見出し画像

タクシーと、東京と、(長編エッセイ)


東京ワッショイ!

 2020年、東京はフィーバーするはずだった。
 ところが、新型コロナウイルスが流行してしまい、オリンピックどころか、通常の生活すらできなくなってしまった。やがて政府からは外出自粛要請があり、そして緊急事態宣言に発展し、その時期東京からは、あんなにうじゃうじゃいた人影がすっかりと何処かへ消えてしまった。新宿も渋谷も浅草も上野も銀座も日本橋も池袋も、今までの混雑の意味がまるでなかったかのように、建物だけが取り残され、ガラガラの山手線は無表情にぐるぐると回り……ぼくらタクシーもまた誰もいない街に置き去りにされた。まさかこの時代のこの東京で、こんな事態に出くわすとは夢にも思っていなかった。当然ぼくも、その真っ只中にいて、空車という赤い灯りを点けっぱなしで、空っぽの夜の街をあてもなく彷徨った。

 もちろんそれは東京に限ったことではない。ただ、東京にあるものって巨大過ぎたから、ぽっかりと空いてしまったその巨大なギャップにショックを受けるのも当然だった。あれよあれよと仕事にすら出られなくなってしまい、テレビやネットの情報だけが唯一の頼りとなって、それを信じる限り、政府の要請に従わなければ世の中は終わってしまうと判断するより他なかった。しかし、ぼくには信じられなかった。ウイルスの恐ろしさを信じられなかったわけではなくて、そうすることが唯一の方法だとはどうして思えなかった。

 しかし、社会には沿わなくてはならない。たくさんの隣人がそうしたいと思う以上、その不安を煽るような行為はゆるされないし、したくない。だからジッとしていた。でもあまりにもストレスがたまって、もうどうにかなってしまいそうになって、こっそりとタクシーに乗り込んで、空車という表示に火を点けて、街を流しに出かけた。

 手をあげてくれる人なんて一人もいなかった。この際だから、普段人混みで通行できないところを走ってみた。本当に人はいなくなったのか、確かめたかったから。ちらちらと人影はあった。どこも同じだった。もう少しいるかと思った。本当に疎らに、ちらちらとしたものだった。「渋谷センター街を行ってくれ」と言われたことは今まで一度もない。無理だからだ。でもこの時、入り口から突き当りまで、たった一台、自転車に乗る若者が走っていただけだった。外には、一人もいなかった。渋谷は東京に出て来て初めて住んだ街だけど、こんな惨状を目に映したことは只の一瞬だってない。もうあの東京は死んでしまった……

 とまあ、一時期はそんな具合に超落ち込んでいたんだけど、そのままであるわけがない。実際そんな状態は一時的なものだったし、現実はその時だけってわけではない。せっかく始まった人生なんだから、生きていく以上、後ろばかりを見ているわけにはいかない。うじうじ考えてたって何事も始まらないし、そもそも考え過ぎだったんだ。

 ちょうどそんな考えにたどり着いた時、そんな気持ちをさらに前向きにアシストしてくれる曲に出会った。知る人ぞ知るロック界の大御所、遠藤賢司の「東京ワッショイ!」。「知る人ぞ知る」なので、ぼくは知らなかったんだけど、ひょんなことでこの人を知り、でこのロックンロールをこの時期に聴けたのは、すこぶるラッキーだった!

 ♪「甘ったれるなよ!」♪「文句を言うなよ!」♪「嫌なら出てけよ!」♪ 

 いきなり叱られて始まるこの曲は、紛れもなく東京の応援歌なんだけど、最近やたらと多い「がんばろう〇〇」みたいな思いやりの押し付けじみたものとは正反対で、思いっきり突き放されて始まる。まあこの曲は、今回の非常事態に向けて作られたわけでは全然ないけど、でも、だから、東京に包まれながら東京を疑った人間の心に突き刺さる。 

 ♪「俺は好きさ東京っ!」「OH~わが街っ!」♪「OH~わが友ぉ~」♪「トゥルルトゥトゥトットットット 東京っ! 東京っ! 東ぉ~~京っ ワッショイ!」♪

 シンプルなロックンロールの波に乗って、その代弁者は、東京東京東京東京東京東京とマシンガンのようにまくしたてる。そしてその大真面目な叫び声に思わず笑みが込みあがって来て、頭の中の「考え過ぎ」が吹き飛んだ。実に爽快な気分だった。

 聞くところによると遠藤賢司は、「東京はゴミゴミしてる」とか「公害が」とか「薄情だ」なんて、やたらと文句を言う、すぐに他者のせいにばかりする人たちに対して腹を立てて、でその叫びを一曲にしたためたのだとか。茨城県出身の彼の心情は静岡県出身のぼくにも通ずるところがあるし、東京とのスタンスの取り方が似ているのでよくわかる。ぼくが今回、「あの東京は死んでしまった」なんて哀れんだりしたのは、まったくのお門違いだった。東京の文句を言う輩と同じだということを教えられた。別に、東京は東京だ。こっちに合わせようなんて思っちゃあいない。他人のせいになんかしないで、そのままの東京に向き合えばそれでいいじゃないか!

 ♪「いい時は最高っ!」「悪い時は最低っ!」♪「いつでもどっちかさ」「だから嘘はつかない いい奴さ!」♪「今日は気分はどうだい?」「東ぉ~~京っ! ワッショイ!」♪

 ぼくのしている個人タクシーには営業範囲が定められていて、そのエリア内に居住することが条件となっている。だから個人タクシーをしている以上、東京以外に住むことは叶わない。タクシーとは切っても切れない間柄だし、だから東京以外に住むなんて考えたこともない。タクシーをやめるつもりなんてさらさらないし、東京にはいつまでも住み続ける。だからもちろん、タクシーにも東京にも並々ならぬ愛情を持っている。死ぬまで仲良くするつもりだ、どっちとも。

 ただ、今回の非常事態は全世界的な大問題で、そして、これだけのブランクが空いてしまったわけだから、回復と同時に、たくさんのものがリセットされるはずだ。これまでぼくらがせっせと積み上げたタクシーの常識だってガラリと変わってしまうに違いない。新しく始まったタクシーの常識からぼくは、「旧タクシー」と呼ばれることも……まあ、それはそれでしょうがないけど、タクシーを始めてから二十年、タクシーと過ごした日々を記録した数々の文章がなくなってしまってはたまらない。だからこの際、それをここに閉じ込めて、なくならないように画策してみたい。そのためにこれから、タクシーと東京と過ごした春夏秋冬をザっと振り返ってみようと思う。

始まりは、やっぱり「春」

 初めて乗務した時のことは、よく憶えている。午前中はバカボンのパパによく似た顔の先輩が隣に座って指導する下、安心と不安がないまぜな中、何がなんだかあっという間に過ぎてしまった。一旦営業所に戻って昼食を食べ終わると、もうここからは一人で。乗車拒否をしようが屁をコこうが自由な身となって、他人様からお金を頂いて目的地まで運ぶという、まさしくここがぼくのタクシー人生のスタートだった。二十年も続くなんて夢にも思ってなかったが。

 営業所を出て五十メートルも行くと、もう手をあげているお客さんに出くわした。緊張する猶予もなかったので実にスムーズにドアを開けられた。オタクっぽい小太りの男だったが、ぼくは挨拶をして、習った通りに「今日初めてタクシーに乗っております。何かお気づきのことがございましたら言ってください」などと笑顔で言った。すると、「暑ぃーよっ」と今思えば信じられないような言葉が返って来て、ぼくは慌ててエアコンの温度を下げた。で、そのアキバ系男子は「アンタはずっとココにいるからわかんねぇーかもしれねぇけどサ、客は外から来んだからよぉ……」なんて講釈をたれ出して、目的地までそれは続いた。こっちは先輩乗務員から「初めての客から一万円もらったよ」だの何だのといいことばっかり聞かされてたもんだから、もうビックリして目が点のまま、タクシーの口開けを済ました。でも、初っ端からこんなふうにタクシーの現実と向き合わされたからこそ、いち早く順応できたのかもしれない。まあでも、その次、またその次と乗って来るお客さんは、みんなぼくをタクシー運転手として温かく迎え入れてくれて、七月の超暑い日のことだったけども、実に清々しい春の気分だった。

 始めて間もない頃ってのは本当に春みたいで、次々に出会う「タクシーならでは」な思い出には春が感じ取れる。普段テレビでしか見られないような人と普通にやり取りをしたり、遠回りをして怒られたり、同業者からケンカを売られたり買ったり、それまで縁もゆかりもなかった街にかかわったり……もう今では麻痺してしまっている日常だけど、この頃って本当に全てが新鮮に感じられていた。些細な失敗なんか、かえってよい思い出とさえ書き換えられるほどだ。
 だから、もしかしたら大きな失敗だって……、一つ振り返ってみるか。 

 深夜0時頃、芝浦のとあるビルの横で客待ちをしていた時だった。急におなかに差し込みが来て、でも先頭だったから抜けるのはもったいないと我慢してて、でもヤバかったから苦渋の決断をしてそこから離れた。

 この頃ぼくはもうベテラン個人タクシー運転手でトイレの場所はどこにどんなのがあるのかは把握済み。東京には真新しい共同ビルや高級ホテルや新品の公衆トイレだって至る所にあって、夜中だって心配はない。でもこの時は緊急だったのでレベル5の公園のトイレに向かった。
 先頭で抜けるのはもったいない、とあんまりギリギリまで頑張ったからか、信号待ちの時ちょっとチビっちゃって、まあそれくらいぼくくらいの年齢の男だったら誰でもあることだけども、この時ぼくは中古ながらも車を買ったばかりで、シートを汚しちゃもったいないと尻を浮かして踵と背中をテコにしてシートを守って、でも信号が青になって、つま先でアクセルを踏んだ。進まなきゃもったいないし、シートを汚してももったいない。ぼくは三つ以上のことは一緒にできない質だから、肛門をしめる意志力が散漫になってしまって、でもって腰を浮かせて足を突っ張ってるもんだから腹筋は力まざるを得ないし……もう全部出しちゃった。なさけないったらなかった。
 全て「もったいない」のせいである。世間では「もったいない」をいい意味でよく使うけど、ぼくはいつもこの「もったいない」のせいで失敗してしまって、世間が「もったいない」を推奨するせいだ。でも失敗はここで終わらずまだ続きがあって、そっちの方がぼくには悪夢だった。

