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さやか、医者としての人生を振り返る

医者としてのジレンマ:勤務医時代の私

私は、いやさかリゾート代表の関根沙耶花です。
総合医として病院勤務医を10年間経て、開業しました。

私は、自治医科大学病院、市民病院で働いていた頃、こんな悩みを抱えていました。
「私がやっていることは、偽善ではないか?」
多くの悩みを抱えてやってくる患者さんたち。
私にとって、ずいぶんと無理難題を相談されることもあります。
「先生、何とかしてください。」
「先生、治してください。」
大学病院にいたころは
「皆さんが思っているほど医学は進歩していなくて、原因が画像や検査結果に現れないことも多いです。」
とか
「魔法の薬というのは無いですから。」
とか話していました。というのは、過大な期待を表現される患者さんを前に偽善ではありたくないからです。
どうやら、患者さんたちは、私が計画する検査や薬をもらうというプロセスを経て、満足しているようでした。
「先生のお陰で良くなりました。」
と言う言葉に、癒されていたのは事実です。
また、治らないけれど、診察を通して、病気と折り合いをつけながら人生に向き合っている方もいらっしゃり、私は、少なからず、そのような患者さんの話を聞くのを楽しんでいました。
一方で、患者さんは、「大学病院の医師」という肩書きに、幻想を抱いており、本当に病気を治すことにつながったのだろうかと疑問をぬぐえませんでした。

人の話を聞くことは尊いこと

研修医のころ、腎臓内科の病棟で働いている時のころでした。
腎臓の病気で入院している60代男性。
毎日病棟回診していると、腰の痛みが強いことを話されます。
坐骨神経痛だか、腰椎ヘルニアだか忘れてしまいましたが、動く時に激痛があるようでした。
その痛みに共感し、ペイン外来を紹介し、痛みが軽減したそうでした。
そのあと、私の研修医の友人が担当した時にも、私の名前を挙げて、感謝していると伺いました。
その時に、私は、とてもうれしかったと共に、なぜだろうと疑問に思いました。
その後も、病棟の患者さん同士で、
「関根先生が担当で良いね。」と言い合っていたのよ。なんて話を聞きました。
それから、私は、人を治すというのは、対話の中から生まれるのかもしれないと思い、内科医でありながら、心療内科という、人の話を聞く診療科に興味を持つようになりました。

内科医のための精神医学

さて、人が治るためには、「気づき」が大切です。
話を聞いて 意図を汲む。
それが、人がより良く生きるためのヒントになるのではないか。私の医師として提供できる医療の質を上げるのではないか。
私はそのころ、自治医科大学地域医療学に所属しており、当時の教授の梶井英治先生はじめ、先輩方から診療に対する姿勢を教わりました。人間性というもの。当時は、入局したばかりで、教授の診察を見学させていただく機会がありました。今となっては、とても貴重な機会でした。拒食症で通院されていた女の子が、食べられるようになって、教授にケーキを作ってきたり。患者さんが、診察をとても楽しみにされているのが印象的でした。他にも、ある先輩医師の診察を見学させて頂くと、他では話せないことをとても深くお話していて、そんな診療の様子を見るのが私はとても好きでした。
そんな心療内科的プライマリケア医の診療技術を磨くために、「プライマリケア医のための精神医学」PIPCなるものを学びました。
結局のところ、中身は、精神科医に相談すべき患者を見分けるための問診の仕方、ベンゾジアゼピン系の薬の多用を避けるためのSSRIの使い方などであり、内科医として精神科患者さんをみるときの最低限気を付けるべき処世術みたいなものを学びました。その時に、めちゃくちゃ明るい井田先生という男性の先生がいらして、患者さんのマインドをリセットするためのコツを教えてくださいました。それが、ユーモアがあって笑えたのを覚えています。
「すべてはうまく行っている」と大きな声を出しながら、患者さんと一緒に立ちましょう!それを3回繰り返しましょう。
なんて、指導があり、めちゃくちゃ笑えたのを覚えています。
認知行動療法で、声を出す、体を動かして自分にコミットする方法なんだそうです。

