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花のかげ~第3章 彷徨(6)

六.八月のメモワール

 八月も七月に続き比較的穏やかな日が続いた。八月の上旬に仕事がようやく落ち着き、父の納骨は八月十一日となった。コロナの感染拡大は少し落ち着きをみせていたものの、県外ナンバーの車がいたずらされたり県外から来た人たちが罵声を浴びせられたりといった報道を聞くと、車で行くことはどうしてもはばかられた。結局八月十一日は新幹線で私一人が行くことになった。
 母がまだ寝ているときに私は家を出て、午前十時頃には現地に到着することができた。その日は朝から雨が降り続いており、駅から霊園まではタクシーで移動することにした。乗ろうとしたタクシーの運転手は運転席で熟睡しており、次のタクシーの運転手が気を利かせて車を回してくれる辺りに田舎の鷹揚さを感じた。
 事前に石屋と打ち合わせておいた手はずもきちんと整っており、事務所に納骨許可証を提出したあとは納骨堂に父の骨を入れるだけとなった。石屋が立ち会ってくれて、あっという間に納骨が終わった。私一人が納骨に来たことを指して、
「今はこういうやり方が増えてきているんですよね」
と石屋の若い男性は私に苦笑しながら言った。その苦笑いのしかたから、少ない人数で納骨することは増えてきてはいるものの、たった一人というのは稀だといいたいのであろうことが伝わってきた。
 その後私は少し時間をつぶしてから帰ることにした。あまりにも帰宅が早いと、母が霊園が自分がいるところからすぐ近くにあるという自信を強めてしまいかねないからだ。
 納骨が済むころには雨も上がっていて、夏の強烈な日差しが容赦なく降り注ぎ始めた。私は第三セクター払下げの私鉄の駅まで歩き、そこから新幹線に乗る駅までと移動した。そして昼食をとった後、久しぶりに駅前を散策することにした。
 高校時代はよく通ったその辺りもかなり趣を変えていたような気がする。駅前の百貨店の「中富」は、私が子どものころはあって当然だったものなのだが、経営の行き詰まりから閉店を間近に控えていた。そこから少し足を延ばしてみても、何も収穫はなかった。だがかつてはそれが日常だったのだ。自分の故郷の風景であるわけだが、私が変わったのか、それとも故郷が変わったのか、それとも何も変わっていないのか、感情は明確な像を結ばないまま、そこにいることそのものにあまり意義を見出すこともできなくなって、私は新幹線の指定券を少し早い新幹線のものにかえてもらって帰宅することを選択した。
 帰宅したのは夕方六時を過ぎたあたりだった。私が帰宅した時母はデイサービスから戻ってきていた。そうしないと私が遠くに行っていたことが伝わらないからだ。
「お父さんの納骨、済ませてきたから」
と私がいうと、母は目を閉じて両手を合わせて私を拝むようなしぐさをした。
「車で行ってきたんでしょ?」
という母に、
「新幹線で行ってきたんだよ」
というと、そこは無視して、
「やっと肩の荷が下りた」
と言って安堵した表情を見せた。だが、
「大変だったでしょう」
と言った後に私が久しぶりに新幹線に乗ったことをもう一度言うと、そこはちょっとだけ不快そうな表情を挟んでから右のほうを向いて無視した。母は自分をかつぐようなことをいう息子とぶつかり合うよりはうまくいなした方がいいと考えているような感じだった。「すぐそこにあるお墓」に新幹線などで行くはずがないと考えているのだろう。もうそこは頑なになりつつあった。私もそこでいちいち母の考えを推し量って修正を加えるという事を荒立てるようなことはしないようにしていた。
 そうではあっても一年放置していた父の遺骨が一応の決着をみたことは母のストレスをずいぶんと軽減したようだった。だが納骨したことは父の実家には言わないままでいた。父の実家は納骨もまた立派な儀式であり、それを自分たちが不在の中で行われていると知ればおそらくまた気分を悪くするだろうことはわかっていた。母もそれはわかっていて、
「あっちに知らせる?」
と言うと、顔をしかめて「そんなことはしなくていい」と言った。
 しかしストレスが軽減したとはいえ、母の状態はなかなかよくなってこなかった。七月の状態はなんだったのかと思うくらいで、抗がん剤の再開と二度目のアバスチンを境に母の状態は思ったほどではなくなっていた。トイレに行くときはやはり心配になったし、歯磨きも後ろから見ていないと不安だった。
 この少し前から妻は九月からの母の介護にヘルパーを導入することをケアマネージャーと相談していた。コロナの状況は予想がつかないこともあり、九月中旬から妻の仕事がリモート・ワークではなくなる可能性も残されていた。そうなると妻はどうしても朝七時には家を出なければならない。母のデイサービスの迎えが来るのは、どうしても八時を回ってしまう。その間一人にしておくことなどできるわけもなく、妻が仕事に行った後にデイサービスまで送り出してくれる存在がどうしても必要だと考えたわけだ。息子も七時四十分には学校に行ってしまう。私など論外だ。
 利用するのは訪問介護を担当しているヘルパーだった。日替わりで別の人が来ることにはなるのだが、リーダー的役割をしているのは井上さんという女性の人だった。この井上さんとは私も顔を合わせている。実際に朝の「送り出し」が始まる前に打ち合わせを行ったわけだが、そこで井上さんから意外なことを聞いた。
