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感想 「龍樹」

少し経つけど、「龍樹」という本に一応目を通した。何が書いてあるのか、さっぱりわからなかった。まあわからないのは最初からわかっていたことだけど、まあそれでも一応、目は通せた。

とにかく専門的な用語が多過ぎて、スラスラと文章が頭に入ってくるような類の本では全然なく、ぼくはその辺のところには少し明るいところがあるんだけど、わからない言葉や概念などはすっ飛ばして、ただただ目を通して、自然に頭に浮かぶものを「思い」ながら読み進めた。

まあ楽しめる読書ではなかったけど……重要なことが書いてあることは確認できたので、これから何度も読むことになると思う。

龍樹という人は、西暦200年ころ仏教が繫栄していたインドに生きていた人で、名前は知らない人が多いと思うが、その言葉や理念は、名のある超有名な僧や哲学者などを介して知っている人も多いかも。

「中観」というものの見方が特徴的で、でその後、その影響を受けた仏教者たちは中観派などと呼ばれ、大乗仏教の根幹をなしている。
中観とは、3つのものの見方の一つで、仏教では「空観」「仮観」「中観」という見方によって頭に「どう見えているか」が作られているとされていて、中観派とは、その中観を重要視しているということ……だと思う。

でこの本は、龍樹(ナーガールジュナ)の表した「中論」を解説し、理解するために助けになるようなことを紹介している前半300ページ。「中論」の翻訳文が100ページ近く続き、龍樹のその他の作品と思われるものの翻訳文が70ページくらい、で構成されている。
ただ文字を眺めて読み進めただけなのでぜんぜん理解できていないが、かなり理論的に事細かく説明がされている。


ブッダの悟りとは、夥しい理論を理解しなければならない、又、ことごとく体を痛めつけなければならない苦行の中で、ポッカリと「そんなこと必要ないな」と行き着いた結果みたいなところがあると思うが、その「悟り」を説明しようと思えば、また夥しい理論が必要となるし、苦しい修行も必要になったりと、、なかなか理解しがたいものだ。

龍樹の「中論」という作品(でいいと思う)を読んで、漠然と頭に浮かんだのは、「空」というものが真実であることを「中」という見方で見つめ、「仮」である言葉を使い文章で表しているんだなぁ、ということだった。

この作品(中論)は、「一切は『空』である」という内容だけど、龍樹が頭に浮かべ作品で伝えたかったこととは、「空」「仮」「中」の三つの見方の織り成すものであるから、「空」というものだけを抜き取りリスペクトし過ぎるのはちょっとヘンだ。

読んだ人がそれを説明しようと思えば、どうしてもそうなってしまうが、それは、伝えたいことは「説明」ができない証拠なんじゃないか。そして、その説明できないものが「中」という見方だとぼくは理解している。
で、もちろん、その「中」だけが正しい見方というわけではなくて、頭の中に見える映像は、三つの見方のバランスによって世界が作られている。

ソクラテスは自分の考えを文字に残さなかった。言葉を「文字」という説明できるもので残すのは本当の意味が伝わらないと判断したからだ。
インカ文明などのように、文字を知りながら、あえて文字を使わなかった大文明だってあるんだし、少なくとも、文字を信用し過ぎるのは間違っているといえる……とか思う。

芸術なんてものだって説明はできないし、サンテグジュペリの言った「大切なことは目には見えない(説明できない)」なんてモロそのままだ。
セザンヌが毎日探しに行ったモチフなんてものも、ボードレールのいうモデルニテとか、哲学でよくいう形而上だのイデアだの、説明のできないものに名前を付けて、目に見えるように形にしているだけではないか、、

でもみんな、そんなものを必死に表そうとする。
もちろん、頭の中に浮かぶ、「何にもない(空)」という空白と合わせて、目に見える画像や言葉などのフレーズ(仮)を使いこなして、伝えたい人に感じてもらえるように形にする。でも「中」という概念は、普段みんなが普通にしている「ものの見方」の一つで、説明ができないってだけ。

現代社会は、全てを説明できるようにしようとしている。現代人は、全てが説明可能なものだと思い込んでいる。仏教でいう「仮(観)」というものの見方に洗脳されているような気がする、、、

……というようなことが、読んでいる間ずっと頭を行ったり来たり通り過ぎていて、ちょっと、書いてあることに批判的な心境だったようだ。まあ、難しくて理解できないことに対する反発心なのかもしれない。

とにかく、「説明できないこと」を少しでも説明できるように、何度も再読して行きたいと考えている。買ってよかった。

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