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読む前感想「龍樹」

━━ 龍樹(ナーガールジュナ)、大昔のインドの僧。大乗仏教の祖とかいわれている人 ━━

現代人は、差別に対して非常に敏感で、それと思われることには声高に非難をする。なのに、優劣をいつも気にしていて、日々、優越感を得るために生きているようにうかがえる。まあ別に、悪いことではないけど……

人は、それぞれに世界を持っていて、同じ物、同じ出来事を見ても頭に描かれる映像は、それぞれ。でも、常識というものが共通のビジョンを心に浮かばせ、それぞれ共感し合いながらコミュニケーションをとっている。

それぞれが生まれ育った環境や、生まれ持った体の構造、育っていく過程でのさまざまな経験などによって、それぞれに心に映る世界が出来上がっているのだけど、時々ぼくは、多くの人と大きく「見え方」が違ってしまうようで、意見が異なり言葉が通じないことがある。
決して、自分の「見え方」が正しいとか優れているとか言いたいわけではなく、ただ単純に「違う」というだけなんだけど、それすら伝えるのが困難で、その度に強いストレスを感じてしまう。
たぶん、ぼくだけではないと思うが。

この本、「龍樹」を買ったのは、そうした「違った見え方をする理由を説明できる言葉が見つけられるかも」と思ったからだけど、おそらく、楽しい読書とはならないような気がする。難しすぎ。まだ少しも読んでないんだけど、ページをペラペラとめくっただけでそれが伝わってくる。

釈尊が伝えようと思ったことは、おそらく、そういう難しさではない。

仏教では、目で見て、または耳で聞いて、匂いや味や、体に感じたり、そうして心に観ずる世界は、3つの捉え方によって生まれている、又はそのように分けるとわかりやすい、としている。
「空観(くうがん)」「仮観(けがん)」「中観(ちゅうがん)」と。

「空(くう)」などと聞くと「心頭を滅却すれば~~」とか「究極の空を求めて、云々」などと小難しく考えがちだけども、要は「なんにもない」ということで、老若男女誰だって普通にできている「ものの見方」の一つだ。
「信じる」なんていう、実体がないからこそできる観念も「空」という見方から成っているとぼくは思う。

ものを見るのに、何かの基準があった方が、心に世界は描きやすい。それがあったればこそ、ともいえる。そうした基準というか起点を仮に用いて描かれた世界を「仮観」とし、目に見えるように形にしたもの、言葉や文字、法律やルールなんてのもそうだし、科学的なことはほとんどが「仮観」という見方から成っている(とぼくは思う)。
かつて、「空観」による捉え方の行き過ぎがあった宗教の時代と同じように、現代は「仮観」というものの見方に偏りが強すぎるんじゃないだろうか。はっきりと説明できるものだけが真実とみなされる。
決してそんなことはないんだけど……

で、この本は、第三の目とでももいおうか「中観」というものの解説をしようとするものである(と思う)が、これは「説明しえないもの」であるために難解を極める。いわゆる仏教というものは、ここにその真髄があると考えていいじゃないか。
が、もちろん「中観」という捉え方も人間が普通にできている普通ことで、
「説明が不可能なこと」を無理やり説明しようとしているからややこしいってだけだ。説明なんてしようとしなければ、なんてことなく誰もが自然にしている観じ方である。

だからもちろん、「この中観こそが真実である」なんてわけではなく、普段している「ものの捉え方」を3つに区切った内の1つってだけ。
だけど現代人の常識は、あまりにも「仮観」に傾きすぎていて、仮観的な(たとえば科学的な)見解しか認めないから、無意識の中に隠されてしまって、その存在を浮かべづらい。

ぼくは、中観という捉え方を、なんとなくわかっているつもりでいるけども、この本で、もっと具体的に見つけてみたい。

常識

我々が見て、感じて、脳裏に描いている(観じている)ものは、決して説明ができるものだけでできているわけではない。形のあるものだけでもなく、ないものだけでもなく、そんなものらを心に映して、自分なりの世界観を作っている。

みんなでコミュニケーションを取り合って成立しているのが「社会」というもので、その中では「常識」というものがあるからこそ、それぞれが成り立っているのは確かだ。
ただ、常識は真実とは違う。その時々に生まれる人々の共通の感覚、意識であって、時には大きく真実からそれていることは周知の事実ではないか。

かつて、西洋ではキリスト教が常識だった。
「信じる」ということはとてもいいことだ。その心があればこそ、人は前向きに生きていられる。でも、あまりにもそれだけに固執してしまったのがヨーロッパ中世の宗教界な気がする。免罪符なんてものが臆面もなく出されたり、魔女裁判なんていうひどいことが横行しても、それが常識であったために人々は盲目にそれに従っていた。違和感すら持たずに。

やがて、そのひどさに人々は気づきだし、ダーウィンやガリレオなどの見解に目を向け始めた。でも、当初の常識では、まだまだ異端でしかなかったはず。
「神を信じる」ということに行き詰まりを迎えたのは、「それのみが真実」という常識に到達した結果ではないだろうか。それだけではないのに、「信じること以外は悪」と決めつけ過ぎたために、真実を曲げてしまった結果、霧散してしまったのではないか……

それ以前に科学がなかったわけではない。地球は球体であることも知っていたし、おそらく、コペルニクス以前にも地動説を思った人だって少なからずいたはずだ。記録に残っていないというだけで。
間違ったことなど少しもないのに、「お前は間違っている」と決めつけられた人たちがどれほど悲しかったか!
「それでも地球は回っている」とこぼしたガリレオの言葉は、常識の反対側に追いやられた人にしか伝わらない言葉なのかもしれない。

常識とは、「みんなが共通に抱いている感覚」で、それはみんなが作った結果でもある。その時々によって変化だってするし、未来永劫絶対に続くというようなものでは決してない。

そもそも、人には優劣なんてない。上下とか、勝ち負けとか、善悪だって、そういうものは全て、仮に設けられた(誰かが決めた)基準から生まれているだけではないか。

「中観」というものの捉え方が正しいとか、それこそが真実だといいたいわけではないが、第三の違った観じ方が存在することをあらためて知る必要があるのではないか。「仮観」に盲信してはならない。

科学の目は絶対に必要だ。目に見えるように法律を整備したり、事実をわかりやすくするために学校教育を充実させるのも大切なことだと思う。でも人は、「正しい」と思うことに邁進してしまうから、その部分が膨らんでしまい、他の「観じ方」を見失ってしまうものだ。

優劣や勝敗などがあったればこそ「生」の意味があるのだし、そんなことに一喜一憂されるのが人生の醍醐味だ。でも、それを常識化してしまうと大きな間違いが生まれてしまうのではないだろうか。……というか、常識は真実ではないことを思い出さないと。

常識は真実ではなく、あくまでも常識であって、それさえちゃんと踏まえて向き合えば、とても重要な話し相手なのだと思う。
そして、「信じる」ということだって、生きていく上で最重要なことだとぼくは信じている。

……と、
講談社学術文庫 中村元著「龍樹」を前にして浮かんだ「読む前感想」なんだけど、なんだかちょっと気分が暗くなった。
でも、読んだ後の感想は、たいがい読む前に頭に浮かぶそれよりも高揚するものだから、ちょっとは期待して読み始めたい。でもちょっと長くなりそうで、読み終わるのは、いつになることやら。

いったい、どんなことが書いてあるのだろう……

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