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3-3-1-1. オスマン・サファヴィー・ムガル帝国を 「アジアで帝国が栄えました」 で、片付けてしまわぬために 新科目「世界史探究」をよむ

ティムール帝国の末裔であるバーブル(在位1526〜1858)は、16世紀はじめ、中央アジアからインドのデリーに入城し、ムガル帝国を建てた。
これを「インドのティムール朝」とみなすことができることは前回述べたとおりだ。

バーブルは11歳で父が事故で急死し、12歳で即位した。当時はトルコ系遊牧民のウズベクに敗れ、アフガニスタンに逃れるもの、その後二度もサマルカンドを奪回。しかし43歳で北インドのデリーに都を置くロディー朝を破り、新王朝を建て、47歳で病没。間野英二氏が詳しく紹介しているように、ウズベキスタンではいまでも日本の戦国武将のように慕われている人間味あふれる人物だ。


泥酔したバーブル
バーブルの恋愛や酒に関するエピソードは、人情味が溢れ非常におもしろい。上掲書49頁を参照。


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3つのイスラーム帝国の時代


16世紀には、アフガニスタンから北インドを支配したムガル帝国(インドのティムール朝)、イラン高原を支配したサファヴィー帝国(サファヴィー朝)、地中海一帯を支配したオスマン帝国(オスマン朝)が並び立つ時代にあたり、いずれもイスラーム教を国教に掲げて繁栄した時代にあたる。

だあ、17世紀に入ると世界的な気候の寒冷化もあって、これら帝国の支配は揺らぐ。次の18世紀には、西ヨーロッパ諸国が存在感を高めていくことになるため、ムガル帝国、サファヴィー朝、オスマン帝国の3帝国は、往々にして「過去の遺物」のように扱われがちだ。

だが、この時代の西南アジアの繁栄を抜きにして、世界史の展開を語ることはできない。
ヨーロッパ諸国は、東アジアの大明帝国・大清帝国(明朝・清朝)とともに、これらアジア諸帝国に多くを学び、相互に関わり合う中で台頭していくことになるからだ。
また、「イスラーム帝国」イコール 「非ヨーロッパの文明」とみなすのも乱暴だ。たとえばオスマン帝国のメフメト2世(1432〜81)は、かつてのアレクサンドロスや地中海を制覇したローマ皇帝の後継者を自任していたという。いったん思い込みを外して、3つの帝国をとらえてみる必要があるだろう。

ヴェネツィアのベッリーニ(1429〜1507)は、メフメト2世の陥落させたコンスタンティノープルに出向き、この肖像画を描いた。


今回は、これら3帝国に共通するポイントに注目し、ムガル帝国について見ていくことにしよう。


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多様性を認めるゆるやかな支配


その支配の特色は、他宗派や異教徒に対して融和的であったことだ。

たとえば皇帝アクバル(在位1556〜1605)のときには、異教徒に対する人頭税(ジズヤ)を廃止し、ヒンドゥー教徒との融和が図られた。
特に西北インドを支配していたラージプート諸侯と同盟・主従関係を結んだことが重要である。


官僚を用いた中央集権的な支配


また、官僚制を整備し、行政や租税制度を整えていく。帝国内のウラマーや軍人を官僚に取り込み、官位を与えて皇帝に直属させた。

たとえばアクバルは全国を州・県・郡に分け、検地をおこない徴税制度をととのえた。
そして貴族と官僚に対し、ランク(マンサブと呼ばれる位階)に応じて給与地と、保持すべき騎兵と騎馬数を定めた。これをマンサブダーリー制という。


銃砲を導入した兵制の導入


さらに軍隊を組織化し、騎士兵団のみならず、銃砲などの火力も積極的に導入した。
たとえば下図は、バーブルが1526年、デリー北方のパーニーパットでロディー朝を破った戦いだ。
大砲が設置してあるのが見えるだろう。

パーニーパットの戦い(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:1526-First_Battle_of_Panipat-Ibrahim_Lodhi_and_Babur.jpg、パブリックドメイン)。




