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花のかげ~第2章 動き出す(8)

八.放射線治療

 外来受診は五月二十一日の午後になっていた。散歩のかいもあってか母の足取りはしっかりしてきており、若干ふらつくことがあるとはいえ機能回復は順調のように思われた。
 この日は私一人で母を病院に連れてきた。母は以前は把握していた病院の構造がまったく理解できなくなっていた。「こっちだっけ? 上だっけ? 下だっけ?」といちいちたずねながら私に手を引かれて脳外科までやってきた。
 今川医師の、
「せんせー、だぁれだ」
に対して、母が、
「イマガワせんせー」
と言うのがパターン化していた。そして放射線治療の予定が伝えられた。手術と放射線治療、抗がん剤治療はセットになっているようで、手術だけでは意味がないということであった。
 放射線の外来に通されて放射線科の医師と問診が行われた。「サイバーナイフ」という一点照射ではなく局所照射というやり方になるそうで、頭全体に放射線をあてるわけでもないようだった。
 放射線をあてると当然毛髪が抜けるわけで、母はそれを非常に気にしていた。ただでさえ白髪が増えていやだと言っていたのにそれすら抜けてしまうわけだから、抜けるとわかっている治療をするのは気が進まないのは理解できる。だからといってそれを理由に放射線治療をやらないというのもおかしな話である。母のそんな思いをよそに放射線治療の話はどんどんと決まっていった。
 入院は五月二十四日からに決まった。そのためCTで胸の写真を撮らなければならず、時間がすでに五時近かったために機械の電源が落とされていて、再起動させるまでにかなり待たされることになった。母からすればまた入院するのかという思いが強く、手術した後でいろいろこぼした際に看護師に騒がれたことが非常に悪い印象となっていた。そのことを今川医師に言っても、
「それは別の話だから」
で取り合ってもらえず、放射線科でCTの再起動を待つ間にそこにいる看護師を捕まえては管を巻くように話していた。結果的にそれは後日病棟にも伝わったようで、私があらためてそれを病棟の看護師に言うまでもなくなったのだが、根気強く話を聞いてくれたベテラン看護師には感謝しなければなるまい。
 CTが終わった後で、今川医師のところに戻って抜糸をした。やはり母は放射線をあてると頭髪が抜けるのかと今川医師に聞いていた。今川医師は、
「バサバサと抜けますよ」
とデリカシーの無い言い方をするのだが、これはこの医師のキャラクターなのだ。気にすることはないのだが、母の気持ちを和らげるために私が、
「先生、私なんて放射線あててないんですけど、頭髪がバサバサと抜けるんですよ。これはどうしたもんですかね」
と言うと、母は声を上げて笑った。今川医師も苦笑いしながら、「皮膚科に相談してみてください」と言うしかなかった。もっとも私が定期的に受診しているその大学病院の診療科も皮膚科であるわけだが……。
 帰宅すると、抜糸したこともあってずいぶんと気持ちが楽になったのか、少し饒舌になっていた。もう洗髪も楽だし、消毒もあと数回もやれば必要ない。少しずつQOLが上がってきているような気がした。QOLが上がればストレスも軽減される。それに期待していたわけだが、それは放射線治療で後日もろくも打ち砕かれることになる。
 放射線治療のために入院する日は日曜日だった。大きな病院ともなると日曜日に入退院ができるということを初めて知ったわけで、日曜日の病院は人も少なくひっそりとしていた。もうここまでくると入院の手続きも勝手がわかってきているのでそれほど面倒ではない。用意するものもたかが知れている。
 病棟は相変わらず五階だった。最初は差額ありの部屋だったが、差額なしのベッドが空き次第移動になるという。これもまたいつものパターンのような気がする。
 そこに説明に来た看護師に、
「本人は手術前のイメージで行動してしまうことがあるので、視野の欠損と左手にある若干の麻痺でいろいろこぼしてしまうんですよ。こぼすたびにどうも過剰に驚かれるようで、それが本人にとっては少しショックのようですから、それだけご承知いただけると助かります」
と私が言うと、そのすぐあとに病棟の師長の次に偉い人と思われる人が謝罪にやってきた。謝罪されるほどでもないことで、そのあとの入院生活で気に留めておいてほしいと言うつもりで言ったわけだが、放射線外来での話が伝わっていたようで、結果的にだいぶ丁寧な謝罪を受けることになってしまった。なんだかこちらが申し訳ないような気持になってしまった。
 放射線と抗がん剤は一日一回だけだそうで、抗がん剤は副作用が多いと聞いていたため、それが少し不安だった。妻も抗がん剤を服用していた時期があり、いろいろな種類があることは知っていた。母が服用になるのか点滴になるのかはその時点ではわからなかった。
 放射線と抗がん剤を五日間やったら二日あけるため、土日は外泊という形で帰宅する予定になっていた。
 そのころになると、私もいよいよ通常業務再開が近づいてきており、放射線治療の後のことを考えなければならない時に差し掛かっていた。妻の方はオンライン授業が継続のようではあるが、日中母がずっとそばにいると妻も仕事ができなくなってしまう。そのため母がいないうちに仕事をできるだけこなしておく必要があった。
 少し愚痴になってしまうが、学校で働く教員に対し、世間の風当たりは強い。オンラインになったらなったでいろいろなケアが必要なことが言われているわけだが、ただでさえ学校の教員は仕事が楽であるかのような感覚を持っている人が世の中には多すぎる。近年になって学校教員の多忙がようやく採り上げられるようになってきたが、それでも何も知らずに無責任なことをいう人が後を絶たない。妻も毎日パソコンにかじりついては自転車操業で授業の準備に追われていたし、それは私も同様で、加えて私にはオンライン授業のシステム管理の仕事もあった。そんな私が通常勤務に戻れば、朝は六時前に家を出て、帰宅時間はどうしても夜八時を回ってしまう。そんなときに目が離せない母が日中家にいるとなれば、在宅勤務であるとはいえ妻も仕事にならなくなるわけだ。
