすると左目はまったく見えていないのではないかと思えるほどである。
 寝るためにベッドに移動させようと立ち上がらせ、両手を引いて歩きだすと、母は右側の方に向かって真横を見ていた。
「まっすぐ前を見て」
と言っても、母にとってはそれがまっすぐ前を見ていることであるわけだから、きょとんとした表情をする。「真横を向いている」と言っても「そうなのかい」と言ってあまり信じようとしないのである。それは車いすに乗って移動する場合もだいたい同じように真横を向くようになってきた。
 極めつけは立つときの動作である。ソファーに座った状態から車いすに移動するとき、あるいは車いすからベッドに移動するとき、トイレの便座へ、あるいは便座から移動するとき、どうしても一時的に母を立ち上がらせる必要がある。これまでは母に腕を私の首に回してもらって、私が腋から抱え上げるようにして立たせていた。だがその状態に至れない。座った状態で膝を伸ばしてしまうわけだ。だから当然足の裏が床から離れて宙に浮いた状態になる。そこから立ち上がらせるのは至難の業になってしまう。私も妻もあまり腰が強い方ではないので、これではどうにもならない。
 この膝を伸ばしてしまうというのは、五月ごろに母が立ち上がった時に膝が曲がっていたことから、
「立った時は膝をなるべく伸ばした方がいい」
と私が言っていたことが残像のようになっていたのかもしれない。
「どうやって立つんだっけ」
と母が言った時、私と妻は顔を見合わせてしまった。立ち方を忘れてしまったのだ。
「スキーのジャンプってわかる? 飛ぶ直前の姿勢だよ」
と言うとなんとなく理解したようで、膝を曲げて足の裏を床につけてくれた。
「そうそう、それでいいよ。じゃぁジャンプだ」
と言って抱え上げるようにして立ち上がらせることに成功した。こうなると、デイサービスに行くのもかなり困難になりそうだった。
 また、私が帰宅したときのこと。その日は私の帰りも少し遅くなり、私以外の三人はすでに食事をすませていた。私が母の向かい側に座って食事を始めると、テーブルの上のゴミを右手で集めた母が、私が食べるサラダに入れようとするのである。
「それはダメだよ」
と言って払いのけると、
「よく見てるねぇ」
と悪びれもせずにいった。ただのいたずらではない。それが何なのか、今もって理由はわかっていない。
 加えて、そのころから母は背中が痛いと言っては顔をしかめるようになっていた。
「痛い、痛い!」
と叫ぶのだが、どこが痛いのか今一つはっきりしない。だが痛がり方はうそではないようだった。そうなると動かせなくなってしまう。デイサービスから戻ってきてリビングに移動させるまでの間に床に寝た状態になってしまい、そこから妻も息子も移動させることができなくなってしまって私が帰宅するのを待っていたことがある。寒さを訴えることの多い母だったので、体の上に毛布などをかけて体を冷やさないようにして私の帰宅を待つしかなかったのだ。とにかく移動させないといけないわけだから、痛いのを我慢してもらいながらなんとかリビングに連れて行ってソファーに座らせることに成功した時には私も疲労困憊となっていた。
 声がかすれるようになってきたのも、だいたいこのあたりではなかったか。母の弟、つまり私の叔父と電話で話す時も、かすれた声で、
「大丈夫だよ、うん、大丈夫」
というのが精いっぱいになっていた。
 このころになると、母はソファーに座っていても目を閉じて眠っていることが増えた。デイサービスに行かない日であってもそれは変わらなかった。一度、ソファーに座っている母に目をやったときに、目を閉じている母の口角が著しく下がっていることに気づいた。もともと母は母親似かと思っていた。母が持っていた祖母の遺影を見ると、年々その顔が似てきていると思ったものだ。だがこの日は違った。口元だけに限って言えば、明らかに祖父、つまり母の父に似ていたのだ。これには驚いた。
 三月に、母の携帯の中にあった祖父母二人が映る画像をプリントアウトできないかと頼まれてやってみたことがある。祖父が笑っているところの写真というものが極端に少ないらしく、珍しくあったその写真を母が携帯のカメラを使って撮っていたのだった。その時の祖父の顔は笑ってはいたのだが、顔の作りからなのか口角は下がっているように見え、はやり母は祖母の方に似ていると思ったものだ。
 だが完全に口角が下がってしまった母の顔は、祖母ではなく祖父の方に驚くほどに似ていたのである。それ自体別に悪いことでもなんでもないのだが、顔が変わってくるというのはどうなのかと思えてしまった。
 十一月九日の受診ではそれらを言わなければならない。だがこれほど受診の日までが長く感じたことはなかった。

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