医者としての私の強み

そうやって、私は、診察技術を磨き、診療を楽しむようになっていました。
このため、大学病院から市民病院に移動するときに、患者さんまで一緒に移動されることもありました。
医者というのは、週一回外勤というのがあって、別の病院に外来を担当しに行ったのですが、そこでも、なぜか、隣のベテラン先生よりも、私の外来が混んでしまうと言った具合でした。医者になって4-5年目のことです。これは、自慢でも何でもないのですが、そのころから、私は何となく気づいていました。私は、人の話を聞いて、その人が何を求めているのかをかぎ分ける勘が良いのだと。
なぜならば、病院というのは、たいてい、隣のブースの先生の診療が聞こえます。すると、患者さんと医者の話がかみ合っていないという状況を聞くことがしばしばでした。英語ではこのような状況をpointlessと表現するそうです。
私が敏感な医者だという自覚がなかったからか、私の周りには、なんとも鈍感な医者が多いなあと言う印象でした。もしかしたら、医者は、患者さんと話がかみ合ってしまうと大変なので、わざとそうして鈍感になっているのかもしれませんね。真実は分かりませんが。

燃え尽きと挫折

医者になって、7年目くらいになったころだろうか。私はある市民病院に勤めていた。
公立病院の例にもれず、外来は忙しいし、当直日には、急患も救急車も多く、がむしゃらに働いて野田。
頑張って働いている間は良かったが、その内
「なんで私ばっかり。」
という思いがむくむくと出てきた。
例えば、
私の当直が金曜日の二次救急の日ばかり。とか
私の外来日数が多い。とか。
今から思えば、自分がそのようなことを引き寄せていたのだろう。
「何でもやらせて頂きます。」とお仕事している一方で、もう体力的にも精神的にも限界が来ていたのだ。
ある朝、カバンとゴミと傘を差しながら、アパートの階段を下っていると、最後の一段を踏み外して、転んでしまった。
痛い足を引き摺りながら、なんとか病院に行ったが、足は余計に真っ赤に腫れてしまった。
整形外科を受診すると、距骨という足首の辺りの骨が潰れていると。
荷重をかけてしまったため、炎症がひどくなっていたのだ。
それから、1ヶ月ほど仕事を休んだ。右足首の骨折で、運転もできず、休ませてもらった。しかし、現場は、恐ろしく忙しく医師不足の状況だ。そう簡単にお休みが許されるわけがない。実のところ、近くのホテルに泊まって働いてほしいとか、車椅子でも外来業務はできるでしょ、旦那さんの協力でなんとか働けないの、とか色々と言われた。
その時の私は、聞く耳持たずで、全く受け入れることができなかった。今から思えば、医師不足の中、足首の骨折なんだから、上半身は動くんだし、働いてよね、ってことだったと思うのですが、精神的に全くついて行けず、お休みさせて頂いたのだ。
1ヶ月経って、復職しましたが、「すぐに当直してほしい」とか、「日中の救急当番も対応してほしい」とかと依頼され、バリバリ働いていた勤務医だから当たり前のことなのだが、私は、心が折れてしまい、全く仕事に行けなくなってしまった。
周囲の人からは、「関根先生が、ズル休みしている。」という声があったの
かなかったのか、幻聴のように聞こえてきた。

初めて、精神科を受診する

頭が痛い、胃が痛いなどと出勤できない日が続くと、上司から、精神科を受診するよう言われた。
私は、精神科の同級生が勤務している病院を訪ねた。その時、この同級生に救われた。
長々と、生育歴や家族歴など聞いてくれた後で、
「関根さん、あなたのこれからのライフプランって考えてますか?」
「え?」
一生懸命、がむしゃらに、勉強したり、働いたりしてたけど、私は自分の人生にじっくり向き合ってなかったと気づいたのだ。

生き方を再考する

それからと言うもの、私は、医療以外のことにも興味を持って、情報を集めてみた。
エコビレッジの集まりに行ってみた。当時の私よりずっと若い人たちが、起業し、環境のことも考えた社会活動に本気で取り組んでいた。

その時、私は、もう居ても立っても居られなくなってしまった。
「どうしたら、自分らしく生きがいを持って生きられるのだろう?」
「そもそも、私の生きがいとは何だろうか?」

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