すでに、1514年、サファヴィー軍との戦い(チャルディランの戦い)でオスマン軍が火器を使用して勝利し、火気の持つ威力は知れ渡っていた。

17世紀に描かれたチャルディランの戦いのミニアチュール(https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Chaldiran#/media/File:%22Shah_Ismail_at_the_Battle_of_Chaldiran%22,_from_Bijan%E2%80%99s_Tarikh-i_Jahangusha-yi_Khaqan_Sahibqiran.jpg、パブリックドメイン)




いずれも、日本では長篠の戦いで織田信長が信長が火縄銃を使った新しい戦法を生み出した長篠の戦いの、約50~60年前のことである。

『長篠合戦図屏風』の一部(徳川美術館蔵)(パブリックドメイン、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E7%AF%A0%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Nagashino_Teppo-Ashigaru.jpg)




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盛んな通商関係

アフガニスタンから北インドを支配したムガル帝国、イラン高原を支配したサファヴィー朝、地中海一帯を支配したオスマン帝国。

これらは陸海の両ルートを通して結びついていた。

ムガル帝国にはヨーロッパ諸国から外交使節や商人も訪れている。
海上ルートからはすでに15世紀末にポルトガルがカリカットに進出。
1510年にはゴアを獲得し、アジアでの商業上の拠点を築いた。
17世紀には、オランダ、イギリス、フランスの設立した東インド会社が進出し、ムガル皇帝や地方政権の許可のもと、各地に商館が設けられた。


イスファハーンは世界の半分」とたたえられるほどの繁栄をみたサファヴィー朝にも、ヨーロッパから商人が訪れ、外交関係が結ばれている。

史料 パリ生まれの宝石商人ジャン・シャルダンの旅行記(17世紀後半)

ペルシア人はこの町[イスファハーンのこと]の大きさをうまく言い表すために、こんな一口話を作っている。ある商人の奴隷が稼ぎを着服して、持ち物を洗いざらい持って逃げ去り、イスファハーンの町のいちばん遠くの地区に身を潜めると、そこで主人と同じ商売の店を初めたが、元の主人が何とか手がかりをつかむのに10年かかった、という話。この大都会には、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラーム教徒、異教徒[インドの宗教を信仰する人々]、拝火教徒といったあらゆる宗教を信仰する住民がいる。またここには、世界中から来た貿易商が集まっている。ここはまた、全東方世界全体に、とりわけインドに学問が広がっていく。私の覚え書きには、イスファハーンの市壁内には、モスク162、学院48、隊商宿1802、浴場273、墓地12があると記されている。

(出典:歴史学研究会編『世界史史料2』より)


また、オスマン帝国のメフメト2世がコンスタンティノープルを征服したとき、ジェノヴァ人の居留地だったガラタ地区に住む非ムスリムに対して、次のような保護誓約書が付与された。オスマン帝国は、ジェノヴァ人の商業活動を保護し、その信仰も認めたのだ。

史料 メフメト2世の保護誓約書(1453年)
朕は次のように宣誓する。…いまガラタ(ジェノヴァ人の居留地)の人々と貴族たちは、…朕に、下僕となることへの服従を示した。朕もまた次のことを受け入れた。彼ら自身の慣習と規則を実行すべし。…彼らも、朕の他の国土とおなじく、商売をすべし。海上・陸上を旅行すべし。何者も妨害し、迷惑をかけぬように。〔特別な税を〕免除されるべし。朕もまた彼らにイスラーム法上の人頭税を課そう。彼らは、他の〔非ムスリムの〕者たちとおなじく、年ごとに支払うべし。そして朕もまた、朕の他の国土とおなじく、この者たちの上から朕の貴き眼差しをそらさず、保護しよう。また彼らの教会は、彼らの手中にあるべし。彼らの儀礼に従って祈祷すべし。しかし鐘を打ち鳴らさないように。そして朕は、彼らの教会を奪ってモスクとはすまい。そして彼らもまた新しい教会を建てないように。そしてジェノヴァの商人たちは、海上・陸上をつうじて商売し、往来すべし。関税を慣習にしたがって支払うべし。彼らに対して何人も侵害しないように。

歴史学研究会編『世界史史料2』一部改変(実教出版『世界史探究』)





