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花のかげ~第2章 動き出す(4)

四.開頭手術

 次の日、私は妻と二人で午前八時少し前に病院に着いた。その病院の駐車場は朝からすぐに埋まってしまうことはわかっているので、不必要なほど早く病院に到着するのがいつものパターンだった。その日は快晴に近い天気で、朝から日の光が燦燦と降り注いでいた。コロナや母の手術といったことが無ければ、外に出たくてじっとしていられないくらいの天気であった。
 病棟の五階に上がると、いつもの通り病室へは行けず、デイルームという面会室のようなところで待つことになった。このパターンは当分変わりそうにもない。
 八時半になると、看護師が、
「ちょっと緊急手術が入ってしまって、もうしばらくお待ちください」
と言ってきた。やはりな、と自分の予想が当たったことに苦笑いするしかなかった。その病院の脳神経外科の医師は何人もいるわけだが、今川医師が一番手術をこなす医師のように見えた。年齢的にも体力的にも充実している感じがしたし、加えて救急指定になっていることもあり、交通事故の患者や脳梗塞、くも膜下出血などの患者も運び込まれるのだろう。そうなると今川医師の出番となるわけである。
 だが待てども待てども手術室へ移動する連絡は入らなかった。十一時をまわったあたりで「午前中に呼ばれるとは聞いていますが、時間がかかりそうです」と申し訳なさそうに看護師が言いに来た。とはいえいつ呼ばれるかもわからない状態でなかなかその場を離れるわけにもいかない。すると十二時になって今川医師から私の携帯に電話が入った。
「お待たせしてすみません、ちょっと緊急の手術が立て続けに入ってしまって……」
と申し訳なさそうに執刀医が言うわけであるから、こちらとしてもあまり強気には出られない。二時までなら病院を離れてもいいということだったので、私たちはいったん帰宅して昼食をとることにした。
 ところが、十三時になったところで病棟から連絡があり、どうやら母が憤っているとのことである。私に連絡してきたということは、怒りを鎮めてほしいということであろう。怒るのも無理はない。前の晩から食事もとれていないわけだし、点滴をしているとはいえ水も飲めない状態で待たされているわけだから、怒るなと言う方が無理である。しかも手術を前にして不安が募る時間がずっと続くわけであるから、心穏やかにして待てと言われても無理な話だ。しかも家族がそばにいるわけではないのだからなおさらだ。母の気持ちは手に取るようにわかった。
 とにかく病院に向かうことにしたわけだが、病院に向かうと母の怒りは鎮まったのか、会わないままでまたデイルームで待たされることになった。そして二時を過ぎても手術室には呼ばれなかった。前回の生検の時は二時開始だったが、それすら過ぎている。デイルームで待っていると、ペットボトルの水を持った今川医師が「いやぁ、お待たせして本当に申し訳ない」と言いながら突然現れた。
「今日に限って立て続けに緊急の患者が運び込まれるものですから、ちょっと順番を入れ替えさせていただきました。四時には始めますからもうちょっとお待ちください」
と言って去っていった。いったい何件の手術をこなしたのだろう。普段元気いっぱいの顔にもさすがに疲労の色が浮かんでいた。
 四時にいよいよ母の手術が行われるという正式な連絡が入った。やはり母は車いすではなく自分の足で歩いてきた。思ったより表情は明るく、「いやぁ、待たされた待たされた」と笑いながら言えるほどの余裕があった。
「さぁ、いよいよやってまいりますよ」
と気合が入った表情に私たちもずいぶん救われる思いだったわけだが、手術室を前にしたときはさすがに一瞬表情を曇らせた。
「じゃぁね」
と言って母は手術室へと消えていった。今度は右手を上げることはなかった。
 手術予定時間はおよそ六時間。そうなると終了時刻は早くても夜十時ということになる。これは遅くなる覚悟を決めなければならない。家には息子が待っている。私は病院に一人で待つことにし、妻を家に帰らせることにした。妻は自分も待っていたそうなそぶりだったが、ここはそれぞれがそれぞれの立場でやらなければならないことがある。それをすぐに理解した妻は、
「じゃぁ、何かあったら連絡してね。何もないとは思うけど……」
といって病院を後にした。
 そこからの時間はとてつもなく長く感じた。家族待合室には最初は十人ほど手術終了を待つ人たちがいたのだが、一人、また一人といなくなり、六時を回ったころになると待合室にいるのは私だけとなった。待合室にはテレビがつけたままになっているのだが、たいして面白い番組もやっていないしチャンネルを変えようにもリモコンがない。もっともどのチャンネルにしても家族が手術中の私の頭には入ってこなかっただろうけれども……。またスマホでネットを見ようにも、その待合室は電波状態が非常に悪く、それもまた言いようのない静かな苛立ちのもとになった。
 その待合室には妻の手術を含めると三度目だが、時折寝ている人を見かけることがある。家族の手術を寝て待つのは不謹慎のような気もしていたが、こうなると寝て待つのもやむを得ないのかもしれないという気持ちになる。椅子は相変わらず座り心地が悪い。いっそ横になった方が楽だろうとも思ったが、そういう時に限って誰か来るものだ。さすがに待合室で横になっている姿を見られるのはどうかと思うので、それも我慢することにした。