 腰を浮かしたまま這う這うの体で公園のトイレにたどり着き、障害者用の広い個室に腰砕けの実にみっともない格好で飛び込んだ。幸い、東京といえども真夜中のベイエリアには人けもなく、誰にも見られなかった、たぶん。
 で、その中でのキレイにする作業はここでは端折るけど、そりゃぁもう大変だった。でも考えるべきはその後のことで、トイレを出て車までのおよそ四十メートルをどうするかだった。上半身はまるっきり無事だったけど、ズボンもパンツも、もう一度はくくらいだったら死んだ方がましって感じだったし、かといって下半身フルチンで走る姿を誰かに見られたら死にたくなる。もし警察に発見されたら呼び止められるだろうし、まあ事情はわかってくれるだろうけど、そんな姿で弁明している自分を想像するともうたまらない。だから腕を組み、考えた。ハッと閃いて、着ていた上着のフリースを腰に巻いてみた。が、前を隠しても後ろを隠しても、どう見ても変態。ズボンのようにはいてみたけど、腕の部分が細くて腿まで通らず、こんな状態で転んでそこを見られたらそれこそカッコ悪いし……、でもそんな時今度こそハッと閃いて、ワイシャツの下に着ていた長袖のTシャツをはくことを決断。袖の伸縮性は十分で、まあ丈は短いけど上までスッポリ、腰から腿にかけてのタプタプなところはまるでニューヨークのダンサーが練習用のスパッツみたいなのをはいているようで、これなら完璧だ。フリースのファスナーを首まで上げて、ズボンとパンツは置き去りにするわけにいかないからトイレットペーパーでぐるぐるに包んで、いざ外へ。

……と思った時、足音がして、隣の男トイレに人が入る気配。耳をそばだてて、立ち去るのを待ち、十分に時間を置いてから、そぉ~っとスライド式のドアを少し開け、右を見て、すぐ左を確認して、ヨシっとばかりに駆け出すと、真正面にさっきトイレに入ったヤローがまだタバコを吸って休憩してやがって、近くのタクシー乗り場でたまに見るタクシー運転手だった。咄嗟に「ナメられてたまるか!」と落ち着いた素振りで堂々とゆっくり歩いて通り過ぎた……んだけど、そいつの目線はあきらかにぼくの下半身で、でも振り向かず車に一直線するしかなかった。ふと自分の下半身に目をやると、ぼくの姿はどうひいき目に見たって長袖のTシャツをはいたヘンな男だった。右手にはトイレットペーパーに包まれたズボンらしきものを持っているし、ウンコ漏らしちゃったてのは一目瞭然。まあ下半身フルチンで走る姿を見られるよりはましだったけど……ったく今どきタバコなんて吸うなっつうの。

 法人運転手だった頃、新人運転手が入って来るとやたらとトイレの場所を教えるスキンヘッドの強面の先輩がいて、よく「この仕事をする上でよぉ一番重要なことだろ、なあ?」と大真面目に相槌を強要してきたんだけど、怖いから真顔で頷いて、でも心の中ではプッと吹き出し、居なくなってからみんなに「トイレ先輩がまたトイレ講釈ぅ~」なんてバカにしてたんだけど、あのハゲをバカにしたバチだったのかも。 

 ……まあ時が経っても繕えないような失敗もあるけど、経験不足などによる間違いや失敗は「春」という季節が何とかしてくれる。それはもちろん、ぼくの心の中での処理の仕方なので他人様がどう思うかは別だけど、春という季節って「まだ始まったばかり」ということで、どうにでも取り返しのつく時期なように思う。そんな春が、青春につながっていく。

夏は盛り

 春はやがて夏になる。それはもうすでに決まっていることだから揺るがない。当然ぼくのタクシーキャリアにも春が訪れた以上、次なる夏がやって来た。人間の成長の過程に当てはめれば、青春時代なんてふうに言い換えられるかもしれないが、まあ、覚えたての頃ってのは本当に自信過剰で、で、何かとイキがってしまうものだ。覚えて間もないんだから浅はかに決まっているのに、それを他人にまで押し付けてしまったりと自信満々で、だからその分、恥ずかしい過ちを犯すものだ。でもそれは、次の季節へステップアップするためには必要な過ちなのかもしれない。とにかく夏は、大いに、元気に過ごさなければ次へは進めない!

 ぼくたちの仕事は一度外に出てしまえば、あとはもうそれぞれ自由にやり方は任されてしまうので、小ズルいことをする人は多いし、血気盛んな青春時代って、「割り込んだ」だの「順番を抜かした」だの「俺の客を取った」だの何だのかんだのと運転手同士で衝突しがちで、いい歳したオッサンが中学生のように「ちょっとそこのビルの裏まで来い」なんてことになって、まあ拒んだり拒まれたりで決闘になったことなんてないけど、つかみ合いくらいには何度かなった。でも、「またくだらないことをしてしまった」と後悔し、だんだんと少なくはなってはいく。でもまだ、たまぁーに夏のギラギラした太陽が顔をのぞかせることがあって……でも今はもうホント、たまぁーにだけ。

 お客さんとつかみ合いになったことは今もってないけど、怒鳴り合いになってしまったことは三回あった。二十年で三回は多いか少ないか微妙で、「そんなことあるわけないじゃん!」と言う人が大半だと思うけど、「え~三回しかないの~?」と訝しく思う人もまたたくさん。まあその人その人の気性によって常識は異なるし、それにもちろん、お客さんだって悪い人はたくさんいるから、密室でその本性を出されたら立ち向かうより他仕方がないし……まあ少ない方なんじゃないかとぼく的には思っている。

 ぼくは基本的にはヤギみたいにやさしい人間だから相手から何かを吹っ掛けられない限り争いになんてならない。でも仕掛けられたら、ヤギだって怒る。怒ればヤギだってなかなかなもので、気の弱いライオンぐらいは怖気づいてくれたりするんだけど、一回目の怒鳴り合いは、ぼくの迫力に相手のお客さんも最後は「まあ、まあ、そんなに怒るなよ~」と立場は上ながらもぼくの言い分を聞き入れてくれた。まあ寝て起きないお客さんが不機嫌に八つ当たりして来たのが始まりだったんだけど、こちらに非は何もなかったから当然だった。それにぼくはちょっと気の強いヤギだったし。

 二回目の時は、たぶんお客さんは悪くなくて、そしておそらくぼくだって悪くなくて、おたがいのタイミグが少しズレていたために起こってしまって、それが徐々に燃え広がって、最後にはどちらも引くに引けなくなって怒鳴り合いに発展した不必要な争いだった。

 ある日の夕方、中目黒辺りで、ぼくは山手通りを品川方向に向かって走っていた。別段何も考えてなくて、穏やかな気分だった。同じ年くらいのサラリーマン風のスーツ姿の男の人が手をあげていて、普通にドアを開けた。「代々木駅の方まで」と言い、こちらの挨拶にも普通に返してくれたし、お客さんも別に普通だった。ただ、代々木は逆方向だったから少し「えっ 逆じゃねーかよ」とは思ったけど、まあそれくらいはよくあることだし「逆なのでUターン無理だから左から回りますねー」とフランクに言った。お客さんは「えっ逆?」と小首をかしげ、でも「お願いします」と。で、回りながら「代々木はどっち口の方ですか?」と聞くと、「えっそんなこと今必要?」って感じで、面倒くさそうにごそごそカバンを探ってから、「……あっとこれかな、住所で言うと千代田区~~」というので「代々木なので千代田区ではないですよ」と遮った。なんか雲行きが怪しくなってきたから車を止めると、「いや、確かに千代田区だよ」とお客さん。ぼくは「代々木駅は区の境だけど渋谷区か新宿区ですよ」とこの頃はもう十分に経験を積んでいて道には詳しいって自負もあったし、自分には間違いがないことに確信があった。だからやれやれという感じで「じゃあその住所をナビに入れてみましょうか?」というと「わからないんだったら最初からそうすればいいんですよ」と少しムキになって来て、ぼくもちょっとムッと来た。でまた、「千代田区麹町~~」と言ったところでハッと気づいて「もしかして四ツ谷駅ですか?」と遮った。するとお客さんは「そうだよ! 言っただろう」と命令口調になって来たから、「代々木って途中でも確認しましたよね」と言い掛けると「客が喋ってるんだから黙って聞け!」と更に遮って、だからぼくも「お客だからって何言ってもいいわけじゃない」とだんだん語気も強くなって来て、お客さんは「降りる!」と言うからぼくは料金を請求して、お客さんは「お金取るのか!」と困り、でも「じゃあ乗ってく! 行けっ!」と言うから今度はこっちが困って、もう「お前が間違えた!」「いやそっちが!」と子供のケンカみたくなって、「会社に電話するぞ!」と言うから「どお~ぞどぉ~ぞ!」というと「お前がしろ!」「なんで? そっちのことだろ!」まあお客さんの方が掛けて、で今度は会社の人が困った。だって、電話に出るなりお客さんは「おい! おたくの会社は運転手にどんな教育をしてしてるんだ!!」とがなりたてて、「お客のいうとおり何でもするのがサービスってもんだろうが!!」とか無茶苦茶いい出すし、その後ろでぼくが大声であーだこーだ言い訳してるんだから、たまったもんじゃない。ただ、電話に出たのは人生経験豊かな内勤の仲のいい元先輩乗務員だったんだけど、この人すごく口がうまい人で、「そっ それはどうも! 大っっ変、申し訳ありません~」と大袈裟に謝りながら事情を探って、でも僕の正当性もちゃんと話し、でも手っ取り早く終わらせるわけでもなく、お客さんに怒らせるだけ怒らせて、最後には「もうわかった。帰ったらちゃんと言って聞かせて下さい」と言わせ、納得させちゃった。

