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中井のパンセ

23才の年に、東京に出てきた。

就職という形でないと上京を認めないと言った父の気持ちを尊重して、就職課の人にも、「ポスターが送られて来ただけだからどんな会社かまるでわからんよ」と言われた会社に、入社を決めた。

入社した会社は、当時の私からしたら「とても親切」で。地方から上京してくる田舎者の学生に、最初に住むアパートを借りておいて下さった。西武新宿線の中井駅から徒歩7分程度。西新宿にあった会社から10分程度で行き来できるので何と便利な都会の街かと喜んだ。

入社式の2日か3日前に、母とふたりで新幹線で東京にやって来た。見上げた西新宿の高層ビル群はまさに都会の様相そのもので、ここから新しい人生の扉が開くのだと大いに興奮した。ビル群の中でもひときわピカピカ光る建物のエントランスに入り、何基もあるエレベーターのどれに乗ろうかとキョロキョロしながら手前のエレベーターに乗り込むも、向かうべき階のボタンがない。どうやら20階毎くらいに乗るべくエレベーターの入口が異なるらしい。そんなことも知らないわけだが、そんな立派なビルの一員になれることで気持ちが高揚した。目指した階は、確か37階か47階だったかと思うけれど、もう忘れてしまった。ともかくも、そんな高層階にあるビルで出迎えてくれた、後の上司になる男性に、母は「もみじ饅頭」を手渡していた。

無事に挨拶も終わって、「何でも困ったことがあったら言って下さいね」と優しい言葉をかけてくれる人事部という部署の女性が、新宿駅から中井のアパートまで案内してくれることになった。途中、新宿駅西口のコインロッカーに預けた荷物を取り出したいことを伝えたところ、人事の女性は「もちろん」と言ってくれた。あんなに頭の中で自分専用の目印を記憶したはずなのに、10分間くらい荷物を預けたコインロッカーを見つけることが出来なかった。恥ずかしかったけれど、人事の女性は「いっぱいありますからねぇ」とコインロッカーに憤慨するような表情で言ったのでホッとした。

中井のアパートは、西武新宿線の線路沿いを西に向かって歩いていくとポコッと現れた。まっすぐだから迷わなくていいなと思った。「それではまた入社式の日に」と言い残して、人事の女性は、今歩いて来た道をそのまま歩き出し、一度ひょこっと振り返って笑顔をくれた。ベージュのトレンチコートが会社員みたいでかっこいいなと思っていたら、母が「ああいうコートもいずれ必要になるね」と言った。結局ずっと買うことはなかったのだけど。

一度荷物を置いてから、東京のおばさんのところに行くことになった。母の叔母にあたる人なので、私のおばさんではないのだけれど、東京に住む親せきらしき人は東京のおばさんとその家族だけなので、私も東京のおばさんと呼んでいた。

東京のおばさんの家は、JR武蔵小金井駅を降りてから、今度はいくつかの路地を曲がったりしながら歩かなくてはならないところにあった。母は「2回くらい来たことがあるから大丈夫」と言っていたが、色々歩いてなんとか到着した。東京のおばさんの家で、母はやっぱりもみじ饅頭をおばさんに手渡した。「代わりにと言ってはアレだけど」というようなことを言いながら、東京のおばさんがもみじ饅頭と同じくらいの大きさだけど、何だか優しいパステルカラーの箱がきれいなお菓子を下さった。帰り道、母に「持って帰る?」と聞くと「ええよ、あんた全部食べんさい」と言った。こんなにたくさん全部は食べれんよ、と思ったけどもらっておくことにした。

母が帰り、始まったひとりの暮らしの最初にしたことで驚いたことがある。「暮らすということはお金がかかる」ということだ。当たり前すぎる話だけど。ティッシュペーパーに歯みがき粉、ハブラシも。シャンプーにコンディショナー、石けんと食器用洗剤にスポンジにと。ひとまず絶対に必要そうな身の周りの物を買い揃えただけで、5千円くらい使ってしまった。まだ初任給なんてとんでもなく先の話で、当座の貯金の8万円くらいで暮らさなければならないというのに、もう5千円だ。とは言ってもお腹がすく。「節約の基本は自炊だね」という大発見をして、アパートを出て迷わないように気を付けながら歩いていくと、小さな商店が見つかった。中を覗くと、パンや飲料の他にも野菜やパックの肉なんかも見える。そうだそうだ、こういう町の商店で食いつなげば完璧だ、と一人で大満足して卵とエノキダケとベーコン、それに醤油を買って帰ってきた。「エノキ添えベーコンエッグ」完璧だ。アパートの部屋の玄関を入ったすぐ右手にある小さい台所で、意気揚々と卵を割った時に油を買っていないことに気付く。まあいい、少々フライパンにくっついても本気で洗えばなんとかなるだろう。エノキダケの真ん中がまだ冷たい感じがしたけど、気にしないようにして一人で食べた夕飯は、あっという間だった。

目覚めた翌朝はいよいよ、入社式の日だ。新社会人としての意気込みや持ち物確認などを思うより前に、お腹がすいた。冷蔵庫の中に卵はあるけれど、エノキダケもベーコンも食べ切ってしまい、もうない。どうして朝ごはんのことをちゃんと考えずに寝てしまったのだろう。バカか私は。バカでもお腹がすいた。だけどご飯を炊く時間など、ない。

「パンセ」があった。

母とひとつずつ食べて、残っていたパンセの箱を開けると、個包装されたパンセがあと8個あった。1つを手に取って袋を開けて中身をかじる。甘酸っぱくてふわふわして、美味しかった。社会人となって初めての1週間、毎朝ひとつ頂くパンセが、私の東京生活のはじまりを応援してくれているようだった。



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