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【第7回】「逆コース」と「系統的」な世界史カリキュラムへの転換
「逆コース」と55年体制
1950年6月に朝鮮戦争が勃発すると、8月に兵力を補うために、マッカーサー元帥の指示により警察予備隊が設置されました。これは52年に保安隊、54年には自衛隊に改組されます。戦後に進められてきた民主化と非軍事化の動きを巻き戻すような動きは、「逆コース」と呼ばれます。
アメリカの対日占領政策の転換は、それ以前の1948年から徐々に進んでいました。冷戦が進行するなか、日本を西側諸国に留めたまま講和(1951年)を達成することが求められるようになったからです。
ここからは少しの間だけ細かい話になります。
簡単にまとめれば、1950年台に入ると、アメリカ陣営に協力する政策をとった自民党が、日本の政治的な権力を握る時代になり、戦後の改革の「行き過ぎ」た面を戻そうとする動きが生まれる。結果として自衛隊ができる。一方、武力を用いて革命を起こそうという路線をとった共産党が、国民の支持を失う。
そのような流れです。
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こうした動きに反発したのは、社会党や共産党をはじめとする革新勢力でした。
敗戦直後の食糧難のなかで支持をのばしていた共産党は、もともとアメリカを中心とする占領軍を「解放軍」と規定し、戦後改革や労働組合のコントロールを通して平和主義的に社会主義革命に移行できるとしていました。当時の指導者は、戦争中も獄中でながく非転向を貫いた徳田球一、志賀義雄、中国で活動していた野坂参三です。
しかし1947年の二・一ゼネストの中止をきっかけに、その勢力は削がれていきます。
屋台骨が揺らぐ決定打となったのは、1950年のソ連のコミンフォルムによる日本共産党の運営方針に対する批判です。このときの批判は、「日本の共産党は、アメリカの支配下におかれているのに、平和的に社会主義に移行できるといっているが、これはおかしい。指導者の野坂参三の理論はマルクス・レーニン主義とは縁もゆかりもない。武装革命路線をとるべきだ」というものです。
これをきっかけとして、日本共産党はこれに反対する徳田・野坂らの「所感派」と、コミンフォルム批判をうけいれて武装革命路線をとるべきだとの「国際派」に分裂。
二度目のレッドパージがおこなわれる中、「所感派」が主導権をにぎり、1951年2月23日から開催された第4回全国協議会(四全協)で、アメリカ帝国主義に従属する日本の金融資本・地主・官僚をたおすための武装闘争が決議されました。
このようにして共産党の方針は、敗戦直後の親米・平和革命路線から、反米・暴力革命路線へと、なだれを打つように転換していったのです。
共産党の動向をつぶさに見ることは、ここでの目的ではありませんが、結論からいえば、日本共産党の武装闘争路線は、1952年4月28日の講和条約発行後におこなわれた10月1日の衆院選での完全敗北(議席が35から0に減少)となってあらわれます。1953年にはソ連のヨシフ・スターリン(3月)、さらに徳田球一(10月)が相次いで死去。
世論の支持を失った形となった共産党は1955年7月27〜29日の第6回全国協議会(六全協)で武装闘争方針の放棄が決議されました。
同じ年の2月におこなわれた衆議院総選挙では、右派と左派に分かれていた日本社会党が合計で156議席を獲得し、1955年当時の鳩山一郎内閣(日本民主党)の憲法改正を阻止。これに対し共産党の獲得議席は前回より1増えて、たったの2議席。共産党と社会党は水と油の関係でしたから、選挙協力はおこなわれていません。
これに対して、1955年11月15日に日本の保守政党であった自由党と日本民主党が合同し、自由民主党が結成されました。実質的には自民党の一党優位制のした、保守勢力・革新勢力の2つの政党が対立する構図、いわゆる「1と2分の1政党制」をとった「55年体制」の成立です。
***
1956年の指導要領改訂:経験主義から系統学習へ
こうした政治的変動のなか、1956年に戦後初めての学習指導要領の改訂がおこなわれます。
「世界史」科目には、どのような影響がおよんだのでしょうか?
もともと1951年につくられた世界史の学習指導要領(試案)は、自主的にカリキュラムを編成し、問いを立てて問題解決学習をおこなったり、主題を決めて選択的に学習をしたりするものでした。
一応参考例として次のような単元構成が考えられるとされましたが、以前紹介したように、基本的には教員・生徒の主体的な「問い」によって構成される自主学習、生活単元学習をベースにしたつくりとなっていました。子どもの興味・関心を大切にし、日常生活の経験のなかに教材を求め、問題解決能力の育成を図ろうとした、アメリカ仕込みの経験主義的なカリキュラムです。
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ですが、こうした自由な形式の授業を組み立てるのは、つい最近まで講義式の授業をしていた教員にとっては、当然容易ではありません。
戦後の経験主義カリキュラムは「這い回る経験主義」と揶揄され、学力低下の原因として批判にさらされました。
一方で、『世界史概観』のような市販のテキスト(準教科書)が、講義調のまとめや系統立ったカリキュラムを提供し、教員や大学受験のテキストとして好評を博します。経験主義的なカリキュラムはやめて、やはり知識の「暗記」「暗誦」を重視するべきだという声も高まります。
こうして、1956年に高校の学習指導要領が改訂されることになったわけです。
このなかで「世界史」科目の目標は、次のように掲げられていました。
高等学校の世界史は、中学校におけるこれらの学習の成果をじゅうぶん生かしながら、世界史をより深く、科学的、系統的に理解させ、また世界の諸民族、諸国家が孤立してでなく、互に交渉をもちながら発展してきたことを認識させる。これらの理解や認識を通し、世界史の発展において、日本の占めてきた地位を明らかにするとともに、日本の民主主義社会の発展および世界平和に対する日本民族の責任を自覚させることが、高等学校における世界史教育の究極の目標である。」
「より深く、科学的、系統的に」という部分から、自由な学習からの訣別が読み取れますね。
さらに構成を図示すると、次のような形になります。
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図のなかでは左のほうに西洋、右のほうに東洋を配置していますが、それぞれ別個のものになっていて、相互の関連が薄いですよね。
欧米諸国は「5」の時代に飛躍的に発展していくのに対して、アジアは「4」の時代にのろのろと停滞している(これには、前々回紹介したマルクス主義的な歴史観も反映しています)。
だから「6」の時代に、欧米列強が世界進出をして、アジアがやられてしまう。
おおざっぱにいえば、そんなストーリーです。
もちろん、東洋史と西洋史を一体のものとして扱おうとする工夫がないわけではありません。
「東洋史と西洋史とを分離して取り扱い、別々の知識をただ与えるというような方法は、目標達成上、望ましくない」とか、「東西の文化交流では、海陸両路による東西の文化交流はもちろん、西アジアおよび南海諸国の政治の変遷や文化についてもふれるべきである」という断りもついています。
しかし、実際には東西交渉を扱う「2」の部分には「イスラム世界」と「中国」しか大きく取り上げられず、ヨーロッパとの関わりも希薄です。
しかも、西洋史は18世紀以降を細かく、東洋史は19世紀後半以降を細かくやるようにとの指示もついている。
1956年度学習指導要領は、まだまだ東洋史と西洋史が有機的に組み合わさったものではなかったのです。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