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舟は編まないし、トイレでは泣かない

たとえブラックな労働環境に身を置くことになったとしても、甘んじて受け入れるべき。なぜなら、それが業界のデファクトスタンダードなのだから――そんな言説に直面する機会があった。正直なところ、喫驚を禁じえなかった。それも使用者の立場からではなく、被雇用者の側から発せられた言葉とあって、喫驚はほどなく混乱に姿を変え、やがて恐怖感に置き換わった。

聞けば「自分は理不尽な扱いを受けてトイレで泣いた」「曲がりなりにもクリエイティブな業界の風土なのだから、かような通過儀礼を経ることで評価を高めるしかない」とのことだった。無論、そうした考えを否定するつもりはない。ただ、そこのところにくみするつもりも微塵もない。とてもではないけれど、トイレで泣く気にはなれない。トイレではひたすら排泄に徹したい。

そんな僕とて以前、世に言うブラック企業に勤めていたことがある。編集プロダクションらしく終電帰りは当たり前で、休日に呼び出しの電話が鳴ることもしばしばだった(「らしく」という表現が成り立ってしまうこと自体が恐ろしい)。加えて、通勤時間は往復で2時間あまり。詳しい労働実態についての言及は控えるし、根性なしと評されればそれまでだが、1年と体が保つはずもなかった(当社比)。退職後しばらくは、不本意ながら通院を余儀なくされた。

これをいわゆるクリエイティブの世界に固有の不可抗力、当然のごとく踏むべきステップと受け取ってよいのだろうか。人によってはよいのかもしれない。そこを我慢することによって得られる自己肯定感の存在も否定はしない。まさしく「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」だ。とはいえ、業界の宿痾ともいえる状況を働く側が進んで正当化し、結果として使用者を利する現実を生んでいることは、およそ看過できるものではないと思う。

かつての勤務先であるところのブラック企業の経営者は、僕が退職するにあたりこう言った。「みんなは『舟を編む』(※三浦しをんの小説)の決意でがんばってるのに、関根くんは覚悟が足りなさすぎる」と。舟を編むつもりなどさらさらない。そもそも平常心を保てない環境で、まともな仕事などできるはずがない。「まとも」が担保されない以上、仕事以外の場面でもコントロールが利かなくなるのは目に見えているではないか。

そういう次第で死なない程度の労働のありようを模索し、死なない程度のいまがあるわけだけれど、それすら「ヘタレ」「逃げ」として処理されたのが冒頭の出来事である。もちろん、人によってブラックな要素の用法用量は異なるわけだから、立場が変わればそのようなジャッジがなされるのも致し方ないだろう。かといって、苛烈な仕事場の実存が無批判に許容されるわけでもあるまい。

少なくとも自らの許容範囲、ある種の「正義」を他人に押しつけ、埒外の人間を断罪するようなことはあってはならないと思う。今回の件は雇用者の立場に基づいていないだけあり、あまりにも違和感がある出来事だったので、書き記さずにはいられなかった。ハードな労働慣行がなんだかんだ温存されていることにも、喜ばしくはないけれど合点がいった。

結局のところ、クリエイティブな方面に食い扶持を求めた自分が間違いだったのかもしれない。ではあるけれど、もはや後にも引けない。だからこそ、組織との付き合い方も考えつつ、ちょうどええ塩梅を探ってきたのである。エンターキーを叩く音がいやに高くなってしまった。

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