野枝が、アンネが、さけんだ
今年初め、頭の中で「福岡、福岡へいけ」と声がした。秋までに行くよ、と答えた。お金がなかった。
先日、谷中の小さな本屋で新刊『伊藤野枝セレクション』が目に入った。ぱらぱらめくりながら、そうか今年は没後百年だ、と気づいた。野枝の出身は福岡の今宿だ。
好きな歴史上の人物を聞かれたら、まず野枝が浮かぶ。誕生日もおなじ。野枝が軌跡を残したいくつかの場所に私も縁がある。
『自己を生かすことの幸福』は、甘粕事件で亡くなる年の春に発表された短い文章だ。人の真の幸福は、どれだけ愛し信じる人であっても、他者から与えられるものではない。それは本来、他者とは関係なしに自身の精神の内に独立してある。野枝は自らの真の幸福のためにペンをとり、闘った。
野枝とある少女の姿が重なる。その人は生涯にたった一冊の本を書いた。「アンネの日記」だ。十四歳の彼女は母を批判する。あなたは、不幸なときは世界のあらゆる不幸のことを思いそれらと無縁でいられることに感謝しなさいというが、それは間違いだ。そのような考えでは、自分の幸福の基準を他者におくことになる。本当の幸福は自分自身の中にあるのだから、それをもう一度掴まえるよう努力しなければ。
幸福が人から与えられるものなら、不幸も人のせいになる。幸福が人と比べずには成立しないなら、あなたは常にだれかよりも不幸だ。真の幸福は自らの手で探さねばならない。私がそのように思う背景には母の存在がある。
母の幸福は、百パーセント家族にあった。家族の幸せが自分の幸せだと、つねに言った。もしそうであるなら、私が母にとって幸福を与える人間でなくなれば母は私によって不幸になる。なんと脆い幸せだろう。胸の奥をかきむしられる思いがした。でも、母の幸せは母のもの。言えなかった。
野枝は、こうもいう。私の信条は、決して自分を他人の重荷としないこと。
私は、私の生活や人生において、周りの人びとに感謝しながら、胸をはってかれらと生きていける自分であるためにも、自己を生かすことの幸福のための努力をけっしてあきらめずにいたい。
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