 ぼくは、降りてくれれば助かる、という期待を込めて「お金はいらないので降りますか?」と言ったのだけど、お客さんは「お金は払うので最後まで行って下さい」と丁寧に言い、針の筵の空気をぼくに味わせることを選んだ……かに思えたが何事もなく目的地に着いて、普通に支払いをして、しかも「ありがとうございます」と言って降りて行った。

 今こうして振り返ってみると、このお客さんはかなりスッキリした顔をしていたので、おそらく普段、かなりのストレスが溜まっていたんじゃないかと伺える。でもこれだけ滅茶苦茶に怒れたのもぼくが頑固に謝らなかったからに他ならないし、ぼくのおかげで深刻な事態を事前に防げたんじゃないかとも……調子いいかな。まあ、タクシー運転手という、怒られる立場の人間が怒られるような振る舞いをするのは、怒ることが出来ずにストレスとしてたまってる人にとって、かなり重要な役割なのではないだろうか。怒られる本人が言うのもあれだけど。

 三回目の時は、忙しい金曜の腹ペコの夜のことで、タクシーを探す人があちこちにいたけどもご飯を食べる暇もなかったから振り切って、回送表示で五反田のガード下のうどん屋に向かっていた。
 で、そのうどん屋に着いたからそこに止めようと車を寄せると、丁度そこに坊主頭の小柄な男が絶妙なタイミングでヒョイっと出て手をあげて、ぼくの車に乗ろうとした。もうこっちはうどんを食べる脳になってるから断ったけど、向こうもやっとタクシーが止まってくれた脳になっちゃってて、ふざけんな! て感じだったから、もうしょうがなく乗ってもらったんだけど、コイツは「カジノで負けた」だかで「二千五百円しかないから行けるとこまで」ということで、でも向かっている間に、「二千五百円で家まで行ってくれよ」とか言い出した。たくさんのお客さんを振り切ったっていうのに割引までする必要なんてまるでないし、それにこっちは腹ペコでイライラしてるからぞんざいに断ると、向こうもぞんざいにされて、しかもカジノで負けてイライラしてるから突っかかって来て、ぼくは突っかかって来られると対応してしまうヤギだから……もう走りながら大ゲンカになってしまった。もうお互いを誹謗中傷合戦で、でも「おら! そこ右だ!」「わかってらー! さっきも言っただろうバカか!」なんて具合にちゃんと目的地までは行けて、結局コイツお金持ってやがって、またそこで揉めて、でもちゃんともらって、「ありがとうございましたって言え!」って言うから大声でそう言って、そしてドアを開いて降りてもまだあーだこーだ言って来るから、一番ひどい言葉で罵ってやったら、車を蹴りやがって、でもかなりひどいこと言っちゃったからもうそのまま走り出すとヤツは持ってた小銭を投げつけた。少し離れたことろで車を止めて確かめるとテールランプが割れていた。戻って弁償してもらおうかとかいろいろ考えたけど、あれだけいろいろ言っちゃうと気が引けて、この怒鳴り合いはどっちも悪いと思うけど相手はやっぱりお客さんだし、これは罰だ、とあきらめることにした。こんな争いは仕事以外でだってしたことはなかったけど、タイミングが悪く、そして歯止めがはずれちゃうとこんなことになっちゃういい例だな、と納得することにした。で、こういう揉め事をしょっちゅう起こす友だちに電話で話すと「そこまでお互いが言い合うと絶対にクレームにはならないよ」と自信持って言うからちょっと安心したんだけど、その通りだった。

 タクシーという仕事は、当人以外は誰も見ていない密室で行われる。全身タトゥ―の輩にボコボコにやられちゃった運転手だって身近にいたし、何でもかんでもお客さんのいいなりになるわけにもいかないのが実情だ。しかし、防衛も行き過ぎちゃうとマズくて、うちの近所によく呑みに行くタクシー運転手の友だちがいるんだけど、なかなかのヤンチャで、お客さんに後ろから首を絞められ腹を立てて、逆にやっつけちゃって、でもひどくやり過ぎたってことで逮捕されてしまった。血気盛んな夏の過ちは、もう目をつぶってはもらえない覚悟も持たなければならない。ただ、行き過ぎないように身をもって「歯止め」を築くのもこの季節の重要な役割なのかもしれない。

 ぼくたちにとって一番取り返しのつかない過ちとは言うまでもなく事故なのだけど、気ままなタクシー運転手たちでもみんなけっこう重く受け止めている。でぼくも、ずっとしている事故防止の行動があって、まあ、頭の中でしている儀式みたいなものだけど、運転を始める時と車庫に戻る時に必ずしている。

 出庫前、ハンドルを握りながら、あるショッキングな場面を思い出す。
 まだタクシーをして間もないころの出来事だった。六本木通りの高樹町付近を通行中、突然不自然に渋滞が起こって、こういう時はたいてい事故なんだけど、案の定、交差点の真ん中に軽貨物自動車が止まっていて、少し離れたところに単車が転がっていた。軽自動車の少し後ろに単車の運転手らしき人がありえない格好で横たわっていて、六十代半ばくらいのおじさんが呆然と立って電話をしていた。救急車のサイレンの音は遠くからずっと聞こえていて、おじさんの電話の相手は、その表情から、警察や会社へではないことが感じ取れた。おそらく、家族とか親しい人への「やってしまった」ことの報告だった、とぼくには伝わってきたんだけど、その場面を出庫前に、できるだけリアルに思い浮かべる。そして、自分をそのおじさんに置き換えて、その「やってしまった」ことと比べれば……と考える。すると、どんな無茶な運転だってしないほうがいいとは心から思うもので、で、そんなふうに出庫前に、まず後悔をすることにしている。
 そのほか自分で決めた十項目の注意事項を心に浮かべ、短くて五分くらい長い時で二十分ぐらいはかけて、それから出発するようにしている。帰庫する時には、毎回必ず、車庫を目の前に通り越し、四ブロック程度を一回りしてから車庫に車を入れる。四つある一時停止にそれぞれ二十秒ほど停止し、今日の無事故、今までの無事故、これからの無事故にも感謝する。そしてもう一度、今日何事もなく無事帰って来られたことに感謝して、クールダウンしてから帰る。どんなに遅くなっても、疲れていても、二十年間一回も欠かさずにクソ真面目に続けているぼくの「歯止め」だけど、こういう反省をしっかりとすることによってこそ、血気盛んな楽しい夏を大いに盛り上げることもできるってものだ。 

 ただ、東京の街は、いつでも夏の如くのところがあって、季節に限らず、イベントやら何やら盛りだくさんだから、その渦中にかかわるタクシーは巻き込まれてしまうことだって避けられない。渋谷のハロウィンなんかその典型なんだけど、一度ぼくは、興味本位で覗きに行ったところ、お客さんを拾ってしまい、そのままその真っ只中に突っ込んでいく羽目になって、で不本意ながら赤信号を渡らざるを得ないシチュエーションを招いてしまい、更に警察が高圧的に指導してきたもんだから揉めちゃって、お客さんに多大なご迷惑をかけたことがあったんだけど、まあ幸いお客さんは面白がっていたし、今はもう過ぎたことだからその思い出を楽しめもするけども、やっぱりだんだんとそういうことをするのはもう疲れちゃうし、落ち着いた秋が、待ち遠しく思えてくるんですよねぇ。

秋は実り

 夏も終わりに近づくと、もう秋を感じ始めていて、そして、冬の存在が見え隠れするうちに秋はどんどん深まっていく。で、いつの間にか冬を過ごしちゃってた……なんて具合に、秋は、あっという間に通り過ぎていってしまうものだけど、収穫期といえばいいのか、人生において一番有意義な、メインな時期だといって差し障りない。記憶の中から秋を見つけ出そうとすれば、どうしてかはかなげな晩秋を思い起こしてしまうのだけど、まずは数々の恩恵があってはじめてそれを感じるわけだから、まあ、あり過ぎるぐらいの恩恵を幾つか。 

 ぼくにとってタクシーでの恩恵とは、まずはお金だった。まあ月に百万も二百万も稼げるような仕事ではないし、一千万円以上も稼ぐような人たちから見れば「恩恵」なんて言葉を用いるのはヘンだというかもしれないけど、ぼくはタクシーを始める前の数年間、まともな仕事をしていなくて、収入も不安定だったし、税金や健康保険料、年金すらも支払い不能な人間だった。だから、まともにそれを収めて、その後に三十万円ほどの給料が安定してあることは、まさしく恩恵だといえた。

 タクシーの仕事って、誰に頭を下げてお願いすることもなく、上司に嫌な仕事を強要されるわけでも、取引先への責任というようなプレッシャーだってないし、危険に手を染める必要もない。刑務所に入る心配も少しもなくて、まあ少々身勝手ではあるけれど、堂々と正業として誰に後ろ指をさされることもない。そんな職業に就けて、少額であろうが堂々ともらえるし、すごくありがたい恩恵だった。ぼくにとっては願ったりかなったり、うってつけで、実はすぐにやめるつもりだったんだけど、ついつい二十年も経ってしまったのが実情だ。
 そして、そのお金のおかげで安定が得られれば、あとは次々と、様々な恩恵が連鎖して訪れてきた。その一つは、働きながら自由な時間が得られたこと。

 その頃のタクシー運転手のほとんどが二日分働いて翌日休むという勤務体系を取っていて、まあこの一日の休みとは通常の勤務をしている人でいう「帰宅してテレビ見て寝る時間」に当たるから、本来の休みは二回か三回に一度二日続きの休日としてやって来る。という、一般社会では馴染みのない形式だった。慣れるまでは、仕事自体も必死だったし、十二時間以上寝てしまったりとその勤務体系に翻弄されてしまって自由な時間どころではなかったが、でも慣れてしまえば、一日ごとに二十四時間の自由が使えるようになって、まあ寝る時間も含まれるけど、うまく調整すれば簡単な仕事をもう一つできちゃいそうなくらいで、まあぼくは、本を読んだり、ぼんやりしたりして過ごしたんだけど、今思うと、今の自分があるためにすごく貴重な時間だったと思う。

