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花のかげ~第1章 萌芽(4)

四.そして脳神経外科へ

 四月六日、私の仕事場は、新型コロナウィルスに対してどう対処すべきかで混乱を極めていた。学校を再開してもよいという公式なアナウンスはなく、それぞれの学校が独自の対応を迫られていた。しかしどうあっても学校を再開するのは現実的ではなかった。二、三年生はまだいい。問題は新入生である。つい先日まで中学生だった生徒を迎えるわけであるから、考えなければならないことは山積みだった。教科書も買わせられていないどころか、制服などもまだである。何をどう決めたとしても、はっきりとした自信というものは持てなかった。教員の誰もがイライラしていた。
 そんな中、妻からメールが届いた。MRIによりはっきりとした影が現れたというのである。妻が携帯で撮影した画像を見て私は息をのんだ。一か月前には白いもやもやしたものだったところに、今度は黒く丸いものがはっきりと写っていたのである。脳神経内科の医師は画像を見るなり、これはもう脳神経外科の領域であると告げ、脳外科の受診が決まった。次の受診予定を聞くとそれには私も立ち会うことができそうだった。
 そのころ、皮肉にも緊急事態宣言が発令されたため、学校は週三日の出勤となった。母の病気に関する時間の融通は何とかできそうである。もちろん仕事が無いわけではない。新入生に対して教科書を発送する作業があったし、二、三年生にも課題の指示をしなければならない。世の中では「オンライン授業へ切り替えろ」という声が高まっていたが、当事者でない者ほど無責任な声を上げるのは世の常である。そう簡単にオンライン授業のシステム構築などできるわけがない。私はITには比較的強い方だと自認しているが、どんな組織であっても俗にいう「情弱」が一定数いる。準備には相応の時間と労力もかかる。加えて、私はそのオンライン授業のシステム構築の中核に入ることになったために、負担は一層増えた。教員側だけでない。各家庭のネット環境も違っているため、それに対応する必要にも迫られた。そういう事情を無視した人たちがオンライン授業を簡単にできるものだと思って勝手なことを言うわけである。私たち教員というものの多忙さは、出勤してもしなくても変わらなかった。いや、むしろオンライン授業の分だけ多忙になり、勤務時間という枠が無くなった分、夜も仕事しなければならなくなった。
 四月十三日、脳外科の外来を受診することになった際、母はおびえていた。もう自分の中では悪いものができていて、それを手術するのだろうと言いながらその一方でたいしたことないのではないかという淡い期待も抱いており、それが交互に頭に浮かんでは不安そうな表情を見せた。
 扉が開いて出てきた脳外科医は今川医師といい、年齢は三十代後半ぐらいだと予想された。体と声が大きい、いかにも脂ののった外科医という風体だった。すでに受付で受信する医師の名前は聞いていてネットで調べたところ、専門は悪性腫瘍ということだった。その時点で私の中では母の病気は悪いものだろうということはなんとなく予想がついた。もっともそのことは母には言う必要もなかった。
 画像を見た時点で今川医師は、
「可能性はいろいろ考えられますが、第一に考えなければならないのは『神経膠腫(しんけいこうしゅ)』です。ただ脳原発なのか、他から転移してきたものかは検査してみないとわかりません」
とはっきり告げた。それ以外の可能性としては炎症、感染症などであったが、第一候補としては「神経膠腫」になると言った。私も初めて知ったが、脳腫瘍というのは俗称なのか、実際には「神経膠腫」という言い方をするようである。カタカナだと「グリオーマ」だそうだ。
「手術が必要なんでしょうか」
と母が尋ねると、
「現段階ではわかりません。とはいえ、神経膠腫だとすると、これは寿命とのかかわりとなります」
と言う。母はポカンとしていたが、私はそれを聞いてとっさに理解できてしまい、「あぁ」と反応してしまった。その私の表情を見て、今川医師は「わかりますよね」とニヤリと笑った。
