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聖フランシスコと味わう主日のみことば

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聖書のみ言葉やイエスの姿を読み解くヒントを、聖フランシスコの霊性を心に留めながら、コンベンツアル修道会の神学生とともにさぐっていきましょう。
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#聖フランシスコ

聖フランシスコと味わう主日のみことば〈年間第19主日〉

聖フランシスコと味わう主日のみことば〈年間第19主日〉

主の御使いはエリヤに触れ、「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、40日40夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた(列王記19・7-8)


わたしたちの人生は、〈旅〉にたとえることができます。この世に生まれた時に始まった人生という〈旅〉は、地上での生命を終えて、神の懐に帰る天国に迎えられる時、一つの終着点にたど

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聖フランシスコと味わう主日のみことば〈年間第18主日〉

聖フランシスコと味わう主日のみことば〈年間第18主日〉

イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6・35)。


わたしたちの身体は、口から取り入れる食物によって、生かされています。何を、いつ、どのように食べるかは、身体の健康を維持するために、とても大事なことです。近年の健康ブームもあって、わたしたちはそうした食に関する情報に接する機会が増え、多くの人が

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聖フランシスコと味わう主日のみことば〈年間第17主日〉

聖フランシスコと味わう主日のみことば〈年間第17主日〉

ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう(ヨハネ6・9)。


到底、自分の力の及ばないと尻込みしてしまうような場面や出来事に、わたしたちは遭遇することがあります。そのようなとき、自分自身の未熟さや非力さを自覚しているので、自分はとてもそうした状況に対処できるはずがない、それなら最初から関わらずに手を引いて、誰か別のもっと

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聖フランシスコと味わう主日のみことば〈年間第16主日〉

聖フランシスコと味わう主日のみことば〈年間第16主日〉

イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた(マルコ6・34)

自分とは違う他者を理解し、その人の苦しみや痛みに寄り添おうとするとき、わたしたちは往々にして、自分自身の限界に突き当たります。どれほど、相手を受け入れよう、相手の力になろうとしても、その思いだけではうまくいかないことが度々です。自分も同じように痛み、傷ついているので、それ

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聖フランシスコと味わう主日のみことば〈年間第15主日〉

聖フランシスコと味わう主日のみことば〈年間第15主日〉

イエスは、12人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた(マルコ6・7)


「キリスト者とは何者か」と問うとしたら、その答えは「イエス・キリストによって選ばれ、そのキリストを宣べ伝えるために、この世界に派遣されている者」だと言うことが出来るでしょう。今日の第一朗読の『アモスの預言』では、旧約時代のアモスという一人の人物が、神の言葉をイスラエルの民に語るように神から選ばれたと告白する場面が

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聖フランシスコと味わう主日のみことば〈年間第14主日〉

聖フランシスコと味わう主日のみことば〈年間第14主日〉

イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた(マルコ6・4)。


イエスと弟子たちの一行は、イエスの慣れ親しんだ〈故郷〉である、ナザレにやってきました。〈故郷〉とは、家族や親戚をはじめとして、大人に成長していく段階で、自分自身の人格形成に深く関わった、ありとあらゆる機会や経験が詰まった、わたしたちの〈アイデンティティー〉が育まれた場所です。人間イエスにと

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聖フランシスコと味わう主日のみことば〈年間第12主日〉

聖フランシスコと味わう主日のみことば〈年間第12主日〉

イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった(マルコ4・39)。


風のない、穏やかな日、湖や池の水面がさざ波一つ立てず、まるで自然の大きな鏡のように周囲の景色をそのまま映し出すことがあります。そのような場面に遭遇したとき、その間だけ、何も混じり気の無い透明で澄み切った別次元の世界に居るかのような感覚になることはないでしょうか。この大自

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聖フランシスコと味わう主日のみことば〈年間第11主日〉

聖フランシスコと味わう主日のみことば〈年間第11主日〉

神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない(マルコ4・26-27)。

今日の福音(マルコ4・26-34)では、イエスはガリラヤ湖畔に集まった沢山の人々にむかって、〈神の国〉がどのようなものか、たとえを用いて語ります。そして、イエスはまず、〈神の国〉を〈成長する種〉にたとえます。「人が土に種を蒔いて

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聖フランシスコと味わう主日のみことば〈キリストの聖体〉

聖フランシスコと味わう主日のみことば〈キリストの聖体〉

イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である」(マルコ14・22)。


〈聖なる過越の三日間〉からはじまり、〈主の昇天〉、〈聖霊降臨〉、そして〈三位一体〉という大きな典礼の祭日を祝ってきた教会は、〈キリストの聖体〉によって、この一連の〈祝い〉を締めくくりますが、これは意味の無いことではありません。なぜなら教会は、〈キリストの

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聖フランシスコと味わう主日のみことば〈三位一体の主日〉

聖フランシスコと味わう主日のみことば〈三位一体の主日〉

彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(マタイ28・19-20)。




聖霊降臨に続いて、教会の典礼は〈三位一体〉の神を祝います。わたしたちには何か捉えがたい〈三位一体〉という神秘ですが、しかし、わたしたちに注がれる〈聖霊〉は、この人間の理解を超えた神秘を、わたしたちにも何らかの

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聖フランシスコと味わう主日のみことば〈主の昇天〉

聖フランシスコと味わう主日のみことば〈主の昇天〉

弟子達は出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。(マルコ16・20)。


復活してから40日間、弟子たちの前に姿を現して彼らと共に過ごしたイエスが、ついに、父である神のもとへと昇っていく時がきました。この40日間、イエスは弟子たちとどのようなことを語り合っていたのでしょうか。

おそらく、イ

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聖フランシスコと味わう主日のみことば〈復活節第5主日〉

聖フランシスコと味わう主日のみことば〈復活節第5主日〉

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ(ヨハネ15・5)。


喩えの好きなイエスは、今日の福音(ヨハネ15・1-8)では自らを〈ぶどうの木〉と呼び、わたしたちをその〈ぶどうの木〉の〈枝〉に喩えています。そして、この〈ぶどうの木〉の持ち主であり、〈枝〉の手入れをする〈農夫〉こそは〈父〉、つまり〈天におられ

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聖フランシスコと味わう主日のみことば〈復活節第4主日〉

聖フランシスコと味わう主日のみことば〈復活節第4主日〉

わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている(ヨハネ10・14)。


一匹の子羊を肩に担ぎ、羊の群れを導いて歩く〈羊飼い〉として描かれたイエスは、頼もしくも温かい救い主キリストの姿を彷彿とさせます。しかし、羊飼いは、当時のユダヤ社会ではさげすまれた職業でした。それは、牧草地を求めて巡り歩かなければならない彼らの生活スタイルでは、ユダヤ教の厳格な規則である律法を

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聖フランシスコと味わう主日のみことば〈復活節第2主日・神のいつくしみの主日〉

聖フランシスコと味わう主日のみことば〈復活節第2主日・神のいつくしみの主日〉

戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた(ヨハネ20・26)。


わたしたち人間にとって、誰もが抱く、最もなじみ深い感情の一つは、〈恐れ〉ではないでしょうか。〈恐れ〉を抱くからこそ、わたしたちは不測の事態に対処でき、ある程度安全に身を守って生きていくことができると言えるかもしれません。

しかし、その〈恐れ〉は、度を超すと、わたした

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