 そしてもっと大きな時間、かなり大きな休日が得られたのもタクシーならではといえた。
 ぼくはタクシーを始めてから、インド、ギリシア、中米、南米、とそれぞれ二か月ずつ旅行をすることができた。まあ旅行自体はうちの家の者の仕事による恩恵だったんだけど、でも通常とは逸脱した長期の休暇が許されるのもこの仕事の特徴で、最悪許されなかったら一旦会社を辞めて別な会社に入り直しても同じ条件で職場復帰は容易にできて、まあ年中海外旅行なんてするわけではないし、しっかりとした人員(タクシー運転手)として認められていれば会社にだって負担はないから辞めろともいわれない。なんせぼくらは完全な歩合給なんだから。まあ、休んだ分の収入と引き換えにはなるけども、非常識な長期休暇を可能にできる。贅沢な旅行ではなかったけども、人生全体から見ても得難い体験をすることができた。それもこれもみんなタクシーのおかげ。

 あと、社会に起こる現象の先端と直にふれあえたこと。
 これはまあ、東京という場所がもたらしてくれたともいえるけど、「ああ、あの時のあれがこれだったのかー」なんて、まあその時には少しも気づかなかくとも、世の中の先端と普通にかかわっていた。わかりづらいか……

 原宿のファッションビルのテナントで働く女の子(お客さん)と会話中に「何で、ボーダーの服ばっかり入荷して来るんだろう」なんて吐露を聞いたのは街中がボーダーだらけになる前のことだったし、証券会社の人が、「今度、北海道銀行と富山銀行が合併するんだけどさ、「どんなつながりがあったの?「……江戸時代にさ、北陸では昆布が取れなくって富山商人は北海道の昆布に目を付けて大得意先になってそれを普及させて、それ以来ずっと北海道と富山は商売上仲良しな関係だったんだってさ」なんて話してて、しばらく後にそのネタがクイズ番組で取り上げられていた。講談社と有名タレントが訴訟沙汰を起こせば、たまたまその弁護団が乗って来て、相手側とはけっこうなーなーなんだな、なんてバカ話を披露してくれるし、電通などの広告代理店なんかはよくタクシーを使う業種として知られているんだけど、特に酒を飲んだ後に乗って来た時なんかは顕著で「お前、また(宮沢)りえママんとこ行ったの?」「あのクソババァ土下座させやがってよぉ」なんて不用心な会話を平気でしたり、その頃この頃に話題になっていた実情なんかを直に耳にできた。そういえば、海老蔵が事件を起こす前日にぼくのタクシーに乗っていて、もしあの時ぼくが事故でも起こして海老蔵が怪我でもしていたら、あの事件だってなかったはずだった。

 当時顔見知りだった運転手は、国際的窃盗団ピンクパンサーが銀座のエルメスで何億もの宝石を盗みに行くときにホテルから現場まで乗せてたらしくって、警察がそれを確認に来たのはニュースになったずっと後のことだったけども、窃盗団を乗せたのはニュースで速報されるよりも当然速かったわけだし、そんなリアルな現実とふれあっていた。ぼくらタクシーは公共交通手段というにはあまりにも身近に同じ空気を共にするから、もったいないくらいの体験を知らず知らずのうちにさせてもらっている。まあ「知らず知らずに」ということは自分にとってのいい思い出くらいにしか役に立たないけども。
 あと、「芸能人とか乗せたことありますか?」とはよくお客さんから聞かれるんだけど、普通に暮らしていたら話などできないような著名人が乗って来ることはよくあって、東京でタクシーをしていれば誰でも普通に経験する。で、ちょっとした話のネタにはなる。
 とはいっても、ぼくはお客さんから話し掛けられなければ喋らないようにしているから、「そこ右で」「その自動販売機のところで止めて下さい」程度しか会話がないのがほとんどで、まあ著名な人たちって運転手と話なんかしたくないだろうし特別なことなんてあまりない。それどころか、不快にさせてしまうことの方が多いような気すらする。某有名なモデル三姉妹のうちの一人を乗せたときには、道中クソオッサンタクシーが因縁つけてきやがって、お客さんが乗ってるんだからと何も言い返さずに去ったけども「……なんなら言い返したってよかったんだけどね」なんて感情に任せてそのモデルに発言しちゃったりして、さぞ嫌な気分にさせちゃったに違いない。名脇役で知られる人を乗せたときも、一万円でのお釣りが足りなくて、二千五百円分の百円玉を渡すしかなく、笑顔で受け取ってはくれたけども迷惑でないわけがない。どちらにもその場で言い訳する言葉すらなかったからできなかったが、この場を持ってお詫びしたいと思います。ごめんなさい。

 結局のところ、うれしいのは「出来事」で、まあそれがどんな人とだったかは無関係ではないけども、どんなことがあったかが恩恵だった。小佐野賢治の片腕の愛人として囲われていた、というお客さんが聞かせてくれた当時のバブリーな生活は聞きごたえがあったし、俳優(名前はいわなかった)の恋人だったというお客さんが、「今日こっそりと顔を見に行ってきたの」と言って泣くから話を聞いてあげたら、思いのほか長時間話されちゃって、でも「お礼に」とコンビニに行って袋二杯分の栄養ドリンクやらシュークリームだの整髪料だの雑誌だの、その人の言葉同様支離滅裂なプレゼントをされて、チップも二万円近くくれた。その人がただのストーカーだったのかどうかは知らないけど、もしそうだとして、そんな危ない女の人の好意を無下に断るのは危険だからちゃんと受け取ったけど、その普通の人とは違う悲しみを共有することができたのは、テレビや映画で見る娯楽よりもゾクリとし、今思えば、お金を払って見る映画などの楽しみとはまた一味違った体験ができていた。

 あんな狭い空間で起こった夫婦喧嘩なんか、いつこっちにとばっちりが来るかもしれないというスリルだって味わえて、あの時は、友達夫婦と笑顔でお別れしながらお客さん夫婦が乗って来て、行き先を聞いて、窓の外のご夫婦に手を振るお客さんを確認して走り出すと、その笑顔の雰囲気がまだ残っている空気の中、「ぬぁーーっんでアンタはあんなこというのぉぉぉーー」と奥さんが豹変し、キキキキィィィーと旦那さんをギタギタに言葉で打ちのめした。そんなに言ったら旦那さんだってキレるんじゃないか、とぼくが心配したのと同時に、「ふざけるなっ!だから何だってんだ!!」と旦那が叫び、バッチィィィ~ンと平手打ちのすごい音がして、思わず身をすくめると、旦那さんが「何ですぐ叩くんだよぉ~~」と、叩いたのは奥さんの方で、ますます叩かれて、そして、ますます怒涛の言葉攻めをくらわした。で、散々言い尽くした末に奥さんは途中で勝手にドアを開けて降りてっちゃって、でも旦那さんもそこで降りるって言うから助かったけど、だってその後に旦那と二人っきりなんてとても耐えられないし。まあ降りると聞いて安心したから、旦那さんに「こうなったら男はもうかなわないからさ、すぐ謝っちゃった方がいいよ。女は怖いわぁー」というと旦那さんは少し間を空けて笑顔を作って、「まったくわけわかんねぇよお~」とポケットをまさぐって五百円玉をお金受けに置いた(チップ)。ぼくの一言はいろんな意味で旦那さんを救ったと思うけど、ぼくはそれ以上に楽しめてた。

 こんなリアルなドラマをたびたび味わえて、でしかも、お金までもらえて、更に「ありがとう」とまで言ってくれるんだから、タクシーってのはホントにありがたい商売だ。

 こんなリアルを見せてくれるのも、お客さんがぼくたちを空気のように扱ってくれるからに他ならないんだけど、ついこの間、妙齢の女のお客さんが、そのわけを教えてくれた。
 終電から降りてきたその女の人は挨拶と行き先を簡潔に告げ、「スマホの充電できる?」と遠慮なく言った。だからぼくはあまり貸したくなさそうに「あるかなぁ」とか言いながらケーブルを探す素振りをし、すると「旦那が疑って困るの」「自分のだって充電するんでしょ」「殺されるわ、もう。少しでいいの」なんて遠慮もないけど敵意もない感じで、だからぼくも快く「たいへんだね」と充電のケーブルを差し込み、片方をお客さんに手渡した。「もうハッキリ言ってウザいの。何なんだろうあの束縛したい気持ちって」なんていうから「それはお客さんのことを好き過ぎるからだよ」と言うと「ハッキリ言って迷惑、かえって気持ちが離れる、束縛って」と続け、ため息を一つ。そしてぼくに向かってこう言った。「わたしはタクシーに乗ったらよく運転手さんといろいろ喋るんだけど、なんていうか……心が晴れるからそうしてるだけなんだけど。だから気の利いた答えなんて別に求めてなくて、ただ話をするだけでいいの、それがありがたいの」などと淡々と、実に実に落ち着いて、遠慮なくそう言った。まあこれは、これから会話はたくさんするけど「いいこと言おうなんて妙な気起こすなよ」と牽制球を投げてよこしたって感じで、だからぼくも、いいこと言おうなんて思わず、でもそのかわりお客さんとも思わずに話すように心掛けた。簡単そうで難しそうで簡単だったけど……ちょっと疲れた。
 旦那さんが自分にべったりで辟易してること、子供がいないので不妊治療をしていること、自分はもしかしたら性的マイノリティ(レズビアン)ではないかという疑念、旦那とはちゃんとセックスはしている、同性とはまだ経験はない、旦那との最近はあんまり気持ちよくない、このまま人生終わってもいいものだろうか……などと取り留めもなく話した。ぼくももちろん、いいところ見せようなんてスケベ心も出さずにオッサンの意見をそのまま返答して、四十分程の道のりをほぼ切れ目なんてなくて、ずっと話しっ通しだった。
 目的地がすぐそこまで近づくと彼女は旦那に電話をし「着いたよぉ~」とまるで違うトーンで喋って、これが旦那さんには素顔なんだと思う。でも仮面ってわけでもなくて、さっきまでの彼女は裏の顔とでもいうか、まあ別人ではないんだろうけど旦那さんの知らない別の素顔なのかもしれない。「全然違ったよ、今の電話の声」とぼくがいうと彼女はフッと笑って「うまいんだよねわたし……ズルいのかな」と言った。降り際、「また話したいな」とぼそりというから「いつもさっきの場所にいますよ」と言ったけど、おそらく、さっきの場所を避けこそすれ訪れることはないだろう。

 タクシー運転手が空気のような存在でいられるためには、あとくされがってはならない。求められているのは空気なんだから、次があってはならない。でもそれがぼくにとってかけがえのない報酬になるんだから!