 そうなるとあとは眠りはしないものの目を閉じてじっと待つ以外何もすることがない。十分か二十分ほどそうしては立ち上がって腰を伸ばし、また座っては目を閉じることを繰り返しながら、私はひたすら待ち続けるしかなかった。外来患者がいる病院ならば、たとえ手術室の近くであっても何らかの物音というものはするものだし、音はしなくても人の往来があればそれが音に代わるなんらかの生命力のようなものになって伝わってくるものだ。だが夕方の病院ともなると、人がどんどん少なくなってきていることもあり、否が応でも静寂を意識せずにはいられなくなる。その静寂が、生命を維持させながら頭蓋骨に大きな穴をあけ、あろうことか脳の一部を切除する手術が行われているということをより一層強く意識させることになった。
 二十二時四十五分、手術が終了し、ベッドに乗せられた母がそのままCTを撮りに行くところが遠くに見えた。少し予定より時間がかかった。CTが終わるとICUに移す前に待合室前を通るだろうと思って待っていると、母の姿は現れず、代わりに今川医師が現れた。
 面談室に通され、開口一番今川医師は「摘出できたのは八割弱です」と言った。それ以上の摘出となると運動機能に障害が強く出てしまうために、歩いて病院に来た人を歩けない状態で帰すことになるため摘出を見送ったそうである。
 それと同時に病理の最終結果も出ていた。病名は脳原発であることは変わりがないものの、神経膠腫のさらに悪性の「膠芽腫」で確定した。グレードは3から4相当。脳腫瘍の場合は通常のがんの進行度合いを差す「ステージ(stage)」という言い方は使わず、悪性度合いを示す「グレード(grade)」という尺度を使うらしい。悪性の最高度合いが4であるから、母の持っている腫瘍は最悪の部類ということになるわけである。
しかも、説明を聞けば膠芽腫というものは五年生存率が十パーセント以下だそうで、再発はまず免れられないらしい。今後一年から一年半くらいで再発するかどうかにかかっているとのことで、次の段階としては放射線治療と化学療法になるとのことであった。当初説明を受けていた、脳の中に薬を置いてくるということは認知機能に障害が出そうだったためできなかったということである。もともと右側頭葉はあまり機能していないところではあって比較的摘出はやりやすいところだそうなのだが、後頭葉にも一部かかっていたこともあり、どうしても(腫瘍の)浸潤はあるだろうとのことであった。なるべく触らないようにしたとのことだが、どうしても運動機能に障害は多少出そうだということで、「まずは退院をめざしましょう」と言われて術後の説明は終了した。
 ちなみに頭蓋骨を開けた場合、取り除いた骨片はもう使用せず、チタン製のプレートで蓋をするらしい。私は幼い頃に『ブラック・ジャック』を読み過ぎていたせいか、どこか医学の知識がそこで止まっているところがある。『ブラック・ジャック』では切り取った骨片を使うところがあったが、そこはもう現代医学では違っているということなのだろうか。ただ、「(金属であっても)自重は支えられません」と今川医師に釘を刺された。転倒して患部を直接ぶつけた場合は危ないということだろう。
 ICUに行くと、母の様子は前回の生検の時とはずいぶんと異なっていた。まず斜視がひどかった。これについては今川医師が「そのうちもどりますから」と言ってあまり気にする様子を見せなかったわけだが、家族からすればギョッとするほどの斜視であった。そして顔もかなりむくんでいる。ただし麻酔が苦しかったということは言わなかった。そんな余裕はまったくない様子だった。ICUの看護師が名前や生年月日を尋ねると、多少間をおいて答えるものの、答えは正確だった。私のことは今一つわからない様子だったが、そのうち私の息子の顔を見たいというのでスマホに入っている画像を見せると、
「かわいい」
と絞り出すような声で言った。インコの名前「あおちゃん」も言えた時にはすこしホッとすることができた。
 ICUに長居をするわけにもいかないため、十一時半ごろに私は病院を後にした。もうさすがに遅いため、いつもなら病院の出口の前にいるタクシーもこの時はまったくいなかった。タクシーを呼ぶのも面倒なので、私は家まで歩いて帰ることにした。普段なら車で五分から十分程度のところなので、歩けば三十分で着けるし、これまで何度か歩いたこともある。近道であるためスクーターで病院に来る際に通る裏道を歩いたが、その裏道は昼間とはまったく違って暗黒の中を歩くような暗がりが広がっていたため、近道とはいえその裏道を歩くのを選択したことを少し後悔した。
歩いている途中で姉に電話で手術が終わったことと、今川医師と話したことを報告した。姉は寝ずに待っていた。寝られるはずがないことは容易に想像がつく。姉に簡単に報告をして帰宅すると、妻も待っていてくれた。
 この日、今川医師は結局母の手術を入れて五件の手術をこなしたらしい。一番緊急性が低く健康な母を後回しにせざるをえなかったと詫びられたが、母が一番健康だったということは、あとの四件はいったいどんな状態だったのか想像すらできなかった。

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