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花のかげ~第2章 動き出す(6)

六.退院と機能障害

 夜が明け、午前中に母から電話が入った。昨夜とはうって変わって元気そうな声であることに拍子抜けするような思いだったが、「もうダメ」「死ぬ」と言っていたことはまったく覚えていないということだった。やはり看護師の言う「反応熱」というのが正しかったことになる。脳の中に手を入れたわけだから、熱が出ない方がおかしいわけだが、それにしてもあまりの変わりように戸惑うしかなかった。
 私を戸惑わせることがもう一つ起こった。午後になって電話が入り、
「退院してもいいんだって。今川先生がそう言うんだよ」
とうれしそうな声で母が言うではないか。これも譫妄の一種なのではないかと疑ったのだが、そうではないことはその次の瞬間に今川医師に電話を替わったことではっきりした。その日は五月一日、要は連休中である。連休中はリハビリもないので、病院にいる意味が無いということらしい。それにしても二十八日に手術をして、五月一日に退院してもいいと言われるのだから、今は本当に入院期間が短いことに驚かされる。私が入院していた一ヶ月という期間はいったいなんだったのだろうと思わざるを得ない(もっとも私の場合は、強い薬を入れた後、その薬を抜くために二週間が必要だった)。あれだけの手術をして数日で退院ということに違和感と不安が入り交じったような思いだったが、もう少し入院していたらと言うこともできないわけで、次の日に私たちが迎えに行く青写真が母の頭の中にはもうできあがっていた。
ただ、電話で母の声はよく聞こえるのだが、母には私の声が全然聞こえていないことがあるようで、
「なんだか全然聞こえない」
とたびたびいうことがあった。そのたびにこちらも声を張り上げるのだが、どういうことなのか、その時はわからなかった。
 次の日は午前九時半に病院に迎えに行った。頭の右側には大きなガーゼがあてられ、それを押さえるためにネットを被っていた。差額なしの病室に入っていたはずが、迎えに行くと差額ありの病室に変わっていた。どうやら左の視野がだいぶ狭くなったようで、加えて左手が思うように動かないためにものをよくこぼすらしい。液体のものは特に深刻で、そのたびに看護師やヘルパーが大騒ぎしたと言っていた。
「私は問題児だったんだ」
と母は言っていたが、こぼすのはやむを得ない。そのたびに大騒ぎするというのも病院の対応としてどうなのかと少し疑問が残ったが、騒がざるを得なくなるほどのものだったということを知るのは少し後になってからである。
 病棟で消毒の仕方を教わり、薬を処方してもらってから帰宅すると、
「あぁ、やっと帰ってこられた」
と母は感激していた。「甘いものを食べたい」と言っていたので、あらかじめ用意しておいたどら焼きを四分の一ほど食べると満面の笑みで退院できたことを喜んだ。
 だがやはり左手と左脚の動きがどうもおかしい。加えて左目の視野が欠損しているようである。母からどこまで見えているのかをいろいろ聞いてみると、どうも左目の斜め下あたりの視野が、だいたい四分の一から三分の一ほど欠損しているようである。あとでネットで調べてみると、視野欠損は脳腫瘍の手術の後にはよくあることらしい。ただ人間の脳はかなり優秀であることが仇になるのか、その欠損している部分を脳が補完してしまうように働いてしまうようだ。例えば、池を見ていると、視界には池全体が映っているように見えるため視野欠損を意識することはないが、母の場合だと突然左の真ん中辺りに鯉が出現するようになるわけだ。動くものまでは補完できないようである。当然、街を歩けば突然人が出現するように感じるわけで、人とぶつかることも多くなるらしい。まずは家でのリハビリは慎重にしなければならないと感じた。
 その一方で聴覚には問題が無かった。電話が聞こえない理由もはっきりした。母は左手で携帯を持つわけだが、その左手がどんどん下に下がっていくのである。つまり耳から完全にはずれているわけだ。本人の話す声は電話機のマイクが拾っても相手の声は耳に当てないと聞こえないわけで、それが「聞こえない」と本人が訴える原因だったのだ。なるべく右手で電話を持つように言うと同時に、左手、左腕のリハビリが必要だと感じた。
 母は退院したことがよほどうれしかったのか、何カ所かに電話しては報告をしていた。そのたびに受話器が下がってしまい、私や妻が横で支えることがあった。
 左手、左腕の機能障害は、食事の時に一番現れた。「パンが食べたい」というので食パンを焼いて、妻が目玉焼きも用意してくれたわけだが、テーブルに置かれた目玉焼きがよく見えないらしく、箸でつかむこともなかなか難しい様子だった。食パンは妻が細く切ってくれていてそれを右手でつかむわけだが、食べかけを皿に置いてしまうと今度はそれが見えなくなって別のパンをつかもうとした。いちいちそれを指摘するのは本人にも酷だろうと思ったので、まずは食事の補助が必要だと考え、母が見えるところに極力置くようにこころがけた。箸でつかんだものもすぐ落としてしまうので、皿を私が手で持ってなるべく口に近づけておくようにした。幸いというべきか私は利き手がはっきりしない人間である。字は右で書くが箸は左手で持つ。初めて手にする方が利き手になるという変なところがあるので、母の食事を介助しながら自分も食事をとるという、自分で言うのもなんだが器用なやりかたで介助した。
 ここまで補助をしてようやく食べられるわけだが、そこから考えるに病院ではほとんど食べられていなかったのではないかと思ってしまう。常に空腹の状態で、何か落としたりこぼしたりするたびに騒がれるわけだから、病院生活はさぞかしストレスが溜まることだっただろう。そんな入院生活を想像すると母のことがとても不憫に思えた。せめて見舞いに行けて何か食べさせてあげられていれば少しは違っただろうにと思えてしまった。
 その後は穏やかな日々をしばらく過ごすことになる。ただ手術をして一週間も経たずに退院してきたわけであるから、私も妻もいろいろな点で心配な点があった。とにかく転倒は避けなければならない。「自重は支えられない」という今川医師の言葉が重くのしかかった。まずは体力を回復させる必要があるわけだが、食欲が旺盛なのはよいとして、足取りに関してはしっかりしている日もあればふらつく日もあった。食べていることによって徐々に体力を取り戻しているようだが、気がつくと眠っていることが多かった。
 携帯音楽プレーヤーをなくしてしまってからというもの母は音楽にだいぶ飢えていたようで、私の家にあるブルートゥースのスピーカーと私の携帯音楽プレーヤーを使って音楽をよく聴いた。私は母が好むクラシックはほとんど聴かないのだが、ジャズやニューエイジといった歌のない音楽を好むところがあったため、母の好みとまったくズレているということが無かったのは幸いであった。オーボエ奏者の宮本文昭のアルバムはすべてプレーヤーに入っていたし、少ないながらも映画音楽やクラシックの小品といったものをかけてあげると穏やかな様子で眠りに就くことが多かった。夜寝る時も必ず音楽を小さな音量でかけていて、夜中に私が止めることが多かった。そういえば溝口肇というチェリストは、交通事故にあって首を痛めてからは、「安らかに眠りにつけるような音楽」を創ろうとしているらしい。母にとっての音楽は、まさに「安らかに眠りにつける」ものだったわけだ。
 母が退院してからというもの、私もリビングに布団を持ってきて、母が夜中に起きても対応できるようにしていたわけだが、慣れないところで寝ているせいか、私の眠りも浅かった。ちょっとした物音ですぐに目が覚めてしまうのである。私の眠りが浅い日々は、その後長く続くことになる。

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