 人間というものは本当に欲深い生き物で、有り余る実りを手にしても、また更なる価値を求めてしまうもので、個人タクシーになる時ぼくは隠居するようなつもりでいた。

 その頃どうしてか、率先してタクシーをすることをせずに、一歩下がって営業したいと思うようになっていて、それが自然で正しい考え方だと思えた。今、隠居ができているかどうかは自分でも甚だ疑問だけど、以来そんなつもりで仕事に当たっている。まあそんな背景の中で開業するに至ったわけだけど、タクシーを個人で営業することによって、ぼくのタクシーライフは大きく変わった。もちろんいい方に。

 ところが、個人タクシーになる直前、ひと悶着があって、その時の成り行き次第では個人タクシーをあきらめなければならないという事態を迎えてしまったのだった。

 個人タクシーというのは一人一車制の旅客輸送業で、国の認可を受けて操業することができるんだけど、いろいろな条件をクリアして国家試験みたいなのをパスしなければならなくて、更に東京では新規の事業免許を発行していなかったので、誰かそれを譲ってくれる人から譲渡してもらう必要があった。通常、個人タクシーの協同組合の各支部が主催する「勉強会」というのに参加して、その支部内で廃業する事業者と譲渡譲受の縁組をしてもらうんだけど、だからぼくもそれに所属して、まあ順調に着々と準備は整っていた。

 で、さてあとは譲渡者を縁組してもらい試験を受けるだけ、となったその時、ぼくの資格要綱にある問題が発覚してしまい、協同組合は譲渡者の紹介をためらった。それはぼくがその頃に勤めていた会社での月八回という短日数の勤務形態が「タクシー乗務歴十年」という要綱に足りていないんじゃないか、という疑念からだった。まあ実際当局は月に八回という勤務で基準に足りていると判断してくれたんだけど、組合としてはそういう曖昧な人間に貴重な譲渡者を紹介することはできない、と言い出したのだった。まあもっともな話だけども、ぼくとしても勉強会に入会する時にそのことはしっかり報告済みであったし、今更そんなことを言われても困ってしまった。廃業する人がやっと出て、勉強会での紹介されるぼくの順位は次という、まさにその時の出来事だった。

 組合の支部長は「順番を後にするだけで、別に紹介しないってわけじゃないから今回は別な人に……」というんだけど、ぼくは食い下がった。ぼくの次に順番を待っている人は仲のいい人であったし、ある意味その人の方が優先されるべき人だと思っていたので、ぼくはそれに従うべきだったかもしれないけど、もう次はないと思えた。だって次に順番が来たからといって大切な譲渡者を曖昧な条件を持つぼくに紹介するわけがない。食い下がるということはあまり好きではないけど自分でも不思議なくらい力が入った。でも、ぼくが「そういう約束なのだから予定通り紹介してくれ」とどんなに力を込めて言うも、支部長は決して首を縦に振らない。で結局、理事会で決める、ということになって、六人いる支部の理事のうち五人はぼくに反対だったから、あまり見込みはなかった。

 でも今、この通り個人タクシーでいられるのは、結局この支部から譲渡者を紹介してもらえたからなのだけど、それは一人の役員が「今回は何としても関に」と頑張ってくれたおかげだった。その理事会の様子を見たわけじゃないけど、圧倒的多数をもって簡単に決められたことを強引に曲げ、「運輸局に行って勤務要綱の再確認をして確証を得るから」という条件を付けたものの他の理事たちを納得させてくれたんだからそう思って遠くないはず。個人タクシーはぼくの人生を左右する重要な機会だったから、その人のしてくれたことのおかげで今の幸せを手にしているといっても過言ではない。「たまたま役割がそうだっただけの話だよ」と総務部長という役職だったその人は言うんだけど、仮にそうだとしても、その縁の大きさにぼくはどんなに感謝をしてもし足りない。その時もし、順番を後ろに回されていたら、おそらくぼくは、自分から個人タクシーをすることをやめてしまっていたんだから。

 その後その人に感謝はし続けたけども、あまり態度には表さなかった。それは、その後のお付き合いを持って感謝を表したかったからで、その頃からぼくは今書いているこの本を作る計画をしていたから、その中で、あの時の気持ちを伝えようと思っていて、その後に、個人的により深く付き合っていけたら、などと考えていた。今の自分がここにいられるのはあなたのおかげでなんです、と。そんなあからさまに書くつもりはなかったけど、まあ、自分の自画像を文章で作成することもって、その告白を目論んでいた。

 ……死は、前よりしも来らず、かねて後ろに迫れり。
 人皆死あることを知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来る。
 沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。

 やっとここに、それを記すことができたのに、その人はもう亡くなられてしまい、ぼくの目論見は遂げられなかった。意識のないその人の病床で約束をすることによって、それを果たすより他なかった。ただ、一方的に。ただ、その人はいなくなっても感謝がなくなるわけではない。約束が残っている限り、その人との関係は継続できているようにも思えるし。それに、左記にした徒然草の第百五十五段にあるその部分をより理解できたことは、恩師に、あらためて感謝しなければならないことが増えてしまったわけだから、墓参りでもして新しい約束をしてくるのもいいかもしれない。なんにせよ、人生は待ってくれないってことを肝に命じて、生きて行かなくては。

 東京という世界的にも類稀な大都会でタクシーを始めて、調子に乗って経験を積み、たくさんの恵みを得たけども、始まったものはいつか終わる。終わりがあるから始められたわけだけど……まあそんなふうに「終わり」を怖れることができるのも、まだ冬が来てないという証拠だし、何よりも、四季は冬で終わりってわけじゃなくて、また繰り返してくれる。でそれは、冬が一旦全てを終わらせてくれるからに他ならなくて……まあ、秋の終わりは物悲しくて、何ともいえない気分になるものだ。

冬の存在

 大手のタクシー会社でキャリアをスタートさせて、小さな会社に移って仕切り直し、今度また多数派の協同組合で個人タクシーを始めた。そして今、その協同組合から脱退して、どの団体にも所属しない「只の個人タクシー」として街を走っている。もうこれ以上の変化はなさそうだし、どうやらここが終着駅っぽくて、まあ、冬の到来といえなくもない。

 春はだんだんと温もりを増して夏となって、その暑さが過ぎた頃にまた秋の心地よさを呼び込む。人の心向きというものは、いつだって興じたがって、それが過ぎたら、また次のものを、と望む。だから秋という大満足を得た後に冬を迎えるのは、おそらく、また春を呼び戻すために違いない。冬が存在するのは、そんなふうだからと思う。だから冬は、他の季節とは逆で、求められていない。でも、来てほしくない季節だからこそ一年というものはまた繰り返される……と思おうと思えば思える。だからこそ今は、一生のうちで一番大切な季節ともいえるわけで、だから、一番大切にしている思い出を振り返ることをもって、ぼくのタクシーの春夏秋冬をお終いとしたい。

 これから書こうとしている話は、前に本を出版した時にもボツだったし、これまでに何度か文章にしたことがあるのに、でもどうしてか、いつも今一つうまく表すことができなかった。一番強く心に残っている瞬間だというのに、どうしてうまく表せられないのか本当に不思議だったんだけど、おそらく、まだ書くべき時期ではなかったからだ。
 本当に何でもない出来事だったから脚色もできなくて、だから成り行きに任せるよりなくて、でも、その成り行きが思いの強さについて来られなかった。……まあとにかく、冬の到来を意識した「只の個人タクシー」になったところから、振り返ってみようと思う。果たして、大切な思い出に結び付く成り行きとなり得るのか、どうか。

 今、ぼくのタクシーの屋根の上には、常時猫が居眠りをしている。
 それぞれのタクシー会社や団体のシンボルというべき屋根の上の灯りを「行燈(アンドン)」と呼ぶけども、日本に一台しかない関タクシーの行燈は、猫が居眠りしている図が描かれている。背中の縞模様をよく見ると「TAXI」となっていて、これは名のあるイラストレーターで、ぼくは現代一のアーティストと信じているが、その人に描いていただいて、もちろん超気に入っている。この行燈をシンボルとして街を走れるなんて夢のような幸せで、それはもう言葉では説明できない。でも、しがない一タクシー運転手であるぼくが、どうしてそんなイラスト界のスターにお願いすることができたかというと、うちの家の者がたいへんな「あわて者」だったからだった。

 家の者というのは、籍は入っていないから奥さんとは呼べないけど、まあそんなような存在で、付き合いはタクシーよりもちょっと古い。性別は女。その家の者は、本を書いたり絵を描いたりしていて、作家なんていうと本人は否定するからそうは呼ばないけど、まあ細々とそんなのを仕事としている。性格は、実にそそっかしいというか、まあたいへんなあわて者で、ちょこちょこ騒動を起こすんだけど、なんにつけアクションもリアクションも大きくて、大きすぎる分足元を見ないから転んだりして、何でも「過ぎる」から失敗するんだけど、まさにそのあわてぶりがぼくにそのイラスト界のスターを近づけてくれたのだった。

