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てっぺん前のカロリーメイト

東京で喋り手になる足がかりがほしいと、何のツテも考えもなく上京してきたことに偽りはないけれど、ほんの少しの方法が頭にあった。

まだ新卒アナウンサー受験中の大学4年生の時、東京に呼ばれたことがあった。と言っても、履歴書を送った学生を全員面接に呼んで下さるのだから時代なんだか驚くのだが、その港区の放送局にはアナウンサーを夢みる学生たちが、4階だか5階だかの会議室のドアの前をゴールに、ずらっと階段から玄関口まで一列を成していた。薄いピンクが圧倒的に多かった。女性たちは思い思いの勝負スーツの上下、男性陣もみんな一様に紺色かグレーのスーツに爽やかなカラーのネクタイといったアナウンサー試験一張羅で臨んでいた。

5人か6人くらいずつに区切って入室を許され、横一列に並んだ学生が、端から順番に氏名と大学名、住所を述べるというのが試験の内容だった。
礼儀正しい入退室、ふるさとの訛りが出ないよう。そんなことに全神経を集中させて臨んだが、恐らく一歩入室した際の一瞬の雰囲気で審査員の手元の資料には○×がつけられていたのだと思う。今となってはそれも理解できるし、当時の私はもう×がついているだろうに一生懸命に住所を噛まずに言い切ることに注力していた。

「丁目」のところで少し噛んでしまいがっくりしながらも、私にはせっかく高速バス料金を支払って東京に来た目的があった。それは、恵比寿にあるアナウンス専門の学校を訪ねることだった。インターネットなんてまだなくて、今回の試験も全て一冊のマスコミ電話帳から住所を手繰ってハガキで資料請求をして、送られてきた用紙に必要事項を記入して送付するという段取りをしているような「シュウカツ」なので、東京のアナウンス学校事情などもほとんど情報がなかったのだけど、既に活躍されている先輩方のインタビューなどを雑誌で拝見すると、多くの先輩方が「東京アナウンスアカデミーで永井先生に教示を得て」というようなことを喋っておられる。これはお目にかからずには帰れまい、と恵比寿を目指した。

その学校はJR恵比寿駅を出て少し迷って10分以内に到着する場所にあった。幸運なことに件の永井先生がおられた。ほんの2分ほど対応頂いた。
「アナウンサーを目指しているけどもう見込みが薄いことを自分でも感じていること」「就職浪人は許されないと思うが何か手立てはないか」
今考えても青臭く、永井先生におかれては何度も何度も耳にされた質問であるとは思うが、永井先生は私の目をみてこう仰った。「第二新卒という採用もありますからね。アナウンスの勉強がしたければ是非いらっしゃい」
この言葉が、輝くような励ましとして私の心に残った。

そのアカデミーに、週に1度の休日である日曜日にきちんと通っていた。「ア・エ・イ・ウ・エ・オ・ア・オ」「拙者、親方と申すは・・」そんなアナウンスのイロハをこの東京で学んでいることがたまらなく嬉しかった。

時に先日、コロナ過と称される自粛期間中に部屋の片づけをしていると、当時の青いテキストブックが出てきた。天気予報の原稿の一文にぎゅうぎゅうに3重線が引いてあり、何かと思うと、今の私とさして変わらぬ美しくもない文字で「東京の気温は28度、まだ5月なのに!驚く気持ち!!」と書かれていた。今も、伝える原点は同じだ。

そんな週に1度のアカデミーに通うことで色々な成果があったわけだがその一つに入口のコルクボードに掲示してある様々な採用情報を得ることが大きかった。そこで、「第二新卒」「中途採用」の募集をくまなく探した。それはそんなに沢山なかったわけだけど、ある新潟の放送局の募集に目がとまった。「第二新卒歓迎」これは、応募するしかなかった。
応募書類の要項は、履歴書と卒業証明書と作文。履歴書はもう何十通も書いているので問題ないし、卒業証明はこんなことも想定して5枚ほど入手していた。あとは作文なのだけど、書く時間がなかった。
月曜から土曜まで営業の仕事をして、日曜はアカデミー。やってやれないことはなかったけれど気にしながら日々の業務を遂行しているうちに、その募集の締め切りが明日と迫っていた。

当時のアパートは中井から曙橋に移っていた。細かくはまた別の機会に改められたいいなと思うのだけれど、その曙橋のアパートに帰ってくるのは毎夜23時頃で。実家から送られてきたのか自分で買ったのかもはや記憶にない、「ソーメン」をめんつゆに浸して食べる夕飯を済ませ、シャワーを浴びれば夢の中だった。それでも、何とかして書き上げなければならない作文。その締め切りは、「7月31日消印有効」とあった。

7月31日。勿論その日も私は西新宿の会社にいた。
当時、最後に残る社員が戸締りをすれば遅くまで会社での作業が許された。そこで私が考えたのが、会社で作文を書きあげて歩いてすぐの新宿西口の郵便局に滑り込みで応募資料を郵送することだった。業務は普段通り22時頃にはパラパラと先輩方は帰りはじめ、「おつかれー、精が出るね」そんな労いに「へへへ」と挨拶しながら時を待った。最後の上司の「あんまり無理するなよ」という言葉に少し心をチクッとさせながら見送ると、まず外に出た。

時間は2時間弱しかない。いざ作文を書き終えても、24時になる前に新宿西口の郵便局で深夜受付の捺印をもらうには少なくとも23時45分までには書き上げなくてはならない。それどころか、封筒の住所を正しく書き終えてきれいに糊付けするには5分はかかるから出来れば23時40分には終えたい。大いに焦りながら、まずは腹ごしらえすることにした。何せ13時過ぎに「からあげ弁当」を食べて以来何も口にしていないので、空腹極まりなかった。とはいえ、どこか店に入る時間などあろうはずもない。

1997年当時もコンビニはあったが、まだ弁当などが充実していた記憶があまりない。あったのだろうか、記憶がない。それでも、何か食べなければと飛び込んだコンビニに。

「カロリーメイト」があった。

地元の大学に通っていたころ、2つ年上の放送サークルの部長が好んで食べていた。学食でみんなで豚汁ご飯定食を食べた後なのに、大学構内の自動販売機で缶コーヒーでも買うようにカロリーメイトを買い、美味しそうに4本全部食べていた細身の部長を思い出す。「まだ足りないんですか?」そう聞く私に、「足りてはいるけどこれ、好きなんだよね。パサパサだけど」そんな部長のメガネの顔を思い出しながらカロリーメイトのチーズ味を買った。

2つ入りの1袋を開けてかじったカロリーメイトは、パサパサした。でも、いつも面白いことを言って皆を笑わせていた先輩みたいにいいことが言える気がした。そうして書き上げた作文を急いで茶封筒に入れて、郵便局に到着した時は、23時57分だった。

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