 妻が仕事をやめて専業主婦になって母の介護をすべきだという人もいるかもしれないが、これは無責任極まりない考えだ。ただ単に家計を支えるということ以上に、妻にとって仕事をするというのはこれまでの経歴を生かし、生活にも張りをもたらすものである。非常勤講師であるとはいえ、一度やめてしまえばなかなか同じ仕事を見つけることはできない。ましてや年度途中でやめるとなれば、それもまた無責任ということになる。そうなればどうやって仕事を続けながら母の介護をしていくかということを模索しなければならないわけだ。
 母が入院した日、帰宅した後に私は何気なく母が入院している病院のホームページを見ていた。その時、病院にある「相談窓口」というものが目に留まった。そこを見ていくと、見慣れた顔が出てきた。私の主治医である。どうやら病院で入院、治療、介護などを相談する窓口の「室長」に私の主治医が就いているようなのだ。こう言うのもどうかとは思うが、少し頼りなげな主治医の顔がものすごく心強い顔に見えてきた。幸い私の定期受診が週明け火曜日になっていたので、これはもう頼るしかないという思いになった。
 次の日に母から電話があった。最初の抗がん剤でどうやら嘔吐したらしい。やはり副作用があったようだ。そして放射線も終わった後は暇でしょうがないとこぼしていた。眼が悪くなってきたせいか、本を読むこともできないわけで、ましてや本を読めたところで理解することは困難になっていた。園芸が好きであったので、『趣味の園芸』という雑誌を妻が買って持たせていたのだが、どうやらそれもすぐに飽きてしまったらしい。
「ラジオを持ってきて」
と言うが、前に買って差し入れたラジオがあるだろうと言うと見当たらないという。どうやら各ベッドに備え付けてある戸棚を見ることができないか、見たとしても視野の欠損が影響している可能性は高かった。この「ものが見つけられない」というのは、その後もずっと続くことになる。
 また、手術をする前から始まっていたことだが、一度不安になるとすべて確認する癖も顕著になってきていた。最初の入院をする前ですら、バッグの中身を何度も全部出してはいちいち確認していたし、見つからないというものは私たちが見つけてあげることが頻繁にあった。「なんでもパッと出してくれる」とは母が妻のことを言う言葉である。だが病院ともなるとそれはなかなか難しい。そのため、常にベッドの上にものを広げては、ヘルパーたちから「またお開きしてるの?」と言われることが多かったようだ。放射線と抗がん剤のための入院でも、この「お開き」は頻繁に行われていたようである。
 火曜日、私は自分の定期通院のために母が入院する病院を訪れた。私の方はいつも主治医が世間話をしながら私の腹部に二本注射をし、そのあと薬を処方してもらって終わりという簡単なものである。そのため、会計や薬の処方が終わっても時間はいつも十時を少し回るくらいで終わってしまう。だがその早く終わることを幸いに、この日は病院の相談窓口を訪れることにした。事前に主治医にそのことを話すと、「ぜひ利用してもらいたい」と言うことで、本来なら予約が必要なところを主治医みずからが内線を入れてくれて便宜をはかってくれていた。
 相談窓口で対応してくれたのは、佐藤さんという看護師の服装をした人だった。私は相談窓口で話すわけなので相手が看護師の服装をしているとはまったく予想していなかったため少し驚いた。
 佐藤さんには、今後介護が必要になる可能性が高いこと、およそ三週間後には退院してきて家でみなければならなくなること、自分たちは本格的な介護をするのは初めてであること、妻の仕事のこと、自身の仕事のことなどを含めて、少し焦りがあることを伝えた。
「まずはケアマネージャーを決めることと、介護認定をすることですね」
との助言を受けた。この佐藤さんという方と話したのはこれが最後になった。その後は秋本さんという人が引き継いでくれることになるのだが、佐藤さんはその時手がふさがっていた秋本さんの代理で話を聞いてくれたのだった。
 私は病院を出るとその足で紹介された「高齢者あんしん相談センター」というところに向かった。そこで介護認定を受ける手続きを行い、自宅へと戻った。自宅に戻ると病院から電話があり、秋本さんがそのあとは自分が引き継ぐということを私に伝え、ケアマネージャーを紹介してくれた。
 恥ずかしいことに私たちにとって介護というのはほとんど初めての経験であった。父が脳梗塞で倒れた時、私は離れているのをいいことに満足な介護をしていない。もっとも父も病院から病院、そして特別養護老人ホームと渡り歩き、最後は特別養護老人ホームで息を引き取ったわけで、家で介護をしたわけではない。とはいえ、転院や老人ホームへ移るほとんどの手筈を母と姉が行っていたこともあり、私は何もしない長男というレッテルを貼られていたと思う。
 とはいえ、父の場合と異なるのは、家で介護することが多くなることである。退路を断って臨まなければならない。もちろん父の時も別に逃げたつもりはないのだが、逃げたと後ろ指さされても言い訳はできないだろう。そのため母に対しては父のことで特に苦労をかけたという負い目は少なからずある。今回ばかりは覚悟を決めなければならない、そう思っていた。
 ケアマネージャーに連絡をすると、とても明るい声でしゃべる嶋田さんという女性が電話口に現れた。すでに病院から話は通っており、話は早かった。嶋田さんにはその後最後までお世話になるが、まずはその電話で嶋田さんと会うという話になった。
 いよいよ介護が始まることになってきた。介護が始まる前は誰でも同じなのかもしれないが、言いようのない不安と緊張が入り混じった、何とも言えない気分がずっと続いた。

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