ゼロからはじめる世界史のまとめ⑮ 1200年~1500年の世界
本日の「まとめ」は1200年~1500年の「輪切り」です。
日本の歴史では「鎌倉時代から戦国時代」にあたる時代の世界各地の様子を眺めてみましょう。
モンゴルにより世界がまとまり、大陸をまたぐ交流が刺激される時代
―ついにユーラシア大陸のほとんどの地域が「ひとつ」にまとまる時代がやってくるよ。
「主役」は遊牧生活を送っていたモンゴル人。
彼らがついにユーラシア大陸のほとんどの地域を制覇することになるんだ。
これまでも「遊牧民が定住民を支配する」(注:ユーラシア型国家)というパターンはあったわけだけれど、この時代のモンゴル人の新しいところはユーラシアを東西につなぐ交通の「大動脈」(注:アフロ=ユーラシア交流圏)を整備することで、ビジネスを「活性化」しリッチになった点だ。彼らが活性化させたネットワークが、のちの「世界の一体化」に大きな影響を与えたとみる人もいるよ。
なるほど。でもそれだけスケールの大きなことができるほど、軍事力もあったってことですよね。
―そういうこと。
当時の遊牧民の戦力は、人類史上「最強」だ(注:モンゴルの千戸制)。
定住民が束になって挑んでも、遊牧民にとって良い条件がそろえば無敵だ。
ユーラシア大陸を多くのヒト、モノ、カネが移動するようになったのは、モンゴル人の「圧倒的な軍事力」と「経済を重視する発想」(注:オルトク、ジャムチ)のおかげというわけだ。
その範囲は「地球全体」というわけではないから、「グローバル化」とはいえないけど、ユーラシアのビジネスルートは西のヨーロッパやアフリカ方面ともつながっていたから、少なくとも「ユーラシア大陸とアフリカ大陸の世界の一体化」ということにはなるね。
「モンゴル人によってこの地域の世界が平和になった」(注:パクス=モンゴリカ)というふうにもいわれるよ。
モンゴル人が「警察官」の役割を果たしたということですよね。
でも、ここまでの世界史をみていると、このような調子の良い状況はずっとは続かなそうですね…。
―うん、その予感は当たってる。
人や動物の往来が盛んになればなるほど、病気も一緒になって移動するよね。今までは人里離れたところや特定の場所でしか流行っていなかった病気(注:風土病)が、一気にユーラシア~アフリカレベルに広がってしまったんだ。
インフルエンザですか?
―当時、中国からヨーロッパまで猛威をふるったのは、ペストという病気だよ(注:ペストが広まった推定経路)。
特効薬もなく、各地でおびただしい数の犠牲者を出して恐れられたんだ。
当時は世界的に気候も寒くなって食料の取れ高も少なくなり、「社会不安」から反乱や戦争も多発していた。
この「危機」によって、各地の社会は大きな変化を迎えることになるよ。
それと並行して、ユーラシア大陸の「南の海の貿易」も、史上もっとも盛んになっていく。
モンゴル人の拡大によって、ユーラシア各地の政情が安定したことで、ビジネスマンたちが遠距離貿易に積極的に進出するようになっていたからだ。各地の王様も、貿易にどんどん積極的になっていく。
モンゴル皇帝につかえたイタリアの商人や、アフリカ・ヨーロッパ・アジアをまたにかけた世界旅行家、博多(はかた)商人を保護して中国との貿易で巨万の富を得た日本の将軍、西アジアから馬を大量輸入した南インドの王国、外国人を味方につけて貿易の富を吸い上げたタイ(地図)の王様、アフリカに大艦隊を率いた中国人イスラーム教徒、エジプトで伝説的な「爆買い」をしたサハラ砂漠の王様、が有名だね。
例えばどんな国の力が強くなっていったんですか?
