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【図解】ゼロからはじめる世界史のまとめ⑪ 200年~400年の世界

ユーラシア大陸の内陸部と沿岸部あった大きな国が地方ごとに分かれ、さらに交流を深め発展していく時代

この時代はどんな時代ですか?

―気候の寒冷化の影響で、遊牧民グループがユーラシア大陸の農耕エリアに向かって大移動をする時代だ。

―進出を受けたユーラシア大陸の沿海部では、貿易の利益をコントロール下に置く支配者が発展。
 遊牧民の支配の及ばない大きな川の河口エリアでも、開発が進んでいった。

なんだか地図がどんどん複雑になっていますね…

―たしかに大変だけど、それだけ人間の暮らしが地方ごとにバラエティ豊かになっていっているっていうことだよね。
 こんなにもさまざまな可能性を形に残すことができるのは、人間ならではの営みだ。


◆200年~400年のアメリカ大陸

ではまず、アメリカから見ていくよ。

―はい。

北アメリカの北部では、人々がセイウチやアザラシを追う狩猟文化を送っている。

現在のカナダのイグルーリク島の遺跡からは、
かわいいシロクマの彫刻(下図)がみつかっている。


北アメリカ大陸のもう少し暖かいところでは?

―気候に合わせてさまざまな文化が営まれているよ(下図)。

―順番にみていこう。
① 北西海岸エリアは魚介類やクジラ漁業やアザラシ・ラッコの狩猟がさかんで、農業をしなくてもかなり多くの人を養うことができたエリアだ。


② 西部エリア(グレートベイスン周辺)の人々は狩猟採集を送っている。


③ 大平原エリアは乾燥草原地帯。バッファローなどの狩猟や採集だけでなく農耕もおこなわれている。

④ 南西部エリアは、乾燥した気候の中で狩猟採集だけでなくトウモロコシの農耕もおこなわれ、広範囲にわたって文化を共有する大きな集落ができるようになっている(ホホカム文化(下の映像)、モゴヨン文化など)。

⑤ 東部森林エリアでは狩猟採集をおくる人々が暮らす。大集落の支配者の墓とみられるピラミッド(注:マウンド)も、オハイオ川沿岸など各地で見つかっている(注:ホープウェル文化)。


⑥ 南東部のミシシッピ川流域でも狩猟採集に加え、トウモロコシの農耕を営む大きな集落も現れている。


けっこう多種多様なんですね。

―同時期のユーラシア大陸に比べるとかなり質素なくらしだけど、それぞれの環境に合わせて生活を営んでいるのがわかるよね。


 さらに現在のメキシコからグアテマラにかけては、「同じような文化」を共有する人々が暮らすエリアだ(メソアメリカ文化圏。特徴については下掲書を参照されるとよい)。マヤやティオティワカン(地図中の「ティオ」)には大きな都市が発達する。

 先ほどの北アメリカの人々も、この文化圏との取引をしていたようだ(下掲書を参照)。

 多くの人が共同生活を送る都市がいくつもでき、農業や貿易の利益をコントロールする支配者が立派な神殿を建設して、富を独占している。

 当時の王様のパワーを物語るように、ヒスイという青い宝石で全身をおおわれた王様のお墓も、ピラミッドの中から見つかっているんだ。


統一された大きな国があったわけではないんですね。


―都市ごとに王様がいて、たがいに争っていたんだ。

 この時期には北の大都市から、南の熱帯エリアに軍隊が進出して、いくつかの都市は乗っ取られたらしい。どうしてわかるかというと、正確な日付とともに支配者の名前が石碑に刻まれているからだ。現在では文字はほとんど解読され、詳しい事実が次々に明らかになっているよ。

 北アメリカ大陸と南アメリカ大陸のつなぎ目の部分(注:パナマからエクアドルにかけての「中間地域」)にも、比較的小規模なまとまりができている。南北アメリカとカリブ海の文化の影響を受け、それぞれと交易もおこなっていたようだ。


南アメリカは?

