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猫の根比べ

 港辺の街中には、まだいくらか煙突が残っている。銭湯だ。
 僕の家の近くにも銭湯がある。朝日湯という。もうずいぶん古い。去年死んだ権造じいちゃんは子どものころによく通ったそうだ。煙突は古いコンクリートでできていて、昼過ぎになるともくもくと黒い煙を吐いた。
 朝日湯の周りでは野良猫が暮らしている。黒いのや茶色いの、尾の長いの短いの、ふとっちょに痩せ猫、猫にもいろいろあるが、彼らはみんな地域猫だから、耳の端が欠けていた。ワクチン投与と不妊手術を受けた証だ。彼らは朝日湯に通う老人たちに愛されている。猫たちはときどきいなくなったり増えたりした。いなくなるのはともかく、不妊手術をうけた猫たちがどうして増えるのか僕にはよくわからなかった。
 でも僕は知っている。そんな欠け耳の猫とは別に、一匹だけ、耳のかけていない奴がいるんだ。老人たちは気づいていないけど、彼は他の欠け耳の猫たちとはすこし距離をとって生活している。僕はその猫をマルと呼んでいた。欠け耳の猫は耳の先がギザギザだけど、マルの耳先は丸いからだ。
 マルは他の猫とは遊ばない。他の猫もマルとは遊ばない。マルは嫌われているようにもみえるし、すごく尊敬されているようにもみえる。どっちが本当なのかは、僕にはよく分からない。
 ある春の晴れた日の夕方のことだった。
 前の夜には雨が降って、街はしめっぽかった。今夜は、満月らしかった。
 日が傾いて空が焼けた鉄みたいな色になっていた。公園からの帰り道に朝日湯があって、いつものように猫と老人たちが立ち話に興じているのが見えた。マルもいた。マルは、湯を沸かすための廃材の山のてっぺんに座って、じっと遠くをみつめていた。僕が朽ち木のようになった足でマルのいる廃材の山の脇を通り過ぎるとき、僕はマルに話しかけられた。大人みたいな、堂々とした声だった。
「マモル君、君に頼みがある」
 僕はびっくりした。マルの方では、当たり前みたいな顔をしていた。
「今夜、オボロヅキの集いが神殿である。オボロヅキの集いには、付き添いの子どもが必要なんだ。その付き添いの子どもを、君にお願いしたい。今夜、君のマンションに迎えにいくから、窓の鍵をあけておいてくれ」
 僕はあんまり驚いたので、ろくに返事もしないで走って家に帰った。その日の晩ご飯の味なんてもう甘いのか辛いのか分からなかったし、普段はいやいや入る熱いお風呂もなんだか冷たい感じがした。でも僕は、父さんとおやすみの挨拶をした後、こっそり部屋の窓の鍵を開けておくのを忘れなかった。
 いつもなら布団に入るなり朝がくるのに、その夜はちっとも明るくならなかった。僕は天井の模様を見飽きるほど見つめて待っていた。すると、窓の方からすうっとなまあたたかい風が入ってくるのがわかった。
「鍵をあけておいてくれてありがとう、マモル君。早速でかけるとしようか」
 僕は窓からマンションの廊下に出た。裸足で踏むマンションの廊下はひんやり冷たかった。マルが僕の靴をくわえてもってきてくれた。マルがそれをどうやって持ち出したのかは分からない。
 僕はパジャマのまま、見慣れない夜の街をマルについて走った。まるで夢の中みたいに、すいすいと走ることができて、見慣れたよっちゃんちのマンションや角のスーパーのまえを次々に通り過ぎた。振り返ると、朝日湯の煙突がもう遠かった。
 マルの言った神殿というのがなんのことだかわからなかったけど、やがて、家の近くからだと二本のしましまのストローみたいに見える高炉の煙突が大きくなってきた。神殿というのは、あの高炉の煙突なんだな、と僕は思った。実際その通りで、二本のストローはどんどん太くなって、その根っこのところまで来るとそれは、一本が朝日湯の煙突を百本も束ねたような煙突のお化けだったことがわかった。見上げると、その先っちょは針みたいに細くなって夜空に消えていた。
