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花のかげ~終章(4)

四.そしてそのとき

 年末にWeb面会をおこなったが、結局母はずっと眠っていて話すことはかなわなかった。今後こういうケースが増えてくるのかもしれない、と思うようになった。
 実をいうと、私自身、母が年内を持ちこたえるかどうかについては自信がなかった。早ければ年内にもその時は来てしまうのではないかという予測さえできてしまう様子だった。もっとも立川医師からの連絡は十二月五日を最後に来ておらず、病院での母の様子を詳細に知る手段はなかったため、定期的に行うWeb面会にしか頼れないのが実情だった。
 姉の方でもWeb面会をやっているらしいことはなんとなく伝わってきた。ここまでくるとそういうやり方でしか接点をもつことができないのは私も姉も同じである。後になってわかったことだが、ほぼ同数のWeb面会を私と姉で行っていたようである。
 この時期、もう退院してデイサービスへと復帰することはほぼないだろうことは予想がついたので、ここまでお世話になったデイサービスを妻と一緒に訪問して御礼をしている。
 ひまわりの郷では所長が不在だったために会うことはかなわなかったが、
「九月に入ってからちょっと苦しかったみたいですね」
ということを職員から教えられた。ここでの「苦しかった」というのは、認知が進んでいたということを意味していることを理解するまでにそれほど時間はかからなかった。
 母は目の前を職員が通ると、
「ほら、息子がいたでしょ」
というように、実際にそこにはいない人が見えていたということのようだ。確かにもう一つのデイサービスでなぜか私も働いていると思っていたようだったし、いないはずの人がいると認識する、見えないはずの人が見えるということは他にもいろいろと事例があったからだ。
 ただ唯一小松川園という十月から通い始めたデイサービスは母にはよかったようだ。食事もおいしかったようで、充実した時間を過ごせていたようだった。規模が大きく、ノウハウもしっかりしていたということだろうか。小松川園からはひまわりの郷で聞かれたようなことはほとんど聞かれなかった。
 もう一つのリハビリ施設は、母がずいぶんと職員の手を焼かせたところでもある。ただここでも担当してくれた人と話をしても、母の詳しい様子というものはなかなかつかめなかった。
 訪問介護のヘルパーである井上さんにも連絡したところ、わざわざ自宅まで足を運んでくれた。井上さんは「一番身近で世話をしてくれている人のことを悪く言い始める」と言っていたわけだが、母が私や妻のことを悪く言うことはついぞ無かったということを言っていた。新しい凡例を私たちはその訪問介護の業者に対して与えたことになるのだろうか。もっともこれは私たちというより妻の功績と言うべきであろう。
 同様に病院の秋本さんにも挨拶に行っている。秋本さんへの挨拶は母をふくやま病院に転院させたその日に行っていたわけだが、病棟に上がると、ナースステーションに行くまでもなく秋本さんが歩いてきて、秋本さんも私たちを見つけて驚いていた。転院したことを告げそれまでのサポートのことを感謝すると、秋本さんは恐縮しながら「一番いい選択をしたんだと思ってください」と言った。
 母が生きているうちにそういう行動をとることに批判はあるかもしれないが、やれることはやっておきたい、またお世話になるならその時はその時、という感じで私も妻も行動することにしていた。ケアマネージャーの嶋田さんにも電話を入れ、現状を伝えるとともにそれまでのサポートに礼を述べた。もし母がふくやま病院から別の施設へと移ることになった場合、また嶋田さんに相談するつもりでいた。
 そうこうするうちに年を越し、母は四日に八十一歳の誕生日を迎えた。予約の手続きが遅れてWeb面会をしたのは五日だったが、病室には「ハッピー・バースデー」という手作りのメッセージカードがかけてあった。看護師の粋な計らいということだろう。