―順番にみてみよう。
●明
中国では漢人がモンゴル人を北に追い出し、明(みん)という帝国ができている。追い出したとはいえ、「モンゴル人の影響」を強く受けた国だ。
●ティムール朝
西アジアでは、今のイランからイラクにかけてモンゴル人の末裔(まつえい)を名乗る軍人(注:ティムール)が、「モンゴル帝国の復活」を目指してティムール朝をおこして、一時的に拡大する。
この国の都はユーラシアの東西ルートの陸の「センター」(地図)として非常に栄えるけれど、のちに別のトルコ系の民族(注:ウズベク人)の侵入により崩壊してしまう。
●オスマン帝国
少し前にトルコ(地図)では、トルコ人の一派(注:トゥルクマーン)の建てたオスマン帝国という国が建国されていて、ティムール朝に一時滅ぼされたものの、その後復活している。
●モスクワ大公国
一方、ロシアでもモスクワという町の住民たちがモンゴルから独立して新しい国を建てている。周辺のモンゴル人の「跡継ぎ国」を滅ぼしながら、徐々に勢力を伸ばしていくよ。
どの国もモンゴルの影響を受けながら、その特徴を受け継いだ国家だ。
広い範囲のさまざまな民族を支配することに成功し、新しい軍事技術を導入、貿易にも熱心だったよ。
アフリカにはモンゴル人の影響はありますか?
―アフリカにも影響は及んでいる。
あちこちで「貿易ブーム」で成功した国が栄えているよ。
西アフリカではサハラ砂漠の横断貿易で、砂漠を流れる「一本川」(注:ニジェール川)の流域に巨大な国が栄えている。各地の富のあつまっていたカイロで「爆買い」をした王が、その名を轟かせている。
さらにそことエジプトの「中間地点」にあった湖(注:チャド湖)にも、貿易ルートをおさえた王国があるね。
インド洋(地図)沿いにも巨大な港町(注:スワヒリ都市)を支配する支配者が現れて、内陸から象牙とか金といった特産品を輸出してスーパーリッチになっている。
その影響から南東アフリカでは、内陸の特産品をコントロール下に置いた王国が現れ、巨岩でつくられた巨大な宮殿(注:グレート=ジンバブエ)もつくられている。
南北アメリカはユーラシアやアフリカ大陸との接点はないんですか?
―この時代のいちばんおしまいの頃、ようやく「接点」が生まれるんだ。
きっかけは、当時、ユーラシア大陸のどちらかというと「ど田舎」に位置していたスペインの王様が、「海の貿易ブーム」に乗っかろうとして「アジア・アフリカへの直行便」を開拓しようとしたことだった。
頼ったのは、イスラーム教徒たちのの「最新科学」の研究成果に接していたイタリア商人。地図の書き方(ポルトラーノ図)、航海法(カラベル船)、羅針盤(らしんばん)。「最新のテクノロジー」を駆使して、「豊かなアジア」を目指したんだ。
その背景には「キリスト教の教えを広めたい!」という宗教的な使命感もあった。
しかしそれがひょんなことに、たどり着いた先はアジアではなく、まったくの「未知の大陸」(南北アメリカ大陸)だったんだ。
びっくりですね。
―当時のヨーロッパ人にとったら「火星」に着陸するようなインパクトだよね。
議論(注:バリャドリッド論争)の末、それでもまあ現地に住んでいる人は、「宇宙人」ではなくて、自分たちと同じ「人間」なんじゃないかということになった。
でも彼らには鉄や車も火薬もないし、ヨーロッパ人の持ち込んだ病気でバタバタと倒れていくことになる。
ヨーロッパ人とアメリカ人との出会いは初めっから「対等」ではなくて、根っから「不平等」な出会いだったわけだ。
ちなみに、アメリカからはトマト、トウモロコシ、ジャガイモ、トウガラシなど、今となっては世界中で料理に欠かせない食材が持ち出され、世界中に広まっていくことになる。
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◆1200年~1500年のアメリカ
―北アメリカ大陸の南のほうではアステカ人が広い範囲を軍隊の力で征服し、さまざまな民族を服属させていた。
南アメリカ大陸のアンデス山脈のあたりでは、インカという巨大な国ができている。
しかしどちらもヨーロッパからスペイン人が進出して滅ぼされてしまった。鉄や車、それに馬がなかったことも大きいけれど、スペイン人の持ち込んだ病気が蔓延したことが大きな原因だ。
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◆1200年~1500年のオセアニア
世界中で人の移動が活発になっているようですが、オーストラリアは依然として「孤立」しているのですか?