 藝術新潮という雑誌の仕事で奈良の興福寺に二泊三日で取材に出掛けた家の者は、その最終日、最後の最後のクライマックスというところで、何やら「眠すぎて」とかで、足元をよく確認せず崖から落下して、救急車を呼ぶ騒ぎになって、で利き腕の肩を骨折してしまい、絵が描けなくなってしまった。でも、雑誌の工程って過密で、取材だって編集者二名にカメラマン一名が綿密に段取りを組んで進めていて、もう後戻りはできないし、更に年末だったこともあって計画の変更も難しく、結局、家の者がネームと呼ばれる清書前の原稿を作り、別のイラストレーターに仕上げてもらう、ということで落ち着いて、白羽の矢がたったのがそのスターだった。スターは謙虚で、自分を「コンビニエンスイラストレーター」などと紹介したけども、本物の仕事師で、その空間に入れるイラストをピッタリと埋めてくれた。イラストレーションというものをそれまで誤解していたぼくにその何たるかをも知らしめて下さり、それ以来ファンになり、家のおっちょこちょいの立場を利用して、たまにメールをしたりするような間柄を作った。

 で、行燈のマークについては、最初は単なる思いつきだったんだけど、でも関タクシーの新しい船出とそして最後を飾るのにこれ以上ないシチュエーションだと思い浮かべてしまい → どんどん頭の中でイメージが膨らんでしまい → そして勢いで頼んでしまい → 勢いだったから値段までこっちでつけてしまい → でスターはスターで、もっと近しい間柄だったら「そんなのやらねーよ」と突っぱねられただろうし、もうちょっと遠い関係だったら「申し訳ありませんが」と普通に断れたはずで、でもぼくという、これ以上ない「断りづらい間柄」からの依頼にはたいへん困っただろうけども → 受けて下さって、でぼくは、その立場に、しめしめ、とほくそ笑んだわけでは決してなくて、申し訳ないけど成り行きだったことを強調したいところだ → 以上が、只の貧乏個人タクシーであるぼくが最高のシンボルを手にすることができた経緯で、家の者のあわてぶりからはじまった縁がぼくの未来に思わぬ好結果をもたらしたありがたい成り行きである。

 そもそも個人タクシーの組合を脱退したのも成り行きで仕方なくという感じだった。もともと、歳を取ったら「自分の責任の範囲で誰の指図も受けずに、自由に個人タクシーを」なんて考えていたから、いずれはそうなったんだろうけど、取り巻く世の中の移り変わりが激しくて、あれよあれよと追い立てられるように足早に脱退する運びとなってしまった。直接の引き金となったのはクレジットカードや電子マネーなどの決済システムで、組合と歩調を合わせられなかったのが原因だった。

 現在の日本の現金の信用はまだまだ健在だし、財布に現金を持っていることによる犯罪に合うリスクだって他の手段とそれほど変わりないと思うのだけど、便利さやスマートさ、何よりも世界の潮流に歩調を合わせなくてはならないということで、政府の後押しも手伝い、当時東京では一気にキャッシュレス化が進んだ。公共交通機関であるタクシーにもその波は大きく押し寄せ、で、東京の法人タクシーはいち早くそれに反応し導入を進めた一方、ぼくが脱退を決めた当時、個人タクシーはなかなか足並みがそろわず出遅れていた。

 我々個人タクシー運転手は、一人一車という最小規模で事業をしているから、機材の購入や資金調達など個人ではなかなか太刀打ちできないことを協同組合の運営によって解消を図っているわけだけども、運営するのはあくまでも組合員ということで、だから、その総意が全ての物事を決めるわけだけども、組合員はみんなキャッシュレスにはあまり関心を示さなかった。そのために法人タクシーとのギャップはどんどん広がってしまい、利用者はそれを理由に個人タクシーを避けることも顕著になってきて、だからぼくは個人的にできる範囲で独自の新しいキャッシュレスの対応を考え実行することにした。別に組合に反旗を翻すとかそんなんじゃ全然なくて、ただその方が仕事をしやすかったからそうしただけで、それにその頃は、組合と別行動をとるのもたいした問題ではなかったし。

 その頃、協同組合にも様々な決済に対応する新しいシステムはあったにはあったけども、ぼくから見ると不自然に高価だったし、換金に必要な作業も、組合が間に入るためにわざわざ複雑な手間が増えるという悪循環がうかがえて、ぼくだけじゃなく多くの組合員が二の足を踏んでいて、協同組合の執行責任者たちの、「どうせ組合員は組合の換金システムに頼らざるを得ないんだから導入するはずだ」と安易に考えていたのがそのシステムが広がらなかった原因じゃないかとぼくは睨んでいる。

 しかし世の潮流はますます進み、組合員たちものんびり構えていられなくなりだし、そして、手軽に利用できる民間のキャッシュレス換金事業が続々と出現したことや、国の押し進めるキャッシュレス還元事業対策助成制度も手伝って、組合は別なシステムを模索せざるを得なくなって、タクシー配車アプリなどを兼ね備えた業者と手を組むことに方向修正して、その結果、法人タクシーとのギャップを解消し、公共交通機関としての責任が果たせる運びとなった。ただぼくは、そこに参加するにはもう個人的にいろいろ進めてしまっていたから後戻りもできず独りぼっちになることが余儀なくされた。

 別に組合の押す決済システムを利用しなくても所属するのは可能だったけども、これだけ大掛かりなシステム変更に同調しないのは蚊帳の外という感じで、その成功に共感を持てない以上所属している意味もなくなってしまった。まあもともと、「いずれは一人で自由に個人タクシーを」という考えを持っていたわけだし、希望が早く叶っただけだと観念し、東京都個人タクシー協同組合世田谷第一支部を脱退した。
 同時にそれまでに所属していた各タクシー協会も、個人での参加はできないということで、ぼくは自動的に、「まったくの個人」という立場に追いやられて、何の後ろ盾もない、という不安の中に追いやれた。もともと何を頼っていたわけでもなかったのに、いざなくなると、その隙間に対して臆病になってしまうものだ。

 ただでも、一人になるということは、主流と呼ばれる大勢とはいつだって同じ考えには至らないぼくにとって、たどり着くべき理想的な場所だともいえた。それに、方向性の違いは決済システムに限らずまだ他にもあって、すぐに直面すると思わる大きな相違点も予想できていたから、まあ、どのみち脱退していたはずだし、どうせするんなら早い方がいい。思わぬ成り行きに少々戸惑いはしたけども、「これが自分」という場所に向かって歩いた結果たどり着いたその場所は、とても静かな、ずっと前にもともといた場所に戻ったかのようで、「自分一人」という、まさしく冬そのものだった。

……と、ちょうどそんな時にやって来たのがコロナ騒ぎだった。

 二〇二〇年四月一日付でフリーとなり、その四月半ばに緊急事態宣言が発令された。なんというタイミングだ! 新型コロナウイルス感染症という目に見えない恐怖が全世界に覆いかぶさり、たった一人で細々と再スタートをしようと思っていたぼくの前にも立ちふさがった。その四月、売り上げは五万円。その後もずっと仕事にならなくて、当初半年くらいで収まるだろうと安易に考えていたが、コロナ騒動はなかなか終わってくれなかった。でも、落ち込んでいてもしかたないし、こんな時にしかできないことをしようと考えるしかなく、でもそれは、今書いているこの文章を完成させるにはまたとない機会だといえた。

 次に記すのは、その年を越した一月、再び緊急事態宣言が発令された時に、タクシーに乗って街に出て、その様子をレポートし、その時に思ったことを簡単にまとめておいた記録で、あと、以前突然発生した非常事態の一日と重ねた感想であるが、ここにそれを載せることを意識はしていて、締めくくりというか、そんな心境で書いた記録である。

「夜遅くに車庫を出たのは、成り行きに任せたからだった。

 いつもどおりにかむろ坂を下り、山手通りを右へ曲がった。五反田の街をかすめ、いつも最初に行く大崎のタクシー乗り場をちょっと覗いて、品川、田町とスイスイと進んだ。お客さんがいたら拾おうとは思ったけど、それほど気にもせず偵察衛星のようなつもりで走った。この際だから、「空車」という表示はあまり意識しないようにした。

 日比谷通りを都心に向けて走り、増上寺の山門前を右折し、レンガ通りを左に曲がる。愛宕警察署を越えて、新橋へ。日本を支えるサラリーマンたちの今を一回り眺めて、日付の変わる少し前に銀座に着いた。街は確かに静まり返っていたけども、前回ほどの「ただ事でなさ」は感じられなかった。当然のように灯りのついた店はところどころにあって、そこには当然のように人もいた。街は静まり返っていたけども、前回とは違い、動揺した様子は見えなかった。いつも同じ場所で客待ちしている知り合いの運転手も当然のようにそこにいて、ぼくも、いつものように少し止まって、世間話を少しした。

 中央通りを真直ぐに京橋、日本橋、神田と抜けて、秋葉原から上野へ。左に曲がり、また左に曲がって大手町方向へ戻る。走っているのはタクシーばっかりだ。淡路町で靖国通りを右折し、新宿を目指す。東京の道はこんなに走りやすいのかと思う反面、無駄に捕まる信号機にいつも以上の苛立ちを覚える。神保町、九段下、靖国神社を右に見て、市ヶ谷へ。外堀を越して、防衛省に並ぶ個人タクシーの長い列をなんとなく数えたりして、富久町の信号を右折し医大通りへ。よくお客さんが曲がる目印として使うセブンイレブンを右に入って突き当りを左、明治通りを超えれば、もうそこは歌舞伎町。風林会館を真直ぐ突き抜ける。花道通りはこんな時でも賑やかで、愛本店辺りから大交番まではかなり通りにくかった。タクシーたちも、狭い道をのろのろとお客さん探し中で、一般車として走っていたらば、その鬱陶しさにクラクションを高らかに鳴らしていたに違いない。西武新宿駅の脇から新宿駅東口に抜け、新宿通りを四谷まで突き進み、外堀に沿って右へ下って行く。赤坂見附から溜池、六本木通りで六本木交差点へと向かう。通り過ぎてきたそれぞれの街とそれぞれの思い出が交錯して、自分が風にでもなったかのような気分だった。そんな思い出との戯れに頭が痺れていたからか、不思議と、嫌なことを思い出しても少しも嫌にはならなかった。

