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聖フランシスコと味わう主日のみことば〈年間第17主日〉


ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう(ヨハネ6・9)。



到底、自分の力の及ばないと尻込みしてしまうような場面や出来事に、わたしたちは遭遇することがあります。そのようなとき、自分自身の未熟さや非力さを自覚しているので、自分はとてもそうした状況に対処できるはずがない、それなら最初から関わらずに手を引いて、誰か別のもっと能力のある人に変わってもらうか、何か別の方法に変えた方がはるかにうまくいくし、望ましい結果を得られるはずだと、わたしたちは考えます。

しかし、そうした考え方は、どうやらイエス・キリストがわたしたちに望む考え方ではないようです。今日の福音(ヨハネ6・1-15)で、イエスはお腹を空かせた大群衆に、自分たちが今もっているかぎりのもので、彼らの飢えを満たしてあげなさいと弟子たちに指示を出します。ところが、彼らの手元にあるのは、少年が彼らに差し出した五つの大麦のパンと二匹の魚だけです。一体、それだけのもので、どうやって5000人もの多くの人々の空いたお腹を満たすことができるというのでしょうか。これは、常識では考えられないことだと、弟子たちには思えたでしょう。

合理的に、また常識的に考えて、自分には出来ないと考えることは、決して悪いことではないかもしれません。むしろ冷静に状況を判断して、検討した結果、不可能であると結論することは正しいとさえ言えるでしょう。ですが、〈信仰〉は、それでもイエスに信頼して自分自身を預けることを要求するのです。それがたとえ、わずかな貧しいものとしか思えなくとも、です。

少年が差し出した大麦のパン5つと二匹の魚は、わたしたち一人一人が神様からいただいたいのちや賜物のすべてです。わたしたちには、とてもそれが大勢の人々の役に立つものだとは思えないでしょう。まさに、アンデレと同じように「こんなに大勢の人では、なんの役にも立たない」(6・9)と決めつけたくなってしまいます。

しかし、イエスには不可能ということはないのです。イエスは、少年が弟子たちに差し出した物で十分なのです。また、弟子たちには、この少年という〈協力者〉の存在がとても重要でもありました。弟子たちには、この小さな少年の申し出は、何の役にも立たないことにしか思えなかったかも知れませんが、イエスは、この少年の差し出す物を大事にします。

これはわたしたちの場合にも当てはまります。つまり、わたしたちは必ずしも一人ではないのです。おそらく、わたしたち自身がそれほど重要視していないかも知れない協力者が、本当はいるはずです。しかしその協力者は、わたしたちと同様か、それ以上に頼りなく思えて常識的には当てにならないように感じてしまうかも知れません。あるいは反対に、わたしたちが少年の様な立場で、自分の持っているものをすべて、イエスの協力者に差し出すことで、大いに役立つことがあり得るのです。

イエスは、小さく貧しいものが大好きです。それが弱々しく、頼りなければ頼りないほど、それを使ってご自分のなさりたいことを果たされます。なぜなら、そうすることで、それは人間の業ではなく、神であるイエスの業であることが明らかになるからです。だから、イエスはみすぼらしいと思われる方法をつかって、神の国の実現を人間の手にゆだねられるのでしょう。

アシジの聖フランシスコは、そのようなイエス・キリストの道具として、まさにうってつけの存在だったのだと言えるでしょう。フランシスコの次のエピソードは、そのことを物語っています。世の人々が、なぜフランシスコをもてはやすのか、ある弟子が少し皮肉っぽくフランシスコに尋ねる場面での会話を紹介しましょう。

「どうしてまたあなたに、どうしてまたあなたに、どうしてまたあなたに」。

聖なるフランシスコは答えました。「一体全体、あなたは何を言いたいのですか」。
兄弟マッセオは言いました。「わたしが言いたいのは、どうしてまた世界中の人があなたの後について行き、また誰もがあなたに会いたがり、あなたの話を聞きたがり、あなたに従いたいと思うのか、ということです。あなたは立派な体格をしているわけでも、偉大な学識を修めたわけでも、高貴な身分でもないのに。どうしてまた、世界中の人があなたの後に付き従おうとするのですか」。

これを聞いた聖なるフランシスコは、霊において喜び、顔を天に向けて、長い間、心を神に奪われたまま立ち続けていました。その後、我に返ると、ひざまずき、神を賛美し、感謝をささげました。そして、熱く燃え立つ霊をもって、兄弟マッセオに向き直ると言いました。

「どうしてわたしなのか知りたいのですか。どうしてわたしなのか知りたいのですか。どうして世界中の人がわたしの後に付き従うのか知りたいのですか。これをわたしに賜ったのはいと高き神の御目によることです。〔神の御目〕はあらゆる所で正しい人と罪人たちとを見つめておられます。ところが、このいとも聖なる御目は、罪人たちの中で、わたし以上に惨めで、取るに足りず、大きな罪を犯している物を見出されなかったのです。神が行おうとなさっている驚くべきみ業を行われるにあたって、これ以上惨めな被造物を地上に見出されなかったのです。その故、この世の気高さ、偉大さ、力強さ、美しさ、知恵深さといったものを恥じ入らせるために、わたしをお選びになったのです。あらゆる徳とあらゆる善とは〔神〕からのものであり、被造物によるものではないこと、いかなる人も〔神〕のみ前で自らを誇ることはできないことを知り、誇る者は主において誇るためです。すべての誉れと栄光は永遠に〔主〕のものなのです」。〈『聖フランシスコの小さき花』〉※1 


イエス・キリストは、フランシスコの単純な貧しさ、小ささを喜ばれ、その貧しさを用いて、大変大きなことをなさいました。わたしたちも、自分自身の小ささ、弱さをそのまま素直にイエスさまにお献げいたしましょう。きっと、イエス様は、そのようなわたしたちもご自分の〈神の国〉の実現のために、大切に用いてくださるでしょう。


※1『アシジの聖フランシスコ伝記資料集』フランシスコ会日本管区訳・監修、教文館、2015年、684-685頁。

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