「さあ着いた。マモル君、君の席はここだ。付き添いの子どもは呼ばれたら大きな声で返事をしなくてはならない。僕の名前は”シロガネのマル”と言う。マルというのは君がつけた名で、シロガネというのは僕の父さんがつけた名だ。僕のことを司祭が呼んだらマモル君は、ここにいる、と返事をしてくれ。できるかい?」
「わかった。しないとどうなるの?」
 マルはちょっと髭をゆらして笑い、応えなかった。僕がわかったと言ったから、それで十分みたいだった。
 僕がマルに座らされた場所は、工場の骨組みにぐるぐるとツタみたいに巻き付いている配管で、見回すと暗がりのなかにたくさんの子どもがいた。彼らもきっと付き添いの子どもなのだ。パジャマ姿の男の子もいれば、体操服を着ている女の子もいる。みんな僕と同じ、小学校に入り立てぐらいの歳に見えた。知り合い同士の子どももいるらしくて、ひそひそとおしゃべりしていたけど、ちょっと怖そうな見張り猫がやってきてシッと注意していた。おしゃべりしてはいけないのだ。僕はちょっと緊張した。
 どこかで汽笛が鳴っていた。夜空にはぼんやりかすんだ月が温泉卵の黄身みたいな色で光ってる。高炉から吹き出す煙はほんのり赤く染まって、ごうごう音を立てながら上っていった。猫たちは自分の立つべき場所が決まっているらしくて、高炉をぐるりと取り囲んで盆踊りの時のような円陣を組んでいる。そして、その周りを見張りの猫がさらにぐるっと囲み、付き添いの子どもと内側の円の子どもたちを隔てていた。マルは内側の円に混じって、僕の真正面あたりで背中をむけてじっとしていた。
 やがて、一匹のえらそうな猫が高炉の根本のあたりから出てきて、にゃーおと鳴いてから話し始めた。
「定刻だ。これからオボロヅキの集いを始める。これは、我らの父を決める大切な儀式である。ここで選ばれた猫は、港辺のすべての猫の親となるのだ。これを今、我々はオボロヅキに誓う。異議のある者は申し出るか、あるいは去れ」
 猫たちはしーんと静まっていた。子どもたちも黙っていた。でも、ちらりと横目を使うと、さっきおしゃべりしていた子どもたちが目配せしあってくすくす笑っていた。僕は申し訳ない気持ちになった。猫は大まじめなのに人間がふざけてるなんて。僕はそこへ行って叱ってやりたかったけど、そうするとかえって猫に迷惑をかけそうなので、やめておいた。
 さっきのえらそうな猫がまた言った。
「では猫の根比べを始める。まずは点呼。名を呼ばれた者はおおきな声で鳴き声をあげること。付き添いのこどもは、鳴き声に続いて返事をすること。では、シロガネのマル」
 僕はいきなりマルが呼ばれたのでびっくりした。マルは、今まで聞いたことのないような立派な鳴き声でにゃーお、と鳴いた。その声は汽笛みたいに堂々としていて、磨き上げた包丁みたいにきれいな声だった。僕は、どんな風に返事をしていいのかよくわからなかったけれど、いつも学校で先生がほめてくれる短くて鋭い「はい!」でマルに続いて返事をした。
 僕が返事をすると、偉そうな猫が満足そうにうなづいた。見張りの猫の何匹かが、「おい、あれはゴンゾの孫だぞ」とささやき交わして、周りの他の見張りの猫にたしなめられた。どうして猫たちが権造じいちゃんのことを知っているのかは僕にはよくわからなかった。
 猫がつぎつぎと呼ばれた。みんな大きくてきれいな鳴き声だったけど、マルほどの声じゃなかった。中には風邪をひいたような情けない声の猫もいて、中でも一番情けない奴は、蟻だってもっと大きな声が出るぞというくらいの声だった。その猫の付き添いの子どもは、あのおしゃべりばかりしている子どもだった。おしゃべりの子どもは、おしゃべりは得意なくせに、返事の声はいつまで待っても出なかった。その子がずっともじもじしていると、見張りの猫たちが進み出てその猫とおしゃべりな子どもを高炉のてっぺんまで運んで煙突の中に放り込んでしまった。
 三十匹ばかりの猫の点呼が終わった。えらそうな猫が言った。
「さあ、月が沈んで日が上るまで鳴き通せ」