ムガル帝国を含め、西南アジアの帝国に共通しているのは、東アジアのような強力な貿易統制がおこなわれなかった点だ(下掲書の岸本美緒論文を参照)。


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綿布を通してつながるインドとアフリカ


「大西洋三角貿易」によって、ヨーロッパはアフリカや南北アメリカの社会を破壊した」。このようによく言われる。

でも、この見方には、根本的な見落としがある。

インドが抜けているのだ。


ムガル帝国では、同時期の中国と同じように、綿織物と絹織物の商工業が発展し、東インド会社が代価として大量の金・銀を持ち出した。
繊維製品はタカラガイとともに西アフリカにも流入し、現地の有力者はこれらを買い取り奴隷を輸出した。
奴隷貿易は、インド綿布を抜きにして成立しないものだったのだ。

しかし、現在の教科書の構造では、大西洋世界貿易の記載ページが、ヨーロッパ諸国による植民地化の単元にくっついているため、”被害者”イメージが強調され、インドの繊維工業のインパクトが薄まってしまいがちだ。

だが、当時インドを支配していたムガル帝国を語ることと、大西洋奴隷貿易を語ること。
その2つには重要な接点があった。

このような大西洋世界とインド洋世界との連関は、もともと15-16世紀のポルトガル人の航海活動によって確立し、その紐帯は17-18世紀に他のヨーロッパ人が遠隔地貿易に参入したことで強化された。こうした動きは、奴隷貿易を核とする大西洋経済の興隆と密接に結びついていた。彼らがアフリカの大西洋岸で黒人奴隷を購入するにあたって、繊維製品が最も重要であった〔…〕。とりわけ18世紀第2四半期以降は、インド綿布が極めて重要な役割を果たした。南アジアの職工は、アフリカの消費者の代わりやすい嗜好に合った色やパターンの綿布を生産することができた。そのため、ヨーロッパ人は南アジアで、自分たちで消費する綿布だけでなく、西アフリカ向けの綿布も調達しようと努めた。〔…〕
その一方、モルディヴ産の宝貝もまた、西アフリカ沿岸部の取引における主要な貨幣のひとつとして機能していた。この商品も、インド綿布と同様に、大西洋経済の興隆がインド洋世界と結びついていたことを示している。

出典:小林和夫、下掲書、253頁。


18世紀から19世紀にかけて奴隷貿易が退潮を迎えると、今度は西アフリカで生産されたアブラヤシ製品の輸出で、西アフリカの人々はインド産の高品質な綿花を積極的に求めるようになった。

本書が対象とするのは主に18世紀から19世紀にかけての西アフリカと南アジアの経済交易。西アフリカは奴隷貿易の拠点だったが、イスラムの浸透によるジハード運動、ヨーロッパ帝国の拡大といった歴史的大変動期を迎えて大西洋を挟んだ奴隷貿易は 終焉を迎え、ヨーロッパ向けのパームオイル・アラビアゴム・落花生といった換金作物の生産拠点へと転換する。その結果、アフリカの生産者は消費者へ成長する。
 彼らは英仏の安くて粗悪な綿布ではなく、品質とデザインに優れたインド綿布を求める。英仏商人は、彼らの旺盛な購買欲に応えるべくインド綿布の販売に力を入れる。こうして西アフリカの消費者とインドの綿布生産者、そこに介在する英仏商人が絡み合って、西アフリカから南アジアを 繋つな ぐ巨大な経済圏が誕生する。

読売新聞加藤聖文氏の書評より、https://www.yomiuri.co.jp/culture/book/review/20211207-OYT8T50044/
西アフリカの人々の買い求めた美しいインド綿布(小林和夫氏のインタビュー記事より、https://allreviews.jp/review/5714)
小林はインドを「握り手」とする「傘」になぞらえたモデルを提唱する



このように、インドの綿織物と絹織物輸出は、遠く離れた大西洋奴隷貿易ともリンクしていた。
オスマン・サファヴィー・ムガル帝国を 「アジアで帝国が栄えました」という話で片付けないために、着目すべきリンクはいたるところにある。








このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