 要はこうである。八十歳という年齢を考えると、無理に手術をせずに保存療法を選択するということも充分にありえるということだ。そのあとの人生が三十年、四十年と続くのであれば思い切った方法も考えられるのだろうが、八十歳ともなれば生きてもせいぜいあと十年かそこらというのが一般的である。もっと長生きする人もいるだろうが、あくまでもこれは平均寿命から考えてのことである。八十五歳まで生きるのか、それとも八十一歳までなのか。はたまた九十歳までなのか、それはわからない。ただどのくらい生きたいか、どのくらい生きれば十分だと考えられるのかによって治療の選択肢は変化するということなのである。手術をすれば当然身体に負担がかかる。それによってQOL(生活の質)も変化する。治療の大まかな方向性を選べる今の段階ではそれを考えてほしいということである。
 しかし、その時点ではまだ病名は確定できなかった。完全に確定するためには生体検査が必要だった。全身麻酔になるが、頭蓋骨に五十円玉程度の穴をあけ、そこから組織を採取して病理検査で確定するというものである。当然入院が必要になる。生体検査とはいえ、ほぼ手術と同等である。母は迷った。やはり「頭蓋骨に穴をあける」というところが恐ろしく感じるのだろう。
 ただ、これは私の勝手な推測なのだが、今川医師は少し急いでいるような気もした。患者を怖がらせないためなのか顔には笑みが浮かんでいるものの、いったん帰って話し合ってから結論を持ってこいとは言わなかった。そのように言えばそれでいいと言ったかもしれないが、そうは言わせないような雰囲気も感じ取れた。四畳半ほどの広さの診察室の中で、私と母には空気が重苦しく感じられた。少し間をおいて、
「結局、病気がなんだかわからないと治療をどうするかも考えられないよね」
と母が私に言ってきた。私もそうだと言うと、今川医師は、
「それじゃぁ生体検査をしましょうか。そうすれば方針がはっきりするので選択しやすくなると思いますよ」
と、我々がそういうのを待っていたかのように生体検査を提案してきた。もっともそれしか選択肢はないも同然だったのだが……。
 今川医師はすぐに内線を使って手術室の空き状況、病室の空き状況を調べ始めた。外科医が動き始めると何か違った感覚がある。妻が大腸がんを患った時も、外科医の動きは早かったのを覚えている。
そしてあっという間に予定が決まっていった。四月二十日に入院し、翌日が生体検査となった。コロナウィルスの関係から手術そのものが制限されているということで、なかなか予定を調整することが難しかったようである。それでも一週間後に入院できたのは幸いだったかもしれない。大型連休を前にしてそこまでできるのは、やはり妻がMRIの撮影を早めてくれたからにほかならない。その場その場の選択が吉と出ているような気がした。
 家に戻るときの空気は重く、帰宅してからもそれは続いた。不安をあおらないようにと私も妻も努めて明るくふるまうようにし、こちらからは病気のことを話さないようにした。もっとも母が次々と不安を訴えるので、話さないようにしていても結局は病気の話になってしまう。そうなってしまうのも無理もない。住み慣れたところの病院ではなく、息子の居住地であるとはいえ遠く離れた町の大学病院に入院するわけであるから、不安は必要以上に大きいと考えなければなるまい。
 その後は私も妻も家で仕事をしながら母の入院のための準備をしていた。準備といってもその病院には私も妻も入院した経験があるため、何を準備すればいいのかなどだいたいわかっていたので、焦ることは何もない。むしろ母の方がいろいろと気を回してあれこれバッグを探しては床にものを散らかしていた。いわゆる「お開き」というものである。「確認」と言ってはバッグの中身を出して一つ一つ確認するわけである。一日にそれをいったい何回やっていただろうか。
 世の中の状況は変化がなく、とにかく外出自粛ばかりが叫ばれていた。私も月曜、水曜、金曜の三日間出勤すればいいことになったので、オンライン授業のシステム構築や自身の授業動画などの作成をしなければならず、職場の各方面から流れてくる膨大なメールを読みながら返信しては自身の仕事にあたっていた。妻は大学の非常勤講師をやっているので、やはり状況は同じだった。私も妻もノウハウを共有しながら仕事をしていくしかなかった。そうやって時間だけが流れていった。ただここまでは、その後の母の闘病全般のほんの序章でしかなかった。


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