 すると、一番中の輪の猫たちがいっせいに高炉にむかって鳴き始めた。高炉のてっぺんからは赤い煙がもやもやと立ち上り、夜空に向かって延びている。その先にはぼんやりした月が光っている。猫たちが鳴き始めると、月が赤く輝き始めた。まるで空が血を流しているみたいだった。
 猫たちは高く、高く、泣き続けた。見張りの猫たちは輪をくずさないでじっとしていた。その外で、付き添いの子どもたちは不思議そうに空を見上げたり、猫たちの声に耳を澄ませたりした。
 僕は、マルが気になって、鳴き続けるマルをじっとみつめた。マルは犬が遠吠えするみたいに喉を反らせ、立てた尾を震わせながら何度も何度も鳴いた。僕は、マルの喉が切れて死んでしまうんじゃないかと気が気ではなかった。
 実際、鳴いている途中でぱたんと後ろに倒れて動かなくなってしまう猫がいたからだ。そういう猫は、見張りの猫が進み出て輪から運び出し、付き添いの子どものところへ連れて行かれた。倒れた猫の付き添いの子どもは、その猫を抱いて静かに帰って行った。付き添いの子どもの数は、だんだん減っていった。やがて東の夜空の底あたりがしらじらとしてくる頃には、残っている猫はマルと、もう一匹だけだった。僕は拳を強く握って、頑張れ頑張れと、心の中でマルを励ました。マルの髭は汗でしおれて、今にもくたんと曲がってしまいそうに見えた。
 でもそれは、もう一匹も同じで、立てた尾は今にも地面におちてきそうに震えているし、つっぱった前足だってもう力が抜けてしまいそうだった。
 ついに、東の地平線がきらりと光った。朝だ。
 ずっと黙っていたえらそうな猫が、やっと言った。
「鳴き方、やめ」
 すると、マルともう一匹の猫は力の限り、一番美しい声で一番長くにゃーおと鳴いてから、鳴くのをやめた。マルの背中はひとまわりもふたまわりも小さくなってしまったように見えた。僕は、早くオボロヅキの儀式が終わってマルを抱きしめてやりたいと、そればかり考えていた。
「女王の裁きを受ける。そのまま待て」
 高炉のってっぺんに、銀色の影が見えた。目を細めて見上げると、それは輝く尾をもつ猫だった。毛の一本一本が銀でできたように光り、両目は太陽をひとつまみずつはめたように金色に輝いていた。
 その銀と金でできた猫は、鳴き通した両方の猫を交互に見た。見張りの猫たちが体をこわばらせて何かを待っていた。やがて、高炉のてっぺんの猫は、マルの方を向いて、透き通った声でにゃーおと鳴いた。そして、また高炉の煙突の影に、すっと消えた。
「シロガネのマル、おまえは選ばれた」
 あのえらそうな猫が宣言すると、見張りの猫たちはごろごろと喉を鳴らして喝采した。もう一匹の猫も、マルをたたえるように疲れた髭をふるわせていた。マルは誇らしそうに、前足をたてて顔を高くしていた。マルは目配せするようにちらりと僕を見た。僕も嬉しくて、マルに拍手を送った。
 その後どうやって家に帰ったのか、僕はよく覚えていない。気がつくといつものように布団の中で目を覚ましていた。ただ、布団から出てみると僕は裸足のまま靴をはいていて、僕は母さんにみつからないようにその靴をそっと玄関に戻した。
 僕はいつも通り朝ご飯を食べ、学校へ行った。ずっとマルのことが気になっていた。放課後、通学路をちょっと離れて朝日湯に寄ってみた。マルの姿は見あたらなかった。マルはいなくなった。その夢だか本当だか分からない猫の儀式を見てから、マルは姿を消してしまった。
 マルがいなくなったかわりに、朝日湯あたりでは一匹の、耳の丸い子猫が姿を見せるようになった。親猫の姿は見えない。マルの子どもかもしれないし、そうじゃないかもしれないけれど、その子猫はマルと同じように、他の猫からは嫌われているか、とても尊敬されているように見える。なぜって、やっぱりいつも一匹だけで過ごしていて、そして耳の先がマルみたいに丸いから。


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