世界史の教科書を最初から最後まで 1.3.2 地中海征服とその影響
ローマの軍隊の中核は重装歩兵。
その担い手は、中小規模の農民だった。
だからといって平民の意見が自由に国の政策に反映されたわけではなく、貴族の運営する元老院が圧倒的な力で貴族・平民をまとめ上げていたところが、ローマの政治の特色だ。
イタリア半島南部のギリシア人エリア(マグナ・グレキア)も征服され、前3世紀前半(今から2300年ほど前)には、イタリア半島全域がローマの領土となる。
この時代のローマには王様はいないから、「共和政ローマの時代」というよ。
ローマは征服した各地の都市を、ギリシャを征服したマケドニアのフィリッポス2世のようにまとめて支配しようとはせず、個別に同盟を締結した。
まとめて支配してしまうと、支配するローマ vs 支配される諸都市 のように、「ローマ被害者の会」がつくられ一致団結して反乱を起こされちゃう恐れもあるからね。
だから都市ごとに条件に差をもうけ、服属した住民の一部にはなんと「ローマの市民権」を与えたんだ。
待遇に差をもうけることで、支配される側がまとまらないようにしたわけだね。
いわゆる「分割して、統治せよ」の原則だ。
こうしてイタリア半島を統一したローマが次にいどんだ敵は、地中海の商業を束ねるフェニキア人の植民市、カルタゴだ。
イタリア半島を「ブーツ」の形に見立てると、シチリア島という「ボール」の向こう側にあるアフリカ大陸の港町がカルタゴにあたる。
カルタゴにとってもローマの進出は脅威だったのだ。
象にアルプス越えをさせたカルタゴの将軍ハンニバル(前247〜前184)と、ローマの将軍スキピオ(前235頃〜前183)の対決のように、後世にも語り継がれる名勝負も生まれた。
こうして計3回のいわゆる「ポエニ戦争」(前264〜前146)の結果、カルタゴは最後はローマの手に落ちた。
前2世紀半ばにカルタゴの支配エリアも獲得したローマは、現在スペインやポルトガルがあるイベリア半島や、各地にあったのカルタゴの植民市も獲得。
さらにアレクサンドロス 大王の後継者の治めていたアンティゴノス朝マケドニアと、ギリシャの諸ポリスをも支配エリアに入れると、一挙に地中海の大半の領域を支配するようになっていた。
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しかし、領土が広がるというのは良いことばかりではない。
これだけ立て続けに戦争が続けば、悪影響も出てくる。
例えば重装歩兵の主力であった中小規模の農民たちが、出征中に農業どころではなくなり土地が荒廃。経済的な基盤を失った農民たちは、ローマに食料や仕事を求めて流れ込んだ。
ローマにさえ来れば、輸入ものの安い穀物にありつくことができたからね。
穀物は、ローマが戦争でゲットした属州(プロウィンキア、海外の領土)から流れ込んでくる。
だからこそ、貧しい人たちは「戦争によってもっと属州を広げて、穀物を確保してほしい」と願ったわけだ。
属州の広い土地は、ローマの支配層の考え方も変えていった。
属州は、本来は国の土地、公有地である。
しかし、そこで多数の奴隷をつかった大農園(ラティフンディア)を経営すれば、輸出によって利益をあげることができる。
下に挙げた史料のように、古代ローマ社会は階級の流動性が高く、商才をいかして富裕になった解放奴隷もいた。彼らは、読み書きや計算ができ、富裕層の家内奴隷(執事や秘書)として活躍することで、お金をためて自らを買い戻したり、主人によって解放されたりすることで自由を得たのである。
属州を実質的に「統治」する権利を手に入れた元老院議員や、「税金を代わりに徴収する」(徴税請負)という名目で事実上「統治」した「騎士」階層と呼ばれる人々(元老院の議員に次ぐポジションを獲得するようにもなっていく)も出現。こうして、しだいに支配階層による属州の「私物化」が進んでいった。
そんなわけで、「中小規模の農民が重装歩兵として国防をになう」という、ローマのいわば”初期設定“はガラガラとくずれ、ローマの一体性もなくなっていくことになってしまったんだ。
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