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世界史の教科書を最初から最後まで 1.2.3 ポリスの形成と発展

前8世紀(今から2700年ほど前)、日本が弥生時代であったころのギリシャでは、各地の防衛拠点が戦乱のなかで都市に発展していった。

この都市を中心とする支配組織(都市国家)のことをポリスという。


ギリシア人のすべてがポリスを建設したわけではなく、内陸部の人々の中には王国を建設する人たちもいたことには注意しよう。

ポリスの支配層は、軍人でもある貴族だ。
丘(アクロポリス)の上には神殿が建てられ、ふもとの広場(アゴラ)は政治だけでなく交易の場でもあった。

ポリスはいわば一つの国であり、各地に複数のポリスが建設され、互いに覇権を競い合ったんだ。

しかし、定住する人が増えると人口も増加し、やがて土地が不足していくことになった。

そこで前8世紀も半ばとなると、ギリシア人は船に乗って「新天地」へ乗り出すようになるんだ。



乗り出す先を決めるのには、神々のお告げが参考にされた。
地中海各地や黒海の沿岸に移り住んだ人々は、「ふるさと」との結びつきを維持したまま、新たな都市を建設した。これを植民市と呼ぶ。

例えば、フランスに現在でも残るマルセイユ(ギリシア語でマッサリア)。

イタリアのナポリ(ギリシア語ではネアポリス)。


シチリア島のシラクサ。


そしてその後、二千年以上にわたり繁栄し続ける、地中海と黒海をつなぎ、アジアとヨーロッパをつなぐ都市イスタンブル(当時の呼び名はギリシア語でビザンティオン)!


こんなふうにギリシャ人の行動範囲が広がると、ライバルのフェニキア人とも、商業上のつばぜり合いが激しくなっていった。

フェニキア人はもともと、現在のレバノンにあるシドンやティルスに拠点を置いていたんだけれど、戦乱を避けて現在のチュニジアに築かれたカルタゴという植民市が急成長していった。



地中海から太平洋に抜ける出口となる海峡である「ジブラルタル海峡」を握っていたのも、フェニキア人だったんだよ。



このように、フェニキア人としのぎを削りながら成長していったギリシア人。
当時の東地中海で活躍していたフェニキア人のフェニキア文字のアルファベットを参考に、ギリシア人もギリシア語のアルファベットを開発していった。小文字のα(アルファ)やβ(ベータ)、それにパイ(π)って、どっかで見たことあるはずだよね。
のちにローマ人が「ローマ字」(ラテン文字)のアルファベットに発展させていくんだよ。

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このギリシア文字を使って、ホメロスによる『イーリアス』や『オデュッセイア』のような神話や叙事詩もつくられるようになるよ。
それに植民市の農業を舞台にした、ヘシオドスによる『労働と日々』を読むと、当時の人たちの暮らしぶりや価値観がよくわかる。

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「毎年高い雲間から鳴く鶴の声を聞く時(11月半ばころ)には、注意せよ。
鶴は耕作の時を告げ、雨多き冬の季節を教える。(7行略)
この耕作の季節の知らせを受けたら、
奴隷たちも自分もともに急いで、
乾いた地をも湿った地をも、
この耕作の時期に耕せ。
耕地が方策となるように、
早朝より忙しく。……(41行略)
奴隷たちに命ぜよ。
「夏はいつまでも続きはしない。納屋を作れ。」
(出典:ヘシオドス(桜井万理子・訳)『労働と日々』、江上波夫監修『新訳 世界史史料・名言集』山川出版社、1975年、11頁)




こうしてギリシアは、政治的には複数のポリスや植民市に分裂するかっこうになったんだけれど、「ギリシア人」という意識は決して失わなかった。

自分たちのことを誇りを込めて「ヘラス」(ギリシア人)と呼び、ギリシア語のわからない人たちのことは、おおいにディスった。
彼らはギリシア人以外の民族のことを、バルバロイと呼んだ。「わけのわからんことばを話す人たち」っていう意味だよ。


まあ、人間を味方と敵に分ける発想法は、ギリシア人に限ったことではなく、世界中に見られるものだ。

ギリシア人たちは共通の神々をまつり、人間界に対するアポロン神のお告げが重要視された。アポロンの神殿はデルフォイというところにあるよ。

神々に捧げる儀式として、聖地オリンピアでスポーツ競技大会も開かれた。この「古代オリンピック」こそが、19世紀末に復活することになる「オリンピック」のルーツだ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