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花のかげ~第2章 動き出す(9)

九.認知症が現れ始める

 最初の一週間は母に大きな変化は見られなかった。土曜日に迎えに行くと、とにかく退屈で仕方がないということを何度も口にした。雑誌のことを言っても、
「そんなのあったっけ」
という反応である。どうやら見つけられないか、見えていないのだろう。
しかし病院ではいろいろと不都合なことが生じている様子だった。とにかく方向感覚が失われているので、トイレに行っても自分のベッドに戻れずに、他人のベッドの方に行ってしまうことがよくあるようだった。ものをこぼすことは相変わらずのようで、母専用のエプロンが用意されているとのことだった。
 このあたりで顕著になってきたのは、自分の弔い方だった。やはり脳腫瘍という大きな病を患った以上、自分の終活を始めなければならないという思いが出てきていた。自分をどのように弔ってもらおうかとあれこれ言うわけだが、それがまた二転三転するために付き合うのが非常に難儀だった。
 母の一番の懸案事項は墓であった。もともと墓は父が買っていたものがあり、そこに父をいれようかどうしようかということでいろいろと迷っている様子だった。手術する前の段階では、そこに墓参りに行くのは大変だろうということで「墓じまい」をしてしまおうという気持ちで固まっていた。そのことは姉にも話していたようだが、では父の遺骨はどうするのかという大きな問題が残っていた。まだ父の納骨は済んでいない。
 ところで、妻の両親は粉骨にして市営の共同墓地に入っている。コインロッカーのようなところに遺骨を入れてしまうと、もうそこには遺族は入れず、共同の墓碑を拝むだけというものである。二十五年が経過すると、遺骨は他の人と混ぜられて埋葬されるのである。骨壺をそのまま二つ入れることは難しかったため、妻の両親は二人とも粉骨にして小さくし、一緒のところに入れたわけである。そのことを母に以前話すと、非常に合理的でうらやましいと言っていた。それに近いことができないだろうかと言われ、私もそれに近いものを探そうと思っているうちに母の病が発覚したためそのままになっていた。
 だが墓というものは非常に面倒なものである。考え方というものも千差万別であり、本人が納得しても周囲が許さなかったり、因習を盾にして反対してきたりする場合もありうる。ただ、墓じまいをするということについては三月に決めた後はぶれなかったはずなのだが、ここにきてそれもだんだん怪しくなってきていた。
 それは放射線治療が始まってから顕著になってきた。外泊してまた病院に入った後、母が電話をしてきて、
「私、川原の墓に入ることにしたから」
と突然言い出した。川原とは姉の嫁ぎ先である。姉の夫が自分の家の墓に入れてもいいということを提案してくれたということで、姉がそのことを母に言うと、母は泣いて喜んだというのである。
 どうにも不可解な思いが残ったのだが、母の真意はよくわからなかった。だが、
「私はそこで孫たちと楽しくやるから」
と言われると私は不快感が募った。これから介護が始まるのである。最後まで私たちに面倒をみさせておいて、遺骨はすべて姉が持って行って、私にとってはほとんど行くことのない墓に入るというわけである。それも川原の姉の嫁ぎ先の墓に。墓の話を姉が私よりも先に母にするというのも、順番は間違っていないにしても、受け入れがたいものがあった。私を外したところで話が進行しているような気がした。それも一番面倒なことが私と妻に押しつけられているような気がした。もっともこれは少し頭に血が上ったゆえの誤解であり、あとでもう少し全容が明らかになってくると、全部ではないにしろある程度までは理解できる部分もないわけではなかった。だがこの時点では、母が本当はどうしたいのか、ということが分からなくなってきた。「自分は樹木葬でいい」、「お父さんと一緒の墓には入りたくない」、「お父さんの墓は納骨はしていないけど墓じまいする」と言っていたことが、どんどん揺らいでいるような気がした。母も口で言うことと頭の中で考えていることが違うことがこれまでも結構あり、実際に問いただしてみると実は違うことを考えていたということもあったわけなので、こうなるとお墓の問題では揉めそうな予感がしてきた。
 とはいえ電話で言い争ったところでどうにもならない。嬉しそうに話す母の声を私は無表情で聞き流し、早々に電話を切った。
 次の外泊の時、私はさすがに母にそのことを尋ねてみた。やはり母は満面の笑みで嬉しそうに話す。もう川原の墓に入ることは既定路線になっているかのようだった。認知が進んでいるのだろうとは思っていても、その脳天気な表情にさすがに私も声を荒げざるをえなかった。だが私が怒ることも母にはまったく理解できないようだった。なぜ息子はこんなに怒るのだろう。私が何か間違っているのだろうか。きょとんとした表情から、だんだん挑むような表情に変わってきた。
 もともと母は気が強い性格である。父ともずいぶんと衝突していた。父とはそりが合わないことは結婚当初からだったようで、私が家を出るまでの間、およそ半分は喧嘩してろくに口もきかない状態だったくらいだ。だから気が強いのはわかっていた。
 だがこの時母が見せた表情は少し違っていた。眼に光がない。どろんとした目で挑むような表情になる。そして絶対に曲げない。絶対に曲げないのはわからなくもないのだが、いくら話しても論理というものが崩壊しているので、母の頭に入っていかないのである。そしてだんだん自棄になってくる。言葉を吐き捨てて黙り込もうとする。なかなか手に負えない。しまいには、
「そうやってみんなで私をいじめるんだから」
といって泣き出した。ここでの「みんな」というのが誰を指すのか。私だけなら「みんな」という言い方はしないはずだ。そこには父の実家と母の関係が絡んでくるわけであるが、ここではそれは置いておこう。