 六本木の交差点は渋滞もなく、あきらかにいつもと違っていたけども、肩を組んで陽気に歩く外国人の男や日本人カップル、水商売人たちの姿もぽつぽつ確認できた。左に曲がったらドン・キホーテもちゃんと営業していたし、もちろん空車タクシーは邪魔なくらいいて、こんな時だっていうのに意地汚い走り方をする空車のヤツも、いつもどおりにちゃんといた。ロアビルの信号を左に曲がって、公衆トイレのとこの狭い道を左に折れ、ドン・キホーテの裏の道は少し物騒な感じで、路上駐車の高級車は更に道を狭くする。墓地の塀に沿って再び六本木通りに出て、そのまま渋谷まで……と思った時、ギャングのような青年がこちらを向いて、なんだか手招きしている。ハッと自分が空車タクシーであることを思い出して笑顔を作り、ドアを開けると「四谷見附まで」といわれた。双六でコマを戻されたみたいな気分になった。でもタクシーという仕事とぼくは、思いのほか一心同体で、運転手のスイッチが入れば、お客さんが乗っていた方がかえって居心地がいい。二十年の歳月に、身体と仕事が同化させられてしまったかのようだ。

 再び来た道を逆戻りし、途中、わが愛車ホンダ本社のある青山一丁目を右折し青山通りを渋谷に向かった。表参道を越え、青山学院を過ぎ、宮益坂を右に逸れ降りて行けば、右手にはぼくが東京に出て来て最初に住んだ渋谷一丁目。当時はこの街が大好きだった。今はそうでもない。山手線のガードをくぐって渋谷スクランブル交差点、正面には109が構え、でも照明は消えていた。文化村通りに入り、すぐ右に曲がった。センター街を越える時、チラッと右を覗くと七、八人の女の子がそろってダンスの練習中で、「何もこんな時にこんなところでしなくたって」と独り言ちた。井の頭通りを宇田川交番、東急ハンズ、更にNHKの西口玄関まで行って、左に入って、裏渋なんて今は呼ぶんだそうだけど、そこをもう一度渋谷駅方向へ。東急本店の前で信号待ちしていると、見るからに水商売風の男がキャバ嬢らしき女の子を連れて歩いて来て、運転手に合図することなく、男が勝手にドアを開けてキャバ嬢だけが乗って来た。「歌舞伎町までお願いします」と丁寧に言われて、また双六を大きく逆戻り。でもスイッチはタクシー運転手に切り替えられて、ビルの谷の街を心地よく走り出す。渋谷スクランブル交差点で赤信号に止められて、目の前に広がる、大きく様変わりした駅舎上空をぼんやりと眺め、二十年の歳月をしみじみとかみしめた。

 何事もなくお客さんを歌舞伎町まで送り届けて、もうこんなところでいいかな、と浮かんで、空車の表示を回送に切り替えた。今日の営業を終了し、タクシー運転手のスイッチを完全にオフにして、今日スタートした場所に向かって走り出した。原宿、渋谷、恵比寿、目黒と、道すがら、道路にいたのが九割がたタクシーだったことをまじまじと振り返って、改めて、タクシーという仕事がいかに自分本位なのか思い知らされた。

 法人だろうが、個人だろうが、タクシーはみんなそれぞれが自分のために動かしている。タクシー会社が、こんなに誰もいない街にタクシーを走らせられるのは、運転手への報酬は稼いだ分だけしか支払わないからに他ならない。それはもともとそういう約束で、それを都合よく利用するのが、タクシー運転手という職業だ。個人タクシーもその延長線上にいて、そうして出来上がったタクシーという職業にあやかっている。こんなことをいうと当局に叱られるだろうけども、タクシーとは、サービス業ではなく、旅客輸送業でもなく、それぞれが自分の生活のためだけにする職業なのである。だから、道を知らなくても、運転がうまくなくても、乱暴者でも、お調子者にも、堅物だって、よぼよぼの爺さんにだって、アスペルガーだからって、切実なシングルマザーにも、もちろん普通の人にだって、誰にだってできるのがタクシーという仕事で、だからタクシーに対して極端に辛辣なことを言う「タクシー嫌い」という人も存在する。しかし、そんな人ですら、タクシー運転手をしているって事実もあるくらい、歩合給という「やればやった分だけ貰える」「やらなくてもやった分だけしか貰わないから文句も言われない」という立場は実に都合がよくて、だから、これほどまでに「自分本位」という言葉が似あう職業ができてしまったのだ……

 自分のしている仕事のことをそんなふうにいうのは、ある種の裏切りともとれるけど、でも少しも後ろめたい気持ちにならないのは、ぼくは、そのおかげで出来上がったタクシーという仕事に満足しているからだ。
 自分本位でなければタクシーとは呼べないんだし、もしそれを否定したら、自分がここまでしてきた事実だって全て否定することになってしまう。だからもちろん、取り繕うつもりなんてないし、自分がその一員だということに感謝すらしている。威張っていうつもりもないけど、気に病むこともまた少しもない。

 ぼくはずっと、自分は他人のことをちゃんと考えられる人間だと思い込んでいた。だから、自分が自分本位だなんて思いもしなかったんだけど、それこそが自分本位だという証拠だ。「自分本位ではいけない」「他人のことを思いやれ」と考えるのもやっぱり自分の中でだし、だから、ぼくはずっと自分本位だったようだ。
 そして、誰だって、「自分の中」から抜け出すことなんてできやしない。
 この日に四時間ほど掛けて走った長い道のりが、全て自動車で埋め尽くされるという非常事態が以前にあった。東日本大震災という未曽有の大災害だったけども、震源地付近とはまた違うパニックが東京では起きていた。宣言など出す猶予すらなったその緊急事態に、それぞれが自分のことだけを考えて行動した結果、都心から抜け出そうとする人によって、車道も歩道も埋め尽くされてしまった。タクシーの何十倍もの車が東京に存在するのをまざまざと見せつけられた。そういう時に人は「素顔」になる。

 夕方に始まったその大渋滞は夜中まで続いて、我先に、という人たちによってあちこちで諍いが起こって、ぼくも三回そんなものに巻き込まれた。もちろん、他人のことを思い行動する人もたくさんいたけども、この時に一番強く感じたのは、こういう時に人間は本性を現す、ということだった。尋常でない強い揺れに襲われ、テレビやラジオによって震源地の悲惨な様子が徐々にあらわになって来て、携帯電話もつながらず、それぞれが自分の家に帰るだけなのに身動きが取れなくって、時折起こる大きな余震に不安を覚える中、誰も彼もが、自分だけしかいないということを思い知ったんじゃないだろうか。その本性が悪人とか善人とかではなくて、自分が一人だけということを。少なくともぼくは、自然とそんな気持ちに持っていかれた。自分を取り繕う余裕もない時だったから、それが素顔だったことに間違いはなく、それがもともとの自分の姿で、世の中には自分一人だけだった。そして世界は、みんなそれぞれがそれぞれの自分を思っているだけだ……と思った。まあ、気持ちが落ち着くにつれ、段々と素顔は良心に覆われて、消えていったけど。

 その時、静まりきった東京の街を眺めながらそんなことを浮かべてしまったのは少しも不自然ではなかった。終着駅にたどり着いた自分と重ねてしまうのもまた自然な成り行きだったと思う。そして今、ずっと歩いて来て、そしてたどり着いたのが、もともといた場所だった、なんて思うと、「人生とは幻だ」という言葉にも実感がわいてしまって、それを「冬」と呼んでみると全てに収まりがつく。冬が存在するのは、それを気づかせるためだった。

 しかし、ここに至ってぼくは、たった一人になって初めて、一人じゃないことに憧れを持っている自分に気がついた。独りにならなければ気づかなかったことだと思う。

 そう思うと、誰かのために何かをしたいと心の底から浮かんできて、そして誰かが、それを喜んでくれるならば、ぼくは独りではなかった。過去形がおかしな具合に感じるけども、何年も前にそう感じた理由が今の成り行きに出会って、それに気づいたんだから、そう書くより他ない。でもその歪みこそが、最後に書こうと思っていた一場面と一致する理由だった。その思い出が、どうしてそんなに平凡な出来事だったのかも、それだと思う。今、思い出すべきことを、あの時に見ていたのだ。そして、いつも思い浮かべていて、だから、どうしてかわからないまま、大切な一瞬として心に残しておいた、独りじゃなかった、と。

 さて、最初から書こうと決めていた話と成り行きをここで鉢合わせにしてみたけども、今度はうまく納まるのだろうか……

 昼下がり、都心からは少しだけ離れた住宅地でのことだった。

 それほど広くない真直ぐな道で、ぼくの前には一台の車も走ってなかった。五十メートルほど先に小学生らしき男の子が、道路の真ん中で大股を開いてこちらを凝視している。その道路の左隅には、もう一人男の子がいて、お母さんらしき女の人も一緒だった。

 そこには大きな都営住宅があって、よくそこの人がここでタクシーを待っている場所だったから、お客さんだとはすぐわかった。

 少し近づくと、男の子は急いで二人の方へ走り寄る。「タクシー発見!」という声が聞こえてくるかのようだった。更に近づくと、道路に大げさに大股で踏み出して、手を振るように合図した。もう一人の男の子は背がもう少し大きくてお兄ちゃんだなと見えた。

 この時ぼくは、その少し前に嫌なことがあって、落ち込んでるってほどでもなかったけど、少しだけテンションが低かった。だから少しだけ前向きになろうとしていたところで、気分転換にはちょうどいいタイミングだった。

 ドアを開けると、勢いよく弟の方が飛び込んできて奥の窓側を確保して、でもお兄ちゃんがすぐさま弟を押しのけて、窓側を争う。ぼくの気分転換の「こんにちわー」はかき消されてしまう。だからお母さんにそれを求めようとしたんだけど、そのお母さん、まだ半分ドアの外側から、「〇〇病院お願いします。わかります?」ともう乗りながら早口に喋っていて、だからぼくの気分転換の思惑は、聞こえないみたいで、まあ、タクシーには乗りなれてないんだな、とはすぐ感じた。よくあるケースで、ぼくは「わかりますよー」とフランクに言って走り出した。兄弟はまだ争っていた。

