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望まれない自分語りと他人のふんどしの夜

仕事関係の宴会があって「関根さんがベースやってたなんて知らなかった」と言われ、妙に安心した。気がつくと、うっかり自分の話ばかりしてしまう悪癖が少しは改善されたのだと思う。マンモス大学に我が子を託した母には「友達100人できるやろ」的観測があったらしいが、友人と呼べる人は片手で足るほどしかつくれなかった。つまりは学生時点でご意見表明できる場は、ごくごく限られていたわけだ。就職活動もせず、大学から「就活イロハ帳」めいた冊子を無理やり手渡されても、即座に至近のごみ箱に放り込むアウトローぶりを発揮していたので、自己PRなどというものとも無縁だった。

その後、紆余曲折を経て立ち飲み通いを趣味とし、ライターという否が応でも人と話す仕事に就いたことで、人並み以上に会話ができるようにはなったが、今度は度を超えてしまった。しゃべりすぎるのである。前述の話題しかりで、おどれの来し方に興味がある人は決して多くはない。その内容が武勇伝の体裁を取るようになると、もはや目も当てられない。某在阪ラジオ局の番組にたまたま電話出演し、「顔がでかい」というラジオネームに短文投稿型SNSがにわかにざわついたことなど、過去の栄光に分類されるレベルにさえ達していないのだ。

そうした反省に立って、目の前にいる人の語りに合わせようと固く心に誓ったのが、おそらくこの5年ほどのことである。飲み屋で知り合った大学の大先輩に「君はこっちが話したいときにはすっと引くやろ。そこがええんや」とお褒めにあずかったときは、在学中に微塵もなかった愛校心の萌芽を感じた。「たぐひなき此の學園」を、卒業から10年越しに実感した。

とはいえ、ロン毛でいる以上は一定の自己開示をしなければならないのも、また事実である。まずもって怪しい人物ではないこと、職務質問を受けるような行いはしないこと、ささやかな家庭菜園で育てているのはありふれたハーブであることを、きちんとアピールしておかねばなるまい。警察が職質のゴーサインを出す要素のひとつに、相手の目がきれいかどうかというのがあると聞いたことがある。社会一般に対して温かい眼差しを注ぐこともまた、思わぬリスクを回避するうえで肝要らしい。話がやや逸れた。結局のところ「自分の話をしてるやんか」というツッコミが入りそうなものだが、ワールドワイドウェブの辺境に思うまま書きつけていることだから、そこはお目こぼし願いたい。

ところで、一番よくないのは人の手柄を自分の手柄のように語ることだと思う。「あのミュージシャンのホニャララが好き」「なんとかという作家がいい」程度なら、なんのことはない。しかし、著名な誰それ、あるいはその成果物を知っていることをもって、さも自らが手柄を立てたかのように語る人物が、残念ながら実在するのである。そして、そんな人物と酒席をともにするという悲劇に見舞われた夜があったのである。自分の話でありながら、自分の話ではない。延々と続くプレゼンを聞き流すこともせず、その夜はカウンターでふて寝を決め込んだのであった。

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