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15.3.5 ヨーロッパでの緊張緩和 世界史の教科書を最初から最後まで

東ドイツでは、1949年~61年の間にじつに250万人もの東ドイツ市民が、西ドイツに逃げ込んでいた。
その背景には、西ドイツの経済的な繁栄がある。

住民の「脱出」を阻止するため、東ドイツ政府は、西ベルリンに通じる交通路を壁により阻止する政策をとることに。

それは、1961年の8月中旬の夜、突如として現れた。

いわゆる「ベルリンの壁」である。


コンクリート製の有刺鉄線・監視塔付きの壁には、さらに電流の流れるフェンスも加わり、西ベルリンを囲い込む壁が構築されていった(一方向に伸びる壁ではなく「取り囲む壁」であることに注意)。

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しかし、1970年代には「緊張緩和」への動きが加速。

西ドイツの〈ブラント〉政権が主導して東西の緊張緩和に努めたのだ。
これを「東方外交」という。
東側陣営と積極的に対話を重ねていこうという外交方針への転換は、ポーランドのかつてのユダヤ人の都市居住区(ゲットー)でひざまずき祈りを捧げる姿に象徴される。



1975年には、不測の事態に備えてヨーロッパの安全保障を図ろうと、フィンランドの首都ヘルシンキで全欧安全保障協力会議(Conference on Security and Cooperation in Europe、CSCE)が開催される。
ソ連も含めたヨーロッパ33か国(アルバニアは参加しませんでした)、アメリカ合衆国、カナダの計35ヵ国の首脳が集まり、ヘルシンキ宣言が合意された。CSCEには紛争を解決するための実行力はないものの、軍事的衝突を避ける上で大きな前進だ。


その背景には、経済的にヨーロッパがおちいっていた苦境がある。
CSCEのの2年前、1973年に第一次石油危機が起こっていたのだ。

これまで安上がりな原油に依存していた先進工業国は軒並み大打撃を受ける。

その解決策を協議するために開催されたのが、フランスの〈ジスカール=デスタン〉大統領が主導して第一回第1回先進国首脳会議
通称「サミット」だ。


サミットとは山のてっぺん、頂上という意味がある。
先進国の首脳会議のことを指した呼称だ。

また同時期にはヨーロッパの経済統合も進展し、1973年にはイギリス、デンマーク、アイルランドが加盟している(拡大EC)。
イギリスもさすがに一匹狼ではいられなくなったのだ。


ポルトガルとスペインの独裁政権の崩壊


ポルトガルでは1968年に〈サラザール〉(1889~1970、任1932~1968)による独裁体制が続いていた
しかし、国内外で反政府運動が勃発。特に植民地では現地の独立運動に共鳴した若手将校が〈サラザール〉政権を批判するようになった。
国際社会からの批判も高まるが、ポルトガルはなんとしてでも植民地の死守を図り、運動の鎮圧に取り組んだ。
戦争費用を捻出するため、外資を導入した工業化を推進するとともに、植民地の天然資源の開発がすすんだ。
工業化の進展により農業が衰退し、従来のブラジルに代わりフランスなどのヨーロッパへの移民が急増。

そんな中、〈サラザール〉が高齢のため引退すると、大学教授〈カエターノ〉が首相に就任
植民地における反ポルトガルの戦争が長期化し、軍事費が財政を圧迫する中、陸軍の若手将校による反政府運動が盛り上がり、1974年4月にリスボンを占領、〈カエターノ〉は辞任。
新体制(救国軍事評議会)の議長に選出された〈スピノラ〉は独裁体制を支えていた制度を廃止し、釈放された政治犯がカーネーションとともに群衆に迎えられたことから、この政変を「カーネーション革命」とも呼ぶ。
こうしてポルトガルの独裁体制が幕を閉じることになるのだ。


)臨時大統領〈スピノラ〉は挙国一致内閣をつくるも、クーデタを指導した軍(国軍運動)との間に内紛が起き、〈スピノラ〉の指名した〈カルロス〉内閣は総辞職し、国軍運動の〈ゴンザルヴェス〉を首相とする内閣が成立
〈スピノラ〉大統領は、この新内閣が共産主義の影響を受けることを恐れ抵抗を試みたが、同年に辞任。
新大統領の〈ゴメス〉参謀長は、1975年に「革命評議会」を中心に基幹産業の国有化と農地改革を実行した。


若手将校の中には、植民地における独立運動の精神に感銘を受ける者も多く、早速ポルトガルの植民地帝国の“店じまい”にとりかかった。

西アフリカのギニア=ビサウ(1974)、南東アフリカのモザンビーク(1974)、西アフリカのサン=トメ=プリンシペ(1974)、カボ=ヴェルデ(1974)、南西アフリカのアンゴラ(1975)に、それぞれ独立協定が結ばれ、ポルトガルのアフリカにおける植民地は消滅した

東南アジアの東ティモールでは、独立協定の締結が難航。独立のあり方をめぐって3つのグループ(独立派の「東ティモール独立革命戦線」vsポルトガルの自治州派の「ティモール民主連合」vsインドネシア併合派の「ティモール民主人民協会」)が抗争し、1975年以降内戦に発展。同年にはインドネシアが介入し、翌年1976年に東ティモールの併合を宣言した(東ティモール内戦)。
なお、中国南部のマカオに対しては、1976年に自治を認めている

)ポルトガル政府の施策に対し、1975年の政権議会選挙では共産党に接近した国軍運動への反発が高まり、政府の実権は社会党などの穏健派や右派に移っていった。
1976年に民政移管となり〈エアネス〉将軍が大統領に進出され社会党の〈ソアレス〉が首相に任命。
しかし、基幹産業の国有化と農地改革の失敗から経済は停滞し、植民地の喪失と石油危機後の不況も経済危機に追い打ちをかけた。
そんな中、1976年に〈ソアレス〉内閣はEC(ヨーロッパ共同体)に加盟を申請。ECからの援助金をあてにしたのだ。これが1980年代のポルトガルのEC加盟につながっていくことになる。


第二次世界大戦前から〈フランコ〉将軍による権威主義的な体制の続いていたスペインはどうだろう。



1959年に、弾圧を受けていたバスク人のバスク民族主義党から、バスク祖国と自由(ETA)が分離し、1973年には〈ブランコ〉首相を殺害するなどテロリズムを展開していた。




そんな中、1975年に〈フランコ〉が死去すると、

ブルボン家の〈フアン=カルロス1世〉(位1975~2014)が即位し、ブルボン朝が復活。王政に復帰した。


民主化のプロセスが始動したスペインも、ポルトガルと同様1980年代にECに加盟することになるよ。

このように、かつて16世紀大航海時代に繁栄をきわめたイベリア半島の2国は、20世紀後半にそろって再スタートを切ることとなったわけだ。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