曙橋でチリトマトヌードル
4月に入社した会社での日々も、早10か月が経過。その間にアナウンスアカデミーに通い、アカデミーでみつけた第二新卒OKのアナウンサー募集の会社に応募書類を送ったりしている中で、季節は夏から秋、あっという間に寒い冬になっていた。
いずれ退社するつもりで潜り込んだ会社である。早いところ上司に辞めますと伝えなければいけないのだが、なかなかきっかけを見つけられないでいた。アナウンスアカデミーは先生に勧められたベーシックなクラスだったので、周りは大学3年生や4年生ばかりだった。すなわち新卒で就職活動をしている仲間たちである。ちょっとモヤモヤもしていた。
同じクラスでもひときわパッと華やかに映るショートカットの彼女は、フジテレビの三次面接まで進んでいると聞いて、レッスン終わりに皆で拍手を送った翌週、地元東北の放送局に内定をもらえたと聞いてから、クラスで顔を見ることはなくなった。他のクラスメイトも、順風満帆とはいかないまでも、就職活動真っ只中のエネルギーがビュンビュン感じられて、眩しいほどだった。モヤモヤの原因はわかっている。自分がそんな就職活動に参加出来ないから。既卒だから。分かっていたこととはいえ、ベーシッククラスを薦めたアカデミーの永井先生を、この時ばかりは少し恨みがましく思ってもいた。ベーシックは大学3年生ばかりで、周りは面接だのエントリーシートだのと盛り上がっているが、私にはそれはない。こんなことなら「司会コース」や「DJコース」だのを受講しておいて、アカデミー卒業のタイミングで行われるらしい事務所所属のオーディションにかかった方が得策ではなかったか。ベーシッククラスは卒業タイミングで何もオーディションはない。
数少ない既卒OKのケーブルテレビの募集などは見落とさないようチェックしながら、この頃はフリーアナウンサーの事務所や、時々ある番組のアシスタント募集などを探していた。いくつか「これは」という募集があった。女性のフリーアナウンサーが個人で立ち上げた「事務所所属説明会」であったり、「競輪番組アシスタント募集」であったり。のちに、そんなひとつひとつが縁のはじまりとなるのだが、それはまたいつかの話で。そんな募集要項に書かれてある番号に電話を掛ける日々を過ごした。
手ごたえはあった。「まずは一回お会いしましょう」どこにかけても好意的に話を聞いてくれた。これまでどこかの放送局に就職することしか頭になかった私だったが「フリーアナウンサー」という進み方があるということを現実的に考えはじめたのも、思えばこの頃だ。そして決意した。
会社を辞めて、フリーアナウンサーになる。
何かの帰りだったのかどんなタイミングだったのか、自分のことであるのに記憶がほとんどないのはどうかと思うのだが、上司に退社の意思を告げた。それから上司からも先輩からも食事に誘ってもらった。タイミングは忘れたのに、上司に言われて今も一語一句記憶に残っている言葉がある。
「お前は美人か?お前の実家は金持ちか?父ちゃん有名人か?」「そうじゃないんなら今ここでやれることをガムシャラにやらなきゃしょうがないんじゃないのか?」「アタシの居場所はここじゃないって別に移っても、こんなはずじゃないって同じように逃げるんじゃないのか」
そう、仰る通りです。でも逃げるのではないんです。向かうんです・・・!涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、言葉の順番もぐちゃぐちゃに自分の思いを伝えた。そうして何度か話す時間を頂いたあと、こう言ってもらえた。
「それならお前が決めたこと腹くくってやれよ」
今思い返しても上司の言葉は真実で、大体にして世の中はそんなモノであろうということがわかるくらい長く生きてきた。だから。これだけはっきりと言い放って下さったからこそ、その後も紆余曲折があったわけだが、その時々の判断を誰かのせいにすることなくいつも「てめえで決めたこと。人にせいにすんな」と、心のうちに木霊させて進んでこられたように思う。
新宿西口のロイヤルホストで、怖くて大好きなW主任に「ハンバーグにサラダとスープとドリンク付き」をご馳走してもらったが、涙が流れ過ぎて全部食べられなかった。その夜、曙橋のワンルームの部屋に、「カップヌードルチリトマト味」をひとつ買ってきた。退社を承諾してもらった安堵と、これからの自分の人生への期待をないまぜにしながらすすったチリトマトヌードルは、チクッと辛くて、泣けるほど美味しかった。
今でもコンビニの棚で「チリトマト」みかけると、もう会うことのない上司や主任のことを、思い出す。
<1997年完>
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