 結局窓側はお兄ちゃんが力任せに奪い取って、しかもちょっと叩いたみたいで、弟は半べそ寸前だった。お母さんは別に注意するわけでもなく、シートに背を任せて、涼しげで、ぼくは、コースなんか確認したらかえって不安に思わせちゃいそうだったから、黙って進行した。まあ、兄弟喧嘩がうるさくてタイミングも逃していたし。でも、不意に気持ちを乱されたから、いっぺんに気分が晴れて、すっかり落ち着いてしまった。

 弟はまだ窓側に未練があるようで、またちょっかいをかけていたけど、お兄ちゃんは頑なに譲らず、だから、あきらめて、少し前に乗り出してフロントガラスから外を眺めていた。お母さんはそんな兄弟に見向きもせず、何か、安心しきった様子。まあ、行き先を言って運転手が了解したんだから、もうあとは到着を待つだけって感じだった。

 走り慣れた道だったからスイスイ進むと、静かに外を見ていた弟が、「タクシーって速いね……」とぼそりと言った。お兄ちゃんも「ホント、速ぇーな」と右の窓の外を見ながら言い、お母さんが初めて二人をチラッと見たのが感じ取れた。

 ちょっとして、また弟が、「タクシー久しぶりだね」とぼそっと言うと、今度はお母さんが、「そうかしら、この前も乗ったんじゃない?」と少しだけ運転手を意識したみたいだった。弟は、「えっ いつ?」と言い、お母さんは知らん顔。でもお兄ちゃんが「いつさっ?」詰め寄ると、「ほらっ、お母さんのお姉ちゃんの引っ越しの時、乗ったじゃない」と言うと、お兄ちゃんが「そんなの去年の話じゃねーかよ!」と言って、二人は揃って背もたれにどっと沈んだ。お母さんは笑っていた。

 また少し沈黙して、また弟が耐え切れずに、「楽ちん、楽ちん、タクシーって楽ちんだねー」と言って、でもお兄ちゃんは無視して窓の外から目を離さず、お母さんは、気持ちよさそうに目をつぶっていた。ぼくは静かにしなくちゃと思った。

 今度また弟は、白々しく「ヒェー、もしかしてあの1070円っていうのは?」「……たっけぇーー」と一人芝居をして、お兄ちゃんも乗せられて、「ねぇ いくらずつ上がるの?」とお母さんに質問した。お母さんは「えっ?」と言って困り、「ちょっと見てみよ」とごまかして、三人で次に料金が上がるのを待った。ぼくは何も言わなかった。お母さんは「120円くらいかしら」、兄弟は「60円」だの「30円」と言っていた。

 今のぼくだったら、上がりそうになったらメーターを手で隠したりして笑わそうとかするんだろうけど、ぼくはもう、弟が「タクシーって速いねー」と言った時から何故か特別な気持ちになってしまっていて、うれしくて、幸せで、動けなかった。

 このときぼくは自分の仕事を少しも自分本位などとは思っていなかったけど、でも、自分一人に行き着いて終わりを迎えた時に ポッ と浮かんだものと同じものを感じていたような気がする。どうしてかはわからない。自分の仕事が他の人に役に立っているという、ただそれだけで、それがありがたくて仕方なかった。

 兄弟がうれしそうにしているのを見てお母さんが、「今日は特別よ」と自分の手柄のようにタクシーのことを言って、まるでぼくの代わりにタクシーの仕事を自慢してくれたみたいに聞こえた。それを最後に、この親子の会話の記憶がない。どこで降りたかすら覚えていない。過去に書いたものを全て読み返しても、この後には走った感覚しか触れていなかった。

 ぼくはもちろん、このお客さんたちが、できるだけ喜ぶように走った。

 なるべく速く、でも楽ちんに。信号では、なるべく前に静かに止まるように。できるだけ安全で、速やかに進むコースを選んで。お客さんが不安を覚えないように。スピードも出し過ぎず、でも、せかせかしているようにも見えないように。で、なるべく安く済むようにメーターの料金にも目配せして。……よく考えてみれば普段していることと何も変わらなかったけど、その普段通りがお客さんに心地よさを与えられていることがうれしくて、自分が社会の歯車の一つとして貢献できていることがすごく幸せに思った。自分なんてどこにもいなかったけど、いないからよかった。エンジンの音と、風を切る音、お客さんの声、更には窓の外の雑踏までが一つになって、自分もその中に組み込まれていることがうれしくてたまらなかった。気づけば、タクシーをしていてよかったな、という瞬間になっていた。

……自分一人になると、自分は一人じゃないってことに憧れを感じるから、だからまた群衆の中へ向かって行こうって気が起きて、そうして新しく四季は繰り返される、なんて思うと辻褄も合うし、こんなところでぼくの春夏秋冬をお終いとしたい。 

 今

 真冬の間にぼくは、車全体をピンク色にしてしまった。いや、オレンジといえばいいか赤と呼ぶのが正しいのか……一応コーラルピンクと書かれていたけどもその色のラッピングフィルムを貼ってみた。緊急事態だの蔓延防止だので全然仕事にならず、つまらなかったから。自分で貼ったので、よく見るとボロがたくさんあるんだけど、乗り込んで来るお客さんの半分ぐらいは「気分が明るくなった」などと言ってくれる。協同組合に所属していると色は決められていて、だから東京では個人タクシーのほとんどが、白か黒。ぼくは、せっかく自由に選べる立場なので、白か黒以外で仕事をしたくてそうしたんだけど、まあ色自体にはこだわりはなくて、「自由だ」ということをアピールしたかった。

 でも自由とは捉えどころのないもので、決められていることの中にあってはじめて生じる感情で、カントが鳩に「空気がなければもっと自由に飛ぶことができるのに!」といわせて読み手に悟らせようとしたように、何も制限のないところには発生しない感情で、説明するのは難しい。でも仕事という何とも不自由なものが、それを叶えてくれるような気がする。だからぼくの自由は、協同組合や社会というものがあったからこその賜物だ。

 結局自由とは……まあわからないものなんだけど、思うようにならないことがあるから感じられるのは間違いない。世の中のリアルなことってまさに「思うようにならないもの」で、そんなものと自分が向き合った時に、そこに自由があった……り、なかったり。

 今東京では、ウーバーイーツなんていう新しい仕事が出現して、でしかも流行っちゃってるもんだから交通マナーをかき乱してけっこうな社会問題なんだけども、そもそも自転車の道路への進出がタクシーにとってはかなりのストレスとなっている。だからぼくは道路の住人として何度もそんな自転車野郎とのバトルをした経験があって、で一つ、忘れたいのに忘れられなくて困っている。だから、それをここに告白することによって、置き去りにしたいと思う。新しく季節を始めるために。新しい自由を手にするためにも!

  白金台の交差点で、だった。同じ歳くらいのスポーツタイプの自転車に乗った野郎と大ゲンカになっちゃって、でもそいつはなかなか立派なヤツで、散々言い合った後に、ぼくの言い分の方が正しいときっぱりと認めて、大勢の見物人がいたっていうのに「ごめんなさい」と頭を下げてきたのだ。ぼくはほだされてしまい、「こっちも大声で悪かった」と言って握手を求めたんだけど、そいつ、半笑いで「それはいいですよぉ~」と拒否してきやがって、一旦差し出したその手のやりどころがなく、なんというか、試合に勝って勝負に負けたような気分にさせられて、もう今思い出しても悔しくて、悔しくて。……まあ、憶えていても仕方のないことだけど、できればもう一度やり直したいと心待ちにしているくらいだ。

 憶えていても、忘れても、取り巻く世の中は常に新しくなってしまうけども、繰り返すこともまた多く、忘れていたら気づかないけども、経験が役に立ってた、なんてこともあるかもしれないし、一旦目を閉じて全てを忘れ、そしてまた開けた時には群衆の中に向かっていく自分の姿が、そこにある。まず始めは、あの女の人からか…… 

 車道に一歩はみ出して手をあげている、その女の人の前に ……ッカ チッカ チッカ とウインカーをあげて、ゆっくりと車を寄せ、ドアを開ける。外の雑踏が一気に車内に流れ込んで、車の外と内とが一つに繋がる。
 バンっ というドアの閉まる音を合図に、一瞬繋がった雑踏は、再び遮断。挨拶をして、行き先のやり取りを終え、走り出す。少し間を空けて女の人は、静かな音を立て始める。

 ……カチャッ キュッ コトッ カチャ これから出掛ける女の人の定番の仕草。隔離された車内に響くその静かな音が、淡々と続く。その姿を見ることはできない。目をつぶっている時に歯医者がする道具選びを聞かされているような、そんな気分で車を走らせる。話し掛けられれば会話をするし、されなければ、そのまま黙っている。ただ、化粧の邪魔をしないよう、空気のような存在をめざすのがぼくのタクシーの流儀だ。
 特別なことがないのが理想的で、ただ普通に「普段通りだな」と思われれば、それがベスト。そんな営業をなるべく心に映している。

 お客さんはお客さんの普段通りを無事済ませ、到着までの手持無沙汰な時間を「なんてことのない会話」にあててくれる。ある意味、ここで一仕事終わったような気分に。料金を貰い、「忘れ物ありませんように」などと声を掛け送り出す。ドアを開けたと同時に、外の雑踏はまた一瞬にして車内を飲み込んで、ぼくは、自分も雑踏の一部だということを思い知らされる。

 そっぽを向いた、もう無関係になったその女の人を見ながらドアを閉めれば、静かな個室は、また蘇る。外の雑踏は、まあ、聞こえないことはないけども。 ……ッカ チッカ チッカ とウインカーを合図して、また再び街の中へ、群衆の中に紛れ込もう。それぞれの普段通りにどうかかわろうか。タクシーはその一部を担っているんだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?