―北のほうにナマコ(中華の食材になる)を採りに来た人たちはいたみたいだけど、内陸で狩りをして生活している人々との直接的なコンタクトはなかったようだ(文字資料がないので、詳細はわかっていない)。
オーストラリアの東にあるニュージーランド(地図)には、この時期にようやく人が移り住むよ。オセアニアの東方面に広範囲にひろがったポリネシア人の一派(注:マオリ)だ。ハワイとイースター島とニュージーランドの先住民の言葉や文化は、そういうわけで共通しているんだ。
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◆1200年~1500年のアジア
アジアはモンゴル人の進出の影響をもろに受けていますね。
―そうだね。
モンゴル人の王様は、草原地帯では「ハーン」という称号を、中国人向けには「皇帝」の称号を名乗っている。 草原地帯と定住民地帯の両方の住民を納得させようとしたわけだ。
両方を支配するなんて大変ですね。
―だよね。 だから次第に支配の「重心」は中国にシフトしていくことになるんだ。
どうしてですか?
―当時のユーラシアの貿易ルートは、陸から海へシフトしていたからだ。 ラクダで商品を運ぶよりも、船のほうが大量に運べるからね。
そこで今の北京があるところに宮殿をつくって、そこまで運河を引っ張った。その運河は南の海につながっていて、遠く西アジアのイスラーム教徒とかインド人とか、さまざまな国の人たちが船に乗って直接乗り付けることもできるようになっていたんだ。
モンゴル人は世界を股にかけていたわけですね。
―そうだよ。
中国人の文化も、「世界の文化のうちの一つ」に過ぎないという認識だ。
だから役人には中国人ではなく、西のほうのイラン人などが多数つかわれた。徹底した能力主義だ。
モンゴル人の支配は続いたんですか?
―長くは続かない。その後、定住民の支配者がモンゴル人を追い出すことになるよ。それで「皇帝」を名乗って、モンゴル人から「皇帝」の称号を奪い返した。
でもモンゴル人は依然として北のほうで勢力をキープしているから「滅んだ」わけではないよ。
また、草原地帯の各地では、「モンゴルの建国者の血を引く支配者」がさまざまな国をつくっていくよ。
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◆1200年~1500年のアフリカ
―アフリカの東側に広がるインド洋では、この時期、貿易が大盛況。
東アフリカ沿岸の港町にはイスラーム教徒やインド人の商人も詰めかけ、インターナショナルなビジネスの中心地となっている。
バントゥー系の人たちの言葉と、アラビア語が混ざって「スワヒリ語」という新しい言葉が生まれたのもこのころのことだ。
西の方はどんな感じですか?
―西のほうも貿易は盛んだ。
サハラ砂漠では、地中海の沿岸から金(ゴールド)を求めて商人がラクダ貿易をしていたよね。
ヨーロッパにあったポルトガルという国の支配者は、「サハラ砂漠を通らずに、直接海岸から金をゲットできないか…」ともくろみ、船を改良して西アフリカに進出したんだ。
アフリカの人たちはポルトガル人に対してどんな対応をしたんですか?
―「いい貿易相手ができた」と喜んだ王様もいたよ(注:コンゴ王国)。
内陸の敵対する民族を「奴隷」として販売し、利益を上げる者もいた。
モンゴル人の拡大の影響は北アフリカにはありませんでしたか?
―あったよ。
モンゴル人がイラク(地図)を支配していたイスラーム教多数派(注:スンナ派)のリーダーを殺害し、400年以上続いた国は滅亡。
都市バグダード(地図)はモンゴル人の支配下となった。
このリーダーの一族を、エジプトの軍人王国が「保護」したことで、エジプトが一気にイスラーム教の「センター」に躍り出るよ。
貿易も盛んになっていたから、ヒット商品となっていたサトウキビの輸出で経済的にも潤っている。
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◆1200年~1500年のヨーロッパ
―この時期のヨーロッパでは、各地で「強い国づくり」を目指す支配者が現れるよ。
たとえ領土が狭くても、農業やビジネスをできる限り盛んにする。
そして、ルールをちゃんと整えることで様々な身分の人たちをコントロールして、強い国をつくろうとしたんだ。
ヨーロッパには遊牧民(モンゴル人)の影響はあったんですか?