「最初は慣れないのでヘルパーに対してよそよそしいこともあるのですが、慣れてくるといろいろなことを話すようになります。特にその時に出てくる話は、自分を一番身近で見てくれている人に対する悪口なんですよ。でもこれはどこでも出てきます。必ずあります」
と言う話を聞いて、私たちは驚いた。妻は日中から、いや一日中と言っていいほど献身的に母のことを世話してくれていたし、私は夕方以降、力のいることを中心に母の介護を行い、夜は妻を二階で寝かせるために母のそばに布団を敷いて寝て、夜中のトイレに対応していた。そこまでやっていても悪く言われるものなのかと少しやるせない思いだった。
「でも、それによって日頃抱えているストレスを軽減していくわけですよ。むしろそれで関係がよくなるんです」
と自信満々に語る井上さんに対し、私たちは介護のベテランがそういうならそういうものなのだろうと自分たちを納得させるしかなかった。
 妻の献身ぶりはとにかく私でも頭が下がった。毎朝母が目を覚ますと、妻は蒸しタオルを用意する。母は「気持ちいい」と言ってそれで顔をふく。そのタオルを使って背中や腋の下を妻が拭いてやり、そのあと着替えを手伝う。もちろん朝の紙パンツの交換もまだこの時点では妻がやっていた。もっともこのころは母も自分で紙パンツを脱ぐこともある程度はできたわけだし、左腕がうまく動かないために服にそでを通すことがなかなか難しかったのだが、通してしまえば自分であとは整えられた。補助は必要だがベッドの手すりにつかまって立ち上がり、足首のところまではかせたズボンを介助されながら自分で上げることもできた。ただ全部ひとりでやるとなるとそれは絶対に無理で、誰かの助けを借りないと服も着替えられなければトイレも心配だった。そして急いで朝食の用意をし、母を食卓に座らせると、まずはぬるくした紅茶を飲ませた。そして、朝はたいてい食パンだったが、妻はマーガリンを塗って焼いたパンを母の食べやすいように細く切って出してあげていた。ヨーグルトは、プレーンヨーグルトにかけるソースを必ず母にきいてからかけてあげていた。もっとも母は必ずブルーベリーソースを希望していたのだが。
 井上さんは妻の朝のルーティーンを聞いて驚いていた。
「そこまでやっているんですか」
と言って驚嘆していたのである。ほかの家の介護の実態などなかなかわからないものである。どこまでやるべきなのか、どこまではやらなくていいのか、などはわかるはずもない。だいたい私たちにとって本格的な介護は初めての経験だったのだ。ただ、ここまで妻がやってくれたのは、やはり妻のやさしさからでしかない。
 話は少しさかのぼるのだが、六月から母の頭の中での「距離感の喪失」は、私の姉、つまり母にとっての自分の娘がなかなか顔を出さないことに対するいら立ちにつながっていた。距離があること、コロナの状況もあってなかなか顔を出せないことは確かで、そのことを何度も言って聞かせても、
「だって車ですぐじゃない」
と言っては受け入れていなかった。
 ちなみに私と姉の関係は決して良好ではない。むしろ普通の姉弟の関係には程遠いものがあった。だがこのことに関してはここで詳細を記すことは控えたい。というのも、ここに記すとそれはどうしても私よりのものになってしまって公平性を欠いてしまうからだ。
 そんな私と姉の関係であっても、姉のことを母が悪く言うのは耐え難かった。私のところに連れてきたのも私の都合でしかない。嫁いでいる以上、母がいずれ私のところに来ることは姉もわかっていたことではあるのだが、それでもきちんと手順を踏んで、認知状態も正常(もしくはほぼそれに近い状態)で区切りをつけて私のところに来ていたのであればまだいい。しかし母の病気はイレギュラーなものであったわけで、一度戻すことも考えはしたものの、母の状態からいってそれは難しかった。そんな中での母が自分の娘をあしざまに言うことに対して、私もさすがに姉の肩を持つしかなかったのだ。
「まったく私もあの子の子どもの面倒は見てきたつもりなんだよね。それなのにまったく顔を出さないっていうのはどういうわけだろうね。私っていったいなんだったんだろうって思うよ」
と、例によってどろんとした目で貶めるようなことを言う母に対し、なかなか来られない物理的な問題、コロナの問題を辛抱強く言って聞かせても、母は聞く耳を持たなかった。それが毎日のように続くのである。しかも都合よくものごとを解釈するところもあるので、デイサービスの施設で面会しても構わないと言われたと言うこともあったわけだが、コロナの感染状況から考えて施設がそんなことを許可するとは到底思えない。しかし母からすれば許可までもらっているのに娘が会いに来ないということが信じられないのである。
 そんな中で妻が献身的に母の面倒を見ていることから、母は感謝の言葉をよく口にした。時には妻の手を取り、
「あなたのことは本当の娘のように思っているんだよ」
と言って涙ぐみながら感謝することもあった。その二人の様子を見ていて、私は安心はするのだが、姉のことも不憫に思えてしまった。
 嫁と姑の確執というものは、我が家に限っては存在しないと断言できた。そんな中で「一番身近で面倒を見てくれている人のことを悪く言う」というのがにわかには信じがたかった。しかしそう言っているのは介護のプロである。プロが言うのであるから、母もそうなるのだろうと思うと、やはりそれは受け入れざるを得ない。介護とはなんとも報われないものだろうかと思うしかなかった。

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