―ペルー沿岸ではモチェ文化とナスカ文化で、強い支配者が神殿を中心に都市をコントロールしていた。海岸付近では巨大な「地上絵」が描かれて、雨乞いの儀式が行われていたらしいね。

 一方、アマゾン川流域でも農業を基盤とする集落が栄え、乾燥草原エリアでは狩猟採集民の活動も盛んだ。



◆200年~400年のオセアニア

―この時期に、南の島の人たちは船に乗って西の島を目指して、サモアを超えてマルケサス諸島のほうまで少しずつ拡大している。気ままな移動ではなく計画的な移住であったらしい。

きれいですね~


◆200年~400年の中央ユーラシア

―南の島とはうって変わって、ユーラシア大陸の中央部をみてみよう。

 この時期に草原地帯の遊牧民の大移動が連鎖的に起こるよ。

 気候が寒冷化に向かい、生活環境が厳しくなったことが原因のようだ。


 草原地帯の遊牧民の活動範囲はスケールが大きい。

 中国の北で活動していた遊牧民グループ(匈奴)が、中国の王様に敗れて西に進んでいき、西のほうでフンというグループに変化していったのではないかともいわれているが詳細は不明だ。

 インドの北方ではエフタルという遊牧民国家が力を強め、イランやインドにも活動範囲を広げようとしているよ。


当時の西の方(ヨーロッパ)にはローマがありましたね。


―そうそう。
 当時のローマでは支配の欠陥が目立つようになっていた。だから国境警備隊を置いて国を守ろうにも、ローマ人の兵隊が足りない状況となっていたんだ。
 ローマ人の中にも貧富の差が広がっていたし、首都から遠いところはコントロールがうまくきかなくなっていた。国全体を一人の皇帝が支配することも難しくなっていたんだよ。

じゃあ誰が国境地帯を守ったんですか?

―国境地帯にAとBという遊牧民グループが迫ってきたとする。 この場合、ローマは遊牧民グループBを「ひいき」して、ローマの国内で兵隊として働かないか?と誘った。そして「ライバルのAがローマに入ってこないように国境を守ってくれ」と頼むんだ。

敵を倒すのに敵を利用したというわけですね。

―そうだね。でも、「フン人」という遊牧民グループが東の方からローマ国内に突入すると、もはやコントロール不能となってしまった。 
 「フン人」は別の遊牧民グループを倒すたびに、その軍隊を自分たちの仲間として採用し、「雪だるま」のようにふくれあがってローマに入ってきたんだ。


そりゃ大変ですね。

―結局なだれを打つようにローマ国内にいろんな遊牧民が入り込み、各地のローマ人を支配しはじめたんだ。

 彼らのことをまとめて「ゲルマン人」という。軍事的にはローマはとてもかなわないからね。ローマはこの状況を認めざるをえなくなった。
 こうしてもともといたローマ人の貴族たちは、あとからやってきたゲルマン人たちの支配下に置かれることになった。


草原地帯の東の方でも同じように遊牧民の移動は激しくなっているんですか?

―そうだよ。東と西で連動している。
 中国では大きな国(漢)が滅んでからというもの破壊的な内戦となり、結果的に3つの国の争う時代(注:三国時代)となっていた。「自分が皇帝だ」っていう人が3人いた時期もあるんだ(地図は世界の歴史まっぷより)。



 でもそのうち黄河に拠点を置いた国(注:西晋)がようやく統一を果たす。
 しかし今度はそこに遊牧民がやってきたわけだ。

 遊牧民たちが定住民エリアを支配するために、やはりここでも彼らは中国の伝統的な価値観を大切にした。
 「郷に入っては郷に従え」というわけだ。


 一方、遊牧民エリアに残ったグループもいる(注:中国からは丁零(ていれい)や高車(こうしゃ)と呼ばれた)。「トルコ系の言葉」を話す人たちだ。

トルコってもっと西のほうにある国じゃないですか?
―今はね。でも彼らのふるさとは、中国の北にあるモンゴルのほうなんだよ。

◆200年~400年のアジア


―この時代には遊牧民が中国に移動して来て、「中国の皇帝」を名乗る支配者も現れるよ。

遊牧民が中国の皇帝になんてなれるんですか?

