2-2-3. 中華文明 新科目「世界史探究」をよむ
「中国」って何だろう?
「中国」という言葉の初出は、西周代の金文や、前10世紀から前8世紀頃の詩歌を集めたといわれる『詩経』にある。
太字の部分は、「この京師(けいし)を恵(め)でて以て四方を綏(やす)んぜよ」と読み下す。
しかし、ここに出てくる「中国」は、現在のわれわれが考えるような領域をもつ広い中国ではなく、成周(現・洛陽)や殷の都・大邑商を含めた殷の首都圏を指すと考えられる。
そもそも黄河や長江の流域を中心とし、渤海・黄海・東シナ海に面するユーラシア大陸東部の北緯25度〜北緯45度、東経110度〜120度あたりエリアには、複数の新石器文化が芽生えていた。
それぞれの文化圏がいかに広かったかは、上の地図に見える朝鮮半島や日本列島と比較すれば、一目瞭然だろう。
たとえば四川省では、三星堆(さんせいたい)遺跡が示すように、周辺に力をおよぼす文明があったことがわかっている。
ちなみに上図よりもさらに南方に、雲南(うんなん)という地域がある。
ここはのちに「中国」文化圏にとりこまれる地域だが、自然環境や生活習慣などの点で、日本との類似点が指摘されてきた。
話を戻そう。
上記の新石器文化圏のうち「中華」という共通意識を形成していったのは、黄河流域の文化的なまとまりだ。
これを中原という。
中国史はふつう、夏→殷→周→秦・・・という王朝交替によって語られる。
のちの時代に書かれた史書を読むと、天下を統一した秦から逆算し、特に夏、殷、周も天下をおさめ、中華文明の中心であったかのように読めてしまう。
しかしこれら初期の王朝(「三代」という)の時代には、中華文明がおよんでいたのは中原周辺に限られた。
黄河上・中流域に前5000年頃には仰韶(ぎょうしょう)文化とよばれる新石器文化が生まれ、前2500年頃には濠や防壁で囲まれた邑(ゆう)という集落が発生し、中・下流域に竜山(りゅうざん)文化が栄え、大規模な集落も現れた。
前16世紀には、邑の連合体として殷(いん)という王朝が生まれ、新石器以来の中原区の東部、さらにその東を支配し、青銅器文化を発達させた。神権政治がおこなわれ、漢字の起源となる甲骨文字が用いられた。
その後、西方から牧畜民が侵入し、前11世紀頃に周を建て、殷を滅ぼし、一族や功臣たちを諸侯として統治をゆだねる封建制がおこなわれた。
牧畜民?
そう。
上記の文化的まとまりのうち、北方・西方に位置する箇所は、内陸の乾燥地域に接しているため、必然的に家畜とともに暮らす牧畜民(特に遊動生活を営む牧畜民を遊牧民という)との交渉が密であった。
殷王朝でも馬車戦車(チャリオット)がつかわれていたことから、農耕地帯である上記の文化的まとまりにおいても、かなり古い時期から牧畜文化の影響を受けていたことはまちがいない。
周は中原区の西部・東部、さらにその東方を支配し、青銅器に文字を鋳込む技術を殷から受け継いで、独占した。文字の入った青銅器の分配には、単なるモノの受け渡し以上の意味、すなわちモノの授受を通した権力関係の構築という役割があった。
前770年に周は東に都をうつすと、諸侯らのおさめる国々が覇権を争う時代(前半が春秋時代、後半は戦国時代)にはいる。各国は富国強兵を目指し、鉄製農具が普及し、牛犂耕が普及し、治水灌漑が積極的におこなわれ、貨幣経済もひろまり青銅貨幣が発行された。
しかし戦国時代のはじめ頃、「中国」とよばれた範囲は、黄河中流域に限られ、長江より南の諸国(楚、呉、越)や、西方にあった秦は「戎翟(じゅうてき)」とか「蛮夷」と呼ばれ、「中国」には組み込まれていなかった。
しかし、学問や経済の中心となった都市は人口が増えて大規模化し、ほかの都市を支配下にとりこみ、戦国時代にかけて領域をもつ国家(領域国家)に発展していった。
たとえば山東半島には斉(せい)という大国があったし、長江中流域には楚、長江下流域には呉や越という大国群があった。これらの国々は、ようするに新石器時代の文化的まとまりを引き継いでいるわけである。
春秋時代以降、周王朝の混乱により、青銅器に漢字を鋳込む技術が周辺各国に流出したため、漢字文化圏は拡大した(ただし字体や意味は不統一)。各国では戦国時代に文書による行政が始まり、律令に基づく法体系がつくられていった。ここにおいて漢字は祭祀のための道具ではなく、行政のための道具へと変貌していったのだ(平勢隆郎、上掲、35頁)。
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