花のかげ~第2章 動き出す(5)

五.手術後の混乱

 通常ICUに入っているのがどのくらいの期間なのかはわからないが、妻が手術したときもICUに入っていたのは一日だけで、次の日には一般病棟に移されていた。もっとも妻の時はICUのベッドが柔らかくて腰が痛くてしかたがなかったため自分から病棟に移してほしいとお願いしたという経緯があった。母の場合はどうなるのかわからないでいたら、昼頃に病院のICUから電話がきた。十四時にICUから一般病棟へと移されると言う。やはりICUには長くは留め置かないのが今のやり方なのかもしれないし、その病院の方針なのかもしれない。確かに母の手術にしても、その前に四件も今川医師は手術をしているわけだから、仮にその全部がICUに入るとしても、他の診療科と合わせれば相当な数になってICUなどすぐにいっぱいになってしまう。だから安定したらすぐに病棟に移すというのも理解できる。ただその連絡もあくまで事務的な連絡でしかなく、母の様子を聞いても「大丈夫ですよ」のひと言で済まされ、詳しい様子はまったくわからなかった。やはり面会が出来ない状態というのはやきもきさせられるものである。本来なら様子を見に行きたいところだが、それができないというのはなんともやるせない。とはいえ、それは総ての入院患者の家族にとって同じ状況であるため、受け入れるしかなかった。
 ところが夕方になって母から電話が入った。思っていたよりも普通の声であることに安心したし、電話をしようという気になれるだけでも驚きである。しかも母が手術をしたのは脳であるわけだから、なおさら驚いてしまう。
 電話口で具合を尋ねると、頭の痛みもなく気分は悪くないとのことだった。ただ昨日のことはほとんど覚えていないようで、手術が終わったのが十一時頃だと聞くとかなり驚いた様子だった。やはり脳をいじったわけだから、記憶が混乱するのも無理は無い。ただでさえ全身麻酔をしているわけだから、混乱がないほうが不自然なくらいである。
 翌、三十日の昼頃、また母から電話が入った。どうも寒いらしい。家から布団を持ってきてほしいというのだが、さすがに布団を持ち込むのは憚られる。看護師に頼むように言うのだが、どうも母は看護師とそりが合わないようだ。
「きつい看護師がいてねぇ」
と母はよくこぼしていた。確かに看護師にもいろいろいることは間違いない。私が入院した時であっても、立ち上がると両脚に激痛が走って動けない私に「上げ膳据え膳は一度やったらやめられないでしょう」と笑いながら言われて本気で怒ったことがある。とは言え家族の立場からすると、看護師の態度についていちいち文句を言っていたら後々面倒なことになりはしないかと考えてしまうものだ。
「あとねぇ、小さいラジオを持ってきてほしい」
と言われたのだが、これもまたやや難題だった。その時点ではまだ緊急事態宣言の最中で、どこも営業時間の短縮や入店制限があるわけだ。だが行ってみないとわからないわけでもあるので、とりあえず市内にある家電量販店へ向かった。
 予想通り家電量販店は入店制限がかかっていて、予約をしないと中に入れてもらえなかった。だがそこをなんとか頼み込み、買いたいものも決まっているわけなので真っ直ぐラジオを売っているところに行って乾電池で駆動する小さな携帯ラジオを入手することができた。
 それを病院に持って行ってはみたものの、やはり面会はさせてもらえなかった。寒さを訴えているので布団を追加してほしいこととラジオを届けてもらうことをお願いして病院を後にするしかなかった。
 だが十六時少し前に姉からメールが入り、「お母さんが『死ぬ』と言っている」と教えられた。私も動揺して病院に連絡すると、「反応熱」というものが出ているらしく、それがかなり高いとのことだった。手術した後に熱が出るというのはよく聞く話だが、どうやらそれらしい。しかし熱があると聞くと驚いてしまうものだ。「譫妄(せんもう)」という言葉が頭に浮かんだ。義父が入院中に高い熱を出して、譫妄状態に陥ったことがかつてあったから覚えているのだが、「死ぬ」というぶっそうな言葉もそれに起因しているのかもしれない。病棟に連絡してそのことを伝えると、
「それもあるかもしれませんので、注意して見ておきますね」
と言われるだけだった。その後も何度も電話が入り、
「最後にあんたに会いたい」
とまで言われてしまうと、どうにもできない無力感ばかりが募ってしまった。メールも入っていて、「ありがとう、さようなら」と書いてあった。これが譫妄で済めばいいと願いながら、とにかく我慢するしか無い状態が続いていた。
 その夜もほとんど眠れなかった。

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