―まあ、「中国人」って「中国の文化(漢字など)を受け入れた人」っていう意味ととらえれば、北のほうの遊牧民が中国文化を受け入れたってことは、見方を変えれば「中国」の範囲が遊牧民の地域にも広がり始めたっていうことになるんじゃいかな。
 実際にこの時期にある遊牧民は、自分たちの言葉をやめて「漢字」や「中国のファッション」を取り入れている。

 こんなふうにして、この時代の中国では遊牧民出身の人が定住民の中国人と協力関係を結んだり、あるいは「自分はやっぱり遊牧民だ!」というように中国人と敵対したりという関係がしばらく続いていくんだ。

 定住民である中国人を納得させるには、“中国的”な支配者を演じなきゃいけないから、またそれはそれで大変なんだけどね。。


すべての中国人が遊牧民の支配者に対して納得したんですか?

―そんなことはないよ。
 遊牧民が中国に入ってきて国(注:後趙前燕前秦)を建て、黄河流域や西につながる貿易路シルクロードを確保しようとすると、多くの中国人は長江のほうに避難民として逃れていった。


 手付かずで未開発の地域の多かった長江下流は「湿地帯」。
 長江はいわば自然の「万里の長城」
 さすがにここまで遊牧民も追っては来れまい。
 
 長江流域はこの時代以降、湿地帯のぬかるみを除去する開発が進んでいくんだ。


 一方、黄河流域は遊牧民の一派(注:鮮卑(せんぴ))の建てた国(注:北魏)がまとめていくことになるよ。
 

* * *

皇帝が二人いる状態になったんですか。

―だから支配者たちは、「いかに自分たちのほうが完璧な中国文化を持っているか」っていうことをマウンティングし合った。書道とか絵とか、「中国っぽい文化」のルーツはだいたいこの時期に確立したんだよ。


 ちなみに当時の日本では、前方後円墳という古墳をつくらせるくらいのパワーをもっていた王様たちが「南が本当の皇帝だ」と判断して、使者を送っている。


なるほど。では朝鮮はどうなっていますか?

―朝鮮の北の方では狩りを得意とする一団が強い国(高句麗)をつくっている。
 中国は朝鮮の支配をキープしようと役所を残すけど、国がバラバラになると経営は厳しくなっていく。

どうして中国は朝鮮にこだわったんですか?

―朝鮮は資源も豊富で、貿易の窓口にもなった。日本のほうとのつながりもあったんだけど、高句麗の力が強くて、南のほうにあった国々は「どうしようか」とお困りの様子だよ。


東南アジアはどうなっていますか?

―季節風貿易がブームになればなるほど、東南アジアでは港町や貿易ルートをコントロールする支配者に力が集まっている。
 ベトナム(地図)の南のほうの人たちの国(注:チャンパー)や、メコン川下流のクメール人(またはマレー人)による扶南(ふなん)が特に栄えているね。


現在のクメール人


現在のマレー人MALAY MAILより)

現在のチャム人EMINZIKI TRAVEL&TOURより)


―中国や東南アジアにしかない産物をめぐって、インドからも船にのって人々はやって来た。

インドの人たちはどこからやって来たんですか?

―特に南インドのタミル人の活動がさかんだね。
 農業や貿易の利益をコントロール下に置いた王国が栄えているよ(注:チョーラ朝チェーラ朝パーンディヤ朝)。
 スリランカでも貿易の利益を吸い上げた王国が、仏教を旗印に人々をまとめている(注:アヌラダープラ王国)。


北インドはどうなっていますか?