 そんなに追い詰めているつもりもなかったのだが、母がそう言ったとなれば私が追い詰めすぎだと非難する人もいるかもしれない。言い訳がましいが、そのころは私自身がまだ認知症の老人との付き合い方がよくわかっていなかった。認知症の老人というものは絶対に否定してはいけないということをどこかで聞いてはいたのだが、私自身が母に認知症の症状が出ているとどこかで認めたくないところがあったのだろう。だからいくら順序だてて話したとしても頑として自分の主張を曲げない母に対し、イライラが募ってつい声を荒げたのである。
 後でわかってきたことなのだが、母は川原の墓に私も妻も息子もいずれは入ることを夢見ていたようだ。そのため、私が川原の墓に入るつもりなどないというと、きょとんとした表情になった。なぜ息子はそんなことをいうのだろう、この子は何を言っているのだろう、という顔である。私が姓も違っていれば縁もゆかりもない墓に入るわけがないのは少し考えればわかりそうなものなのだが、母にはそこが理解できていなかった。私も妻も墓などいらないという考えだし、自分たちも粉骨にしてもらってどこかに散骨してくれればいいという考えである。わざわざ墓を作ってどうこうしようという気持ちなどさらさらなかった。それがいきなり姉の嫁ぎ先の代々の墓に入ることを母が夢見だしたのであるから、そういわれる私も困ってしまうのである。
結局この時は結論など出るはずもなかった。母は一度怒ると相手が謝罪するまで口をきかなくなるのがパターンである。子育てでもそうだった。私はそれが幼いころから大嫌いだったため、自分の子育てではそんなことは一切やってこなかった。だが今回母と言い争いになったことで母がまた口をきかなくなることも想定できたわけだが、私は母のペースを自分の家に持ち込まれるのはまっぴらごめんだった。
 私は平静に戻り、普通に接するよう努めた。よほどのことがないかぎり一事が万事であらゆることにコミュニケーションを遮断するのはナンセンスである。介護をしなければならないとなった今、そのペースにはまるわけにはいかない。その私の態度に母もいつものような口をきかなくなるような態度はとらなかった。
 母の放射線治療は三クール目に入った。そのころになると、母は入院時に個室があてがわれるようになっていた。「病院側の都合」ということだったためにベッドの差額代はとられなかったが、その「病院側の都合」というものは母の認知状態を物語るには十分な理由だった。
 ベッドからトイレに行こうとすると、床のセンサーが作動してナースステーションに連絡がいくようになっていた。トイレに行くにもナースコールをしなければならないわけだが、ナースコールのボタンがいつも見つからないと言っては母は一人でトイレに行き、そのたびに自分のベッドに戻れなくなっていたようだ。加えて転倒の危険性もある。日によってふらつき方も違うし、実際何度か転倒に近いことがあったと言う。母は目が離せない存在になっていたということである。
 三クール目に入る際に病院に連れて行った時、やはり認知症と思われる兆候が顕著に現れていた。とにかくじっとしていないために、座って待っていることができない。すぐに立ち上がって歩こうとする。「一分で終わるからここで座って待っていて」と言っても、その時はわかった様子でもすぐに立ち上がって移動し始める。目が離せない。どこに行ってしまうかわからない。まだその時点では、私なり妻を探すという目的で立ち上がるわけだが、そのうちそうでもなくなってくるだろう。そうなると行方が分からなくなる可能性もある。
 放射線治療の最後の一週間が始まろうとしているわけだが、母はとにかく私を帰してはくれなかった。あれはどこだっけ、と言い始めてはバッグをひっくり返して中身を確認し始める。「書いておかなきゃ」と言って手帳に書き始めるものの、書く場所ですらおかしくなってきた。五月なのに次の年の二月のところに書き始めるわけだ。加えてあれほど達筆だった母の字は、この時期になるともはや見る影もなくなっていた。
 そして何より手術以降、時計が読めなくなっていた。アナログ時計の針の位置がまるでわからない。例えば午後二時三十分だとして、誤差がプラスマイナス三十分という程度ならば読めないうちには入らない。母の場合だと、それを九時五十分のような読み方をしてしまうわけだ。日付など覚えていられるわけがない。
 そうしたことのためにいちいち私に「確認」と言ってはあれこれ聞き始め、説明を求める。そうするうちに買ってきた飲み物をこぼす。ベッドに手帳を置いて立ち上がろうとしてふらつき、ベッドに腰かけてお尻の下に手帳が入ってしまっているのに手帳を探し始める。この繰り返しだ。だがイメージは手術前のままなのである。これがそのあとどのようになるのか、当然予想など立つはずもなく憂鬱な気持ちだけが募っていった。
 この三クール目で介護認定が行われ、ケアマネージャーの嶋田さんとも面会している。まずは介護の準備をできることから始めるしかなかった。
 まずはデイサービスを探すところから始めた。嶋田さんから勧められたデイサービスのいくつかに妻が見学に行き、その一つの「ひまわりの郷」というところに入所することを決めた。値段の安さが気になると言えば気になったが、あまり遠いところでも困るし、またもう一つ紹介されたデイサービスは月曜日がお休みになっており、月曜日が仕事の妻にとってはそれは避けたいことであった。ひまわりの郷はショートステイもやっているし、まずはそこから始めるのがよいだろうという結論になった。それに時間的な猶予も徐々に無くなりつつあった。
 いよいよ「治療」から「介護」へと移行が始まっていた。

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