 だがこの時になると、母は食事を摂れなくなっていた。点滴で栄養を補給するしかなくなっていて、姉が言うには前日もそうだったということで、もはや口から栄養を摂れなくなっていたわけである。
 だが経口で栄養を摂れなくなったからといってそれは死期が近づいているということを意味するわけではないようだ。点滴での栄養補給はアバスチンの点滴と同じように腕にしていた。これが肩から入れるようになるとかなり厳しいということは聞いたことがある。そういえば私が担任をした卒業生の父親が在学中に亡くなったことがあるが、存命中その父親が私に会いたいというので会いに行ったことがある。その時は肩から点滴を入れていて、その数日後に亡くなったことをから考えても肩から点滴を入れるようになると少し厳しくなるのであろう。だが母はそうではない。あまり悲観的になるのはよくないと考えることにした。
 口から栄養を摂れないことに加えて、母の意識の状態も気になった。この時になるともうしゃべることもせず、昏々と眠り続けていた。看護師が何度も名前を呼び掛けるものの、母は反応を示すことはなかった。ただあくまでのWeb面会の時にたまたま、ということでもあって、午前中は割と目を開けていることもあるようだった。ただ看護師は、
「以前よりも閉眼している時間がずっと増えましたね」
とも言っていた。そうなると次が予想されてしまう。だが考え出すときりがないので、あえてそこはあまり考えないようにすることにした。
 それから六日も私は振替休日をとっていて、新年の仕事始めは七日からだった。母のことでいろいろ相談に乗ってもらっていた養護教諭にあいさつにいくと、真っ先に母のことを尋ねられた。
「誕生日は迎えられました」
と言うと、彼女は満面の笑みで「よかったですねぇ」と言った。彼女の母親はすでに亡くなっており、生前私は一度だけお会いしたことがある。それは頼まれて彼女の実家のネットワーク設定をしに行った時のことだった。やはり病気で母親を亡くしている彼女は、私の気持ちを理解してくれる数少ない存在の一人だった。
 翌、八日は始業式の日だった。この日は授業が無く、私も新年の準備をすればいいだけになっていた。三年生の授業が二学期で終了しており、私の担当授業数はかなり減ったために、授業準備に追われていた二学期とは雲泥の差であったわけだが、次の日の一時間目の準備をし終え、先まわりして他にやっておくことがないかと考えながら昼食を摂っていた時に妻から電話がきた。
「立川先生から電話があって、どうもお母さんの具合が悪いらしの」
ということから、一気に緊張が高まった。よく見れると私の携帯にはふくやま病院からの着信があったようで、移動中かなにかで私はそれに気づかないでいたために自宅の方に連絡がいったわけである。
「今のうちに会っておいたほうがいいというのが立川先生の考えみたいなんだけど……」
という妻に、急いで帰宅することを告げ、職場にも次の日以降の授業の手配を頼んだ。幸い月曜日は祝日でお休み、火曜日は私の定休日、そうなると土曜日の一時間を凌げばあとは水曜日まで時間が稼げる。校長と教頭は私の状況を知っていたので、すぐ帰るようにと言ってくれた。
 駅に向かって歩く私の足取りは自然と速くなった。どうも焦りばかりが先行する。ふとした拍子につまづくことが何度かあった。こういう時というのは一度落ち着かなければと思っていたところに、勤務先の理事長とばったり出くわした。私の早退の理由を話すと、理事長も高齢の母親を介護していることもあり、すぐに事情を察してくれた。理事長は駅近くの喫煙所に立ち寄るところだったので、理事長に少し甘えてタバコをもらって一緒に吸いながら気持ちを落ち着けた。
 たかがタバコ一本ではあったが、それで少し落ち着いた私は、そこまで来たのよりやや遅いペースで駅まで歩いた。気持ちは不思議と落ち着いていた。ただどういうわけか何か考えようとしても頭の中には何も浮かんでこなかった。母のことも、仕事のことも、その後起こりうる展開のことも……。とにかく何も考えずただ無の状態で私は電車に乗っていたのだった。

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