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【全景公開】佐渡の文人輩出に貢献した人を語る〜諏方神社③

今回も佐渡の諏方神社にある碑についてです。今回で最後。
最後に碑文全文を載せていますので、興味ある方はご覧下さい。

前回までの投稿はこちら

この神社には碑が2基あり、どちらも明治の大家、日下部鳴鶴の書です。

『佐渡碑文集』によると、元々は別のところにあった碑であるそうです。

今回は「溟北先生之碑」です。

茂みに囲まれています。

篆額・本文ともに日下部鳴鶴の書です。

鳴鶴風のやや平べったい結構で、起筆を鋭く立ててするどい筆致で書かれています。
かの有名な大久保公神道碑よりも10年近く前の作品。
唐代風楷書の影響が色濃く出ています。

では、碑文をみていきましょう。

佐渡之州。孤絶乎海中。土狭人寡。而論北陸文学。必先屈指焉。蓋有溟北先生者。与葵園学古二子。後先踵出。以興学育才為任漸磨陶冶数十年。化行俗成。所以能致其盛也。溟北名葆。字子光。丸山氏。後改円山。溟北其号。一号与古為徒齋。又宛在水中央漁者。通称三平。加茂郡夷町人。本姓小池。出嗣丸山氏。祖名房躬。荘内藩士。父名敏字遜卿。号学古又蒲蘆窩。好学研思経術。尤邃史学。有故去藩来寓佐渡。愛両津山水遂家焉。土人慕風。多来受教。郷先輩曰田中葵園。名清。字子廉。嘗従学林述齋佐藤一齋。文政中。泉本某為佐渡奉行。葵園建議興学校。薦学古為教授。学古以処士。授徒湖上。其於葵園。道義有素互相提挈。娶小池某女。無子。養溟北為嗣。小池氏姪也。溟北幼頴異。好学淬励切劘。比弱冠。巍然成立。天保八年学古没。慨然自奮。期以大成。負笈東游。執贄於亀田綾瀬。学大進。与芳野金陵同
門友善。綾瀬薦之壬生候。乃帰郷将奉母就辟。母氏不懌曰。吾不能従汝離父祖墳墓也。溟北難違其意。遂止東行。十三年十一月。母氏歿。奉行内藤某。聞溟北克継先業篤行謹慎。辟為儒員。藤木子秀薦之也。子秀名穂。葵園仲子。以監察摂学正。初溟北帰郷。子秀謂之曰。子之欲東。吾知其志有在。然舎先業而他之。鼎俎之養。孰与菽水。慈旨不懌不亦宜乎。溟北深以為然。至是。以其薦襲父職。溟北既管学政。以教育自任。崇徳行。綜文芸。巌考課。明黜陟。綱紀秩然。弟子益進。一州翕然嚮化。髦俊輩出。本州文学。葵園学古倡之於前。而溟北実大成於後焉。事聞幕府。昇為州学教授。班上士。賜以世禄。蓋異数也。明治二年。 朝旨収本州士禄。溟北学職仍旧。七年。 朝廷置教部省。以溟北有声望。託以管理地方祠官。因兼任度津神社権宮司。明年為正。自権中講義進中教正。十四年辞宮司。初 朝廷頒布学制。務取法欧米。溟北謂是吾当退之秋也。決意辞学職。家居教授。暇則栽花移樹。荷鋤灌園。名其園曰撫孤松。優遊自適。不復問世事者二十年。二十五年五月丗一日歿。年七十五。葬相川愛宕岡。門人私諡曰文淑先生。骨議建碑湊町妙法寺。寺其先塋所在。溟北常愛其勝景。因卜此地云。溟北学無所専主。淵博深粋。出入古今。折衷諸家。兼善詩文。為人魁偉。好談論。音吐朗然如鐘。年已七十。編著兀兀不已。所著有大学夷考。四書標異。衡泌録。溟北文稿等。文稿行于世。余蔵家。配嵒佐氏先歿。三男四女。二子聿。字子修。承家。余皆殤。一女適鈴木氏亦夭。孫男二女四外孫三。銘曰。
十室忠信 武城弦歌 誰曰其小 大何以加 化成教達 儀表北陸 有文有行 士子矜式 金銀之郷 宝蔵興焉 世知其物 罕知其人 善人国宝 富潤家国 其人是誰 嗚呼文淑
明治丗一年八月 正四位文学博士重野安繹譔 正五位日下部東作書并篆額

碑本文 (参考『佐渡碑文集』山本静古)

全部で25行もある大作です。1行約39字なので、単純計算約975字になります。
原稿用紙2枚半程度の文章を考えるのも大変ですが、その文章を一定の調子で書き上げるのは並の集中力ではないですね。

碑文を探したところ、『佐渡碑文集』に記録が残っていましたが、異同が多く、特に19行目に当たる「骨議建碑湊町妙法寺寺其先塋所在溟北常愛其勝景因卜此地云」は『佐渡碑文集』に記載がありませんでした。

それを踏まえた上で上の碑文は整理しています。

本文があまりに長いので、要約すると次のようになります。

佐渡島は陸地が狭小で人口が稀薄な島ではあるが、明治時代に至るまで数多の優れた文人を輩出した。

その中でも代表的なのが儒学者の丸山葆(号:溟北)である。丸山は佐渡に移住してから多くの弟子を教育し、田中葵園らと共に島の学校設立に尽力した。学政を掌握するとともに教育活動に積極的に関与し、佐渡の文明化・教育水準の向上に多大な影響を与えた。

明治維新後もしばらくは教育者として島内で活動を続けたが、欧米流の新しい学制にはなじめず、晩年は隠居して教授と作文に専念した。生前の業績を称え「文淑先生」と諡され、今も佐渡の文化的精神的支柱として敬愛されている。

溟北先生は亀田綾瀬にも師事し、東(東京のこと?)で活躍することを望んでいたが、佐渡に帰っていた溟北に対して藤木子秀なる人物が

「あなたが東に行きたいと望んでいることは、私は知っています。あなたの志はそこにあります。しかし、先の業を捨てて他のことに取り組むことは、どうでしょうか。鼎俎の養(高級な食事)は、菽水(粗末な食事)と比べて、どちらが美味しいでしょうか。親の慈愛に背いて、不満を抱くのは、喜ぶべきことではないでしょうか。」

と言って引き留めたようです。

そのおかげで学校ができ、多くの文人を輩出に繋がりました。

溟北先生が著した本に『大学夷考』・『四書標異』・『衡泌録』・『溟北文稿』等があり、国立国会図書館のデジタルコレクションでは『大学夷考』と『溟北文稿』が確認取れています。

以下は全文です。撮りにくい場所だったので、やや見ずらいですが、ご了承下さい。興味ある方はご覧下さい。

最後までご覧下さりありがとうございました。

参考文献
『佐渡碑文集』山本静古
山本修之助 編『佐渡叢書』第12巻,佐渡叢書刊行会,1978.7. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9540897 (参照 2024-01-21)より

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