―この時期、北インドではグプタ朝という国が広い範囲の統一に成功している。支配者たちは多くの人を納得させるため、各地でまつられている神様たちを利用したんだ。

たくさんの神様がいるんじゃ、誰が偉い神様かわからなくないですか?

―そうだね。そこで各地の神様に序列をつけて、とくに人気の高かった神様のランクを上にしたんだ。特にシヴァという神様が人気だ。

 もともとインドにはバラモンという神官が自然の神様に対してお祈りをする宗教があったけど、人気を高めるために先住民(注:ドラヴィダ人)が信仰していたような各地の「ご当地神様」の人気にあやかったわけだよ。

 今ではこれをまとめて「ヒンドゥー教」という。

 神様に愛されるためには「こんな生き方をするべきだ」というルール(注:マヌ法典)が定められ、人々は身分や職業別にそうしたルールを守って暮らした。神様の登場する昔話(注:マハーバーラタ(下の映像(音声はマレー語)))や劇もたくさん作られたよ。

仏教の人気はなくなってしまったんですか?

―仏教の修行をする人はまだ健在で、人里離れた山奥では岸壁を切り開いたお寺が建てられた。
 でも一般人にとっては地元の神様と仏教の開祖の区別はあんまり重要なものじゃなくなっていき、仏教を信じる人は減っていくんだ。

インドで生まれたのにインドでは信じられなくなっていくんですね。

―ちょっと不思議だね。でも仏教の開祖は、インドの神様の「化身(けしん)」(注:アヴァターラ)のひとつになってしまっている。吸収されてしまったわけだね。
 逆にインドの外のほうで仏教はさかんになっていくんだ。この時期にも中国からお坊さん(注:法顕)が「本物のお経」をゲットしようとインドを訪れているよ。


西アジアはどんな感じですか?

―イランではパルティアという遊牧民の建てた国が、農耕エリアやユーラシアの東西ビジネスルートをコントロールして、西のローマと張り合っていた。

 でもこの時代にはペルシア人という民族が反乱を起こして巨大な国を建設したよ。

「ペルシア」ってどこかで聞いたことがありますね。

―昔、エジプトやギリシャのほうまで支配した巨大な国もペルシア人によるものだったよね。
 パルティアはギリシャ人の影響が強かったから、昔のペルシア人の「伝統」に帰ろうとする動きが起こったわけだ。
 王様は、「この世は善の神と悪の神の戦いによって動いている」という宗教(注:ゾロアスター教)を保護していたよ。おそらく草原地帯の遊牧民の伝統的な信仰を受け継いだ宗教だ。

 でも宗教というのはいったん「支配者に保護」されると、「一般の人々の気持ち」からは離れていくもの。
 この時期にはキリスト教の影響を受けた新興宗教(注:マニ教)が流行し、ペルシアの王様に弾圧されている。


この新興宗教はその後どうなったんですか?

―迫害されて黙ったわけではなく、ユーラシア大陸の各地に拠点をつくって広がったんだ。地中海のほうや中国方面にも広がり、初期のキリスト教にとっての手強いライバルともなった。
 魅力的な教えだったんだね。



◆200年~400年のアフリカ


―北アフリカはローマ帝国の支配下にあったけど、しだいに支配はゆるんでいく。
 沿岸にはローマ風の都市(注:世界遺産のヴォルビリス(モロッコ)など)が繁栄している。


 サハラ砂漠の乾燥エリアではベルベル人を中心とする遊牧民の活動がさかんで、地中海沿岸との交易もさかんだ。

 サハラ砂漠の南にはサバンナが広がっていて、農業や牧畜をして生活している人々が質素に暮らしている(注:言語のグループにより分類するとナイロート(下図のE1)、クシュ(クシ、下図のD))。