―ヨーロッパの東のほうは、草原地帯とつながっているものだからモンゴル人がカンタンに侵入してきた。今のロシアのあたりはなんと200年以上もモンゴル人の支配下に入っているよ(注:「タタールのくびき」)。
モンゴル人に支配のシステムを学び、そこから独立したのが今のロシアのルーツなんだ。
ロシアはモンゴルの支配から這い上がったくにだったんですね! では、それよりも西のヨーロッパにはどんな影響があったんですか?
―西のほうはモンゴル人の影響は直接的には受けなかった。
だけどヨーロッパは狭い。
そこで、「限られた土地」をめぐって争いが繰り広げられることになる。
ヨーロッパの支配者たちは農民たちをガッチリ支配しようと、きめ細かいルールをつくってコントロールしようとする傾向にあった。
貿易はさかんですか?
―北のヨーロッパでは魚の塩漬けや木材がヒット商品となり、工業化が進んでいた南のイタリアの製品(羊の毛でできた服やカーペット)と交換された。
でも、そんなヨーロッパよりもはるかに工業がさかんで特産品がたくさんあったのは先進地帯のアジアだった。
じゃあアジアと取引すれば儲かりそうですね。
―でしょ。でもそれがなかなかできないんだ。
アジアとの取引は地中海の東のほうの貿易センター都市(注:イスタンブール)や、エジプトのカイロという大都市でおこなわれていたんだけど、商売相手はイスラーム教徒。
キリスト教徒にとっては肩身が狭かった。
しかも小アジアで、オスマン帝国というイスラーム教徒を保護する国が勢力を広げると、しだいにイタリアの都市の景気が悪くなっていった。
イタリアはアジアとヨーロッパをつなぐ役割をしていたんですね。
―そうだよ。中国とインドをつなぐ役割をしていた東南アジアに似ているね。
でも。アジアとの貿易の商売が「あがったり」になると、しだいにイタリアのビジネスマンは余ったお金を新しい「もうけ話」に使おうとした。つまり、地中海を通らず、「別のルート」でアジアやアフリカと貿易する方法を検討するようになったわけだ。
各国の王様は彼らのプロジェクトに賛同したんですか?
―いち早く強い国づくりに集中することができていたスペインやポルトガルは、イタリアの商人のプレゼンを聞いて、「実現したら美味しい話だ!」と飛びついた。
その結果、アフリカを南にまわってアフリカやインドと直接貿易するルートが開拓されたんだ。
その思わぬ副産物が「アメリカの発見」ということなんですね!
―そういうわけだ。
その流れに乗りそこねたのが、イタリア以北にあった王様の国々だ。
これらの国々は、キリスト教の教会に対抗して強い国をつくろうと、国づくりを整え、銃や大砲といった「新兵器」を導入してのし上がっていった。
代表格はフランスやイギリスだ。
フランスとイギリスはこの時代、先進工業地帯のフランドルやワインの産地をめぐって、100年にもわたる戦争(注:その名も「百年戦争」)を繰り広げている。
両国では結果的に王様のパワーが強まっていくよ。
対するキリスト教の教会も、本部のローマを中心に「負けじ」と支配を整え「教皇を中心とする国」(注:教皇庁(きょうこうちょう))を整備していった。ヨーロッパ全体をキリスト教という”正義”によってコントロールしようとしたわけだ。
でも結局は、ヨーロッパ各地で「王様の国」が強くなっていくと、次第に実力を失っていくことになるよ。
次第に周りの国々も、「自分の国の利益」という現実的な事柄を大切にするようになっていったんだ(注:マキャヴェッリ)。
文化も、キリスト教の「縛り」から自由な、より「人間らしい感情」を大切にする文化へとシフトしていくよ(注:ルネサンス)。
1200年~1500年の世界のまとめは以上です。
次回は、1500年~1650年の世界を眺めていきましょう。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