ナイロート系の人々には現在のエチオピアで牧畜生活を営むムルシー人がいる



 また、現在のナイジェリアあたりのノク文化は、農業を基盤として繁栄しているよ。ナイジェリア美術はデフォルメに個性があって魅力的だ。


 現在のカメルーンあたりを発祥とするバントゥー系の大移動も、ヴィクトリア湖の南のほうにまで達している。

 その南ではコイコイ系が家畜の飼育を、サン系の人々は南西部で狩猟採集生活をつづけている。


◆200年~400年のヨーロッパ

―ヨーロッパではローマ帝国の国力が傾き出している。

 領土が拡大していった反面、イタリアではなくバルカン半島や北アフリカなど出身のいろんな民族の軍人が皇帝に即位するようになった。
 そして、イタリアを中心とする「まとまり」が薄れ、地方色が強まった。

どうしてそんなことになったんですか?


―各地の人々の人気をとるために、「ローマ帝国に住んでいる人全員に政治に参加する権利を与える」とおふれを出した皇帝がいたんだ(注:カラカラ帝)。風呂好きのローマ人のために公共浴場を建設するなど、公共事業にも余念がなかった。


 でも選挙権が広がれば広がるほど、多くの人をコントロールすることは難しくなるよね。いろんな意見が政治の舞台に届けられることになるからだ。
 そこで、「これだけ領土が広くなったら、もはや一人で支配するのは無理だ」と、2人の皇帝と2人の副帝、合計4人で帝国を分担しようとする皇帝が登場(注:ディオクレティアヌス帝)。「国への忠誠」を形で示すことができるよう、皇帝を神として崇める儀式を導入もした。

 しかしローマは、そんな小手先でまとまる状態ではなくなっていた。なにせ「どこに誰が住んでいるのか」という情報でさえ、把握することが難しくなっていたのだ。

 そこでキリスト教を利用しようと思い立った皇帝(注:コンスタンティヌス帝)が登場する。教会は人の生き死にに関与しているから、住民のデータを握っている。皇帝は国を立て直すために、今までさんざん弾圧していたキリスト教を「認めた」わけだ。

 しかし時すでに遅し。
 ゲルマン人の大移動によって”とどめ”を刺されることとなった。
 広くなりすぎたローマは、皇帝(注:ハドリアヌス帝)の2人の息子に分割して相続され、「一人の皇帝による全土の統治」が実現することは二度となかった。


つまりローマは2つに「分かれた」ってことですか?

―そうだよ。
 まあ、それまでも、広い領土を大きく2つに分割して4人の皇帝で分けていたわけでしょ。
 だから、初めてのことではないんだけれど、このとき分かれた東側のローマと西側のローマは、別々の特色を持つようになっていくんだ。


東ローマ帝国はどんな特色を持っていますか?

―経済の中心地であるアジアとの接点があるところが強みだね。

 交流がさかんであれば情報も集まりやすい。
 そもそもエジプトやメソポタミアなどは、長い文明の歴史を持っているから、その分だけ科学技術や思想に関する情報の蓄積もあるわけだ。

 その点では、同じくらい古い歴史のあるイラン高原のササン朝が、東ローマ帝国にとっての手強いライバルだ。

新興国のローマよりも、伝統のある文化が尊重されていくわけですね。

―そう。
 東ローマ帝国の支配エリアでは、そもそもローマの公用語だったラテン語よりも、歴史の長いギリシア語が話されている。
 キリスト教の教会も、ギリシア語で書かれた聖書を使っている。
 そういうわけで、キリスト教の考え方も、ローマを中心とする教会(ローマ・カトリック)とは別の、ギリシア正教会というグループに分かれて発展していくこととなった。

どう違うんですか?

―教義や儀式の方法など、さまざまな違いがあるけど、教会に行ってみるとわかるかもしれない。一般に、厳粛で神秘的なムードが強いといわれる。


正教会の典礼


ローマ・